夢を見た。なつかしい夢を。とても小さい頃の記憶だった。
日当たりの良いリビングで、ぼくは父さんに抱えられて、一緒に本を読んでいたんだ。勇者が、悪い魔法使いを倒して、世界を平和にするお話。
時折ぼくは、背後の父に、読めない漢字の読み方なんて聞いて……。
母さんは、そんなぼくらに優しく微笑んで、美味しいクッキーとジュースを出してくれた。でもぼくは、何かに夢中になると美味しいお菓子もジュースも目に入らなくなるから、だから母さんがお菓子を持ってきてくれると、父さんは「さあ、休憩にしよう」と言って、ぼくの手から本を取り上げるのが役目だった。
その頃のぼくは、まさか自分が魔法使いだなんてことも知らずに、これから数年後にホグワーツに入学するなんて夢にも思わずに、それどころか、自分は何者なのか、なんて考えたこともない、ごくごく普通の平凡な子供だった。
そんなぼくがその本を読み終わった頃、父さんはこう言った。
『魔法使いも、悪い奴らばっかりじゃないんだよ……』
「そうなの? でも、本の魔法使いは、だいたいが悪いやつらだ」
『それはね、秋。魔法を使えない人たちは、魔法が《怖くて危ないもの》のように見えちゃうからだ。《怖くて危ないもの》だから、それを扱う人も《怖くて危ない人》なんだと思い込んでしまう。
この世界は、魔法を使えない人がほとんどだ。だから、そういう思い込みが多く出回ってしまう。確かに魔法はいろんなことが出来る、出来てしまう。怖いことだって、危ないことだって。
でも、真に怖くて危ないのはね、誰もが持っている、魔法使いじゃない普通の人たちも持っている、自分の心なんだよ』
父さんの話は、その当時は難しくって、よく理解出来なかった。でも、わからない、というのはなんだか悔しくて、わかったような振りをしてみせたんだ。
今なら分かる。どうして、父さんがあんなことを言ったのか。
◇ ◆ ◇
待ちに待った日曜日がやってきた。ロン達が、ぼくたちを迎えにくるのだ。
バーノンおじさんは一昨年メイソンさんの接待の時に使った一張羅の背広を着込み、ウィーズリー家の人々を見た目で威圧しようと頑張ってる。でもウィーズリー家の人たちは魔法族だから、マグルの洋服なんて、ましてや背広の善し悪しなんてわかんないだろうから、正直無駄だとは思うけど。
ペチュニアおばさんは、神経質そうにクッションを引っ張って、元々ない皺をさらに伸ばそうとしている。ダドリーは、本人の横幅よりも狭い肘掛け椅子に身体を押し込んでは、出来る限り小さくなろうとしている……のかな?
そわそわしているのは、ぼくやハリーだって一緒だ。緊張しているおじさんたちを見ていたくなくて、二人で玄関の階段に腰掛け、時計を見上げて時間を潰していた。
一体彼らはどうやって来るのだろうか。昨日の夜話し合ったけど、結局結論は出ず仕舞いだ。空飛ぶ車はホグワーツで野生を謳歌しているし、他に車を用意するのだろうか。
まさか箒で来る訳がない……とは言い切れないのが悲しいところだ。
「連中は遅れとる!」
約束の五時を過ぎたところで、我慢ならないといった風におじさんが叫んだ。ぼくとハリーは肩を竦め、目配せする。まだ、ついさっき五時を過ぎたばかりだというのに、神経質なんだから。
とはいえ、五時を十分、十五分と過ぎるごとに、ぼくたちも段々と不安になってきた。ウィーズリーおじさんだってお役所で働く役人なのだから、時間には正確なはずだ。それがこんなに遅れるなんて、何か途中で事故にでもあったのだろうか……ウィーズリー家の人が事故にあうなんて、何だか考えられないけれど……。
五時三十分が過ぎて、ぼくらの不安は最高潮に達しようとしていたし、おじさんとおばさんの緊張の度合いもMAXみたいだった。
「大丈夫かな? おじさんたち」
ハリーが耐えられないと言った風に零した。勿論、この「おじさん」とはバーノンおじさんのことではなく、ウィーズリーおじさんのことだ。
「きっと大丈夫だよ。何かあれば、ふくろう便で送ってくれてるだろうし……」
「けど、誰もふくろう便が出せないくらい、酷い状況だったら?」
「それは……」
ぼくは口ごもった。ハリーから目をそらし、上手い返しを考える。しかしぼくの思考は、居間から聞こえてきたおじさんとおばさん、それにダドリーの悲鳴で邪魔された。
「何!? 何が起こったの!?」
居間で何やら悲鳴と怒号、ドタバタとした足音が聞こえる。ぼくらは慌てて立ち上がった。
ちょうどその時、居間からダドリーが出てきて、ぼくらに目もくれず、尻を抑えて(彼なりに)急いでキッチンへと逃げ込んでしまった。
急いで居間に入ると同時に、居間にあった暖炉が凄まじい音を立てて吹き飛んだ。土煙がもうもうと上がり、ペチュニアおばさんがふらりと倒れ込むのを慌ててバーノンおじさんが支える。
怯える彼らとは逆に、ぼくとハリーは目を輝かせて駆け寄った。
「ウィーズリーおじさん!」
「やぁ、ハリー、アキ。元気だったかね?」
そう言って柔らかな微笑みを浮かべるウィーズリーおじさんに、ぼくらも負けじと笑顔を見せた。
ぼくらの頭をぽんと軽く撫でたあと、ウィーズリーおじさんはバーノンおじさん達を見つけ、挨拶をしようと歩いて行く。代わりにぼくらは、ウィーズリーおじさんと一緒に来ていたロンと双子に囲まれた。
「よう、ハリーにアキ。元気してたか?」
「元気してたに決まってるだろ、相棒。だって誕生日にあーんな素敵なプレゼントが届いたんだから」
「あぁ、とっても素敵だよ、君らの感性は」
大きな布包みを送ってきたと思ったら、そこから大量のゴキブリ・ゴソゴソ豆板が……これ以上は言わないでおこう。スタッフが美味しく頂きました……うっぷ。
「トランクは上だよな? 俺たちが取ってきてやるよ」
そう言って、双子はぼくらにウィンクして部屋を出て行った。きっと部屋の外にいる「噂の」ダドリーを一目見ようと思ったのだろう。
一昨年彼らはぼくらを迎えに来たから、部屋の場所も覚えていたのか。
「けど、君ら、一体どうして暖炉から?」
ハリーが尋ねると、ロンが答えた。
「パパがこの家の暖炉を『煙突飛行ネットワーク』に加えたんだ。マグルの暖炉を繋ぐのはホントはやっちゃダメなんだけど、そっちの部署にパパがちょっとしたコネがあってさ」
「なるほどなぁ」
ダドリーが部屋の中に逃げ込んできたのを目敏く見つけたウィーズリーおじさんが、ダドリーに柔らかく話しかけた。しかし魔法恐怖症のダドリーは(魔法恐怖症はダーズリー家全員が患っているようなものだが)怯えるばかりで、ちっとも会話が成り立っていない。その様子を面白おかしく眺めつつ、ぼくはロンの話に相槌を打った。
「あー、では、そろそろ行こうか」
双子がぼくとハリーの荷物を持って戻ってきたのを見て、ウィーズリーおじさんは言った。杖を取り出すと、暖炉──今はただの壁の穴、だけど──に向け、「インセンディオ!」と呪文を唱える。杖の先から火花が飛び散り、一瞬後には暖かな炎が暖炉から立ち上り始めた。
この暖炉だって、自分が一生のうちに本当に火を灯すことになるとは思いもしなかっただろうに。
その後おじさんは、ローブのポケットからフルーパウダーを一摘み炎に振りかける。すると炎はパッとエメラルド色に変わった(誰とも知れぬヒッと怯えた声が聞こえた気がした)。
「さぁ、フレッド、行きなさい」
「今行くよ。あっ、しまった──ちょっと待って……」
フレッドが一歩踏み出したその瞬間、ぼくのトランクに躓いて、フレッドは少しよろめいた。その動きはあまりに自然で、ぼくは思わず彼に駆け寄ったが──彼のポケットから落ちたお菓子の包み紙に目が止まった。美味しそうなヌガーだ。
フレッドは慌ててお菓子を拾い集め、乱暴にポケットに突っ込んだ。ぼくは足元に転がった一個を摘まみ上げ、フレッドに渡そうとしたが、それはジョージに阻まれた。
「持ってなーアキ。俺たちの最高傑作だ」
「今のところのな」
二人に耳打ちされ、肩を叩かれる。と、いうことは……ぼくはもう一度、手の上のお菓子の包みをじっと見つめた。
赤と緑の包装に、丸いフォントで書かれた「ヌガー」の文字。その裏にはデフォルメされたピエロの絵。随分凝っている。言われなければ手作りだと分からないくらいだ。双子の手作りだと知らなかったら、無邪気に口に入れるところだった。ふぅ、危ない危ない。
フレッドとジョージとぼくらのトランクが消え、そしてロンも炎の中へと消えて行った。残されたのはぼくとハリーとウィーズリーおじさんだ。
「じゃあ、ハリーとアキ」
ウィーズリーおじさんに促され、ぼくらは炎へと身体を向けた。首だけをダーズリー一家に向けると「それじゃ……さよなら」と挨拶する。
しかしダーズリー一家は何も言わず、ただ強ばった表情でぼくとハリーを交互に見つめるだけだ。早く厄介事が去ってくれればいいと心から願っているに違いない。
返事が来ることなんて期待していないぼくらは、そのまま背を向けて歩き出したが、ウィーズリーおじさんに引き止められた。
ウィーズリーおじさんは、信じられないと言った表情でダーズリー一家に声を掛けた。
「ハリーとアキがさよならと言ったんですよ。聞こえなかったんですか?」
「いいんです、本当に。そんなことどうでも」
「来年の夏まで甥御さんに会えないんですよ。勿論、さよならと言うんでしょうね」
ハリーの言葉に耳を貸さず、ウィーズリーおじさんは、今度は先ほどよりも少し強い口調でそう言った。
バーノンおじさんの顔が歪むも、ウィーズリーおじさんが杖を握ったままだということを思い出したようだ。吐き捨てるように「それじゃ、さよならだ」と言った。
「じゃあね」
ぼくらもそれだけを返すと、軽く手を振り、炎の中に足を踏み入れた。木漏れ日のそよぐ風のような暖かさで、眠気を催すくらいに心地よい。しかし突然背後で妙な音とペチュニアおばさんの悲鳴が上がったため、ぼくらは振り返った。
見えたのは、ダドリーがテーブルの脇に跪き、三十センチほどの紫色のなんだかヌメヌメしたものを口から出して、ゲホゲホ咽せている光景だ。そして、すぐ近くには、今もぼくのポケットに同じものが入っている、色鮮やかなお菓子の包み紙。
ペチュニアおばさんは半狂乱でダドリーに生えたそれをもぎ取ろうとするし、そりゃ勿論ダドリーは抵抗して暴れるし、バーノンおじさんも喚き出したし、ぼくらも優雅に煙突飛行してる場合じゃない。
「ご心配なく! 私がちゃんとしますから!」
ウィーズリーおじさんが杖を手にダドリーに駆け寄ったが、ペチュニアおばさんは悲鳴を上げてウィーズリーおじさんからダドリーを守ろうとダドリーに覆い被さった。ウィーズリーおじさんは困って色々言って落ち着かせようとしているが、逆効果だ。
阿鼻叫喚、とはこのことを言うのだろうか。混乱の極みだ。
「ハリー、アキ! 行きなさい! 早く! 私がなんとかするから!」
何を言っているんだ、こんな面白いものを見逃すなんて、と思ったが、バーノンおじさんが投げた置物が暖炉の枠に当たってド派手な音を立てたので、ここはウィーズリーおじさんに任せようと、ぼくはハリーと頷き合った。
「隠れ穴!」
ハリーが叫ぶと、視界が歪んだ。
栓が抜かれた洗面台の水の視点のように、今まで見えていたダーズリー家の居間は消えていき、暗闇だけが残された。
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