ぼくに呼び出されたフィアン・エンクローチェは、どことなく挙動不審だった。それでもぼくの前に堂々と姿を現したのだから、大したものだと思う。
ホグワーツには、使われていない、何の用途に使う予定だったのかすらも分からない部屋がいくつもある。その中の一室、レイブンクロー寮からもグリフィンドール寮からも、どの寮からも程よく遠い、誰も立ち寄らないような場所にある小部屋に、ぼくは彼を呼び出した。
このような小部屋の存在を知れたのは、ひとえに悪戯仕掛人、彼らと共に目下製作中の、地図のおかげに間違いない。
「なぁに? 一体どうしたの、幣原ちゃんから呼び出してくれるなんて。俺に何の用?」
鼓膜を震わすその声に、脳みそが痺れるような感覚を覚える。
止まりそうな息を、意識して吐き出した。気を抜くと震え出しそうになる身体を、意志で抑えつけ、ぼくはまっすぐに彼を見た。
「……ぼくはずっと、君に謝らないといけないと思って生きてきた」
エンクローチェは、少しだけ驚いたようにぼくを見つめた。
「四年前の、あの日……ぼくは君に、決して消えない傷を負わせてしまった。ぼくの精神力が足りなかったからだ。あの日の全ては、ぼくの責任だ。もし君に障害でも残っていたとしたら、ぼくはどうやって償っていいのか分からない……本当に、すまない」
心から、頭を下げた。
エンクローチェはしばらく黙った後、冷ややかな声で「で?」と訊ねた。
「だから? アンタが謝ったところで、どうにかなんの? もしかして、俺とオトモダチになりたいの?」
「さすがのぼくも、そこまでお人好しじゃないよ。……謝ったのは、ぼくが自分自身にケジメをつけるためだ。ぼくは謝った。君はひとまずは受け止めてくれた。それと、後はまぁ……ここ数年の地味な嫌がらせ分も鑑みて、丁度いい感じになるんじゃないかと思っているよ、ぼく個人としてはね」
エンクローチェは、それについては否定しなかった。腐ってもレイブンクロー生、見積もりはそうそう誤らないようだ。
「ぼくが君を呼び出した理由について、分からないわけじゃないだろう?」
ぼくは僅かに唇の端を釣り上げると、表情を消した。
「もう一生、ぼくに関わるな」
エンクローチェは、一瞬怯んだようだった。
しかしすぐさま軽薄な笑みを浮かべると、「嫌だと言ったら?」と絡むように言った。
「君がもう二度とぼくに関わりたくないと思うまで、君を痛めつけるまでだよ」
今度こそ、エンクローチェの顔に恐怖の色が刻まれた。
ぼくが彼に一歩踏み込むと、ぼくを畏れるように半歩下がる。
「は、は……冗談が過ぎる」
「冗談だと本気で思っているのかい? ぼくは去年の魔法魔術大会の優勝者だ。校内で、魔法の腕でぼくに敵う者は誰一人としていない。『呪文学の天才児』──君がつけてくれた異名は、奇しくも本当のものになってしまったね」
一歩ずつ、ぼくはエンクローチェに近付いていく。
彼は後ろに下がっていったが、やがて部屋の壁に背中が触れた。
「近付くなっ!」
エンクローチェの言葉に、ぼくは足を止めた。杖すら持たぬぼくに本気で青褪め恐怖するエンクローチェを、酷く悲しいと思った。
ぼくの持つ力は、ここまで他人を恐怖に陥れるものだということを、思い知る。
忘れてはいけないのだ。
見誤ってはいけないのだ。
取り違えてはいけないのだ。
測り間違えてはいけないのだ。
自分の真の力を。莫大な力の分量を。
──あぁ、それでも、やっぱり、ぼくは。
「……もう、ぼくに関わらないで。お願いだよ」
そう呟いて、ぼくはエンクローチェに背を向けた。
もう二度と、彼はぼくに手を出してはこないだろう。彼はそういう男だと、ぼくには確信があった。
──それでも、ぼくは。
俯いて、歯を食いしばった。
──怖がられるのは、寂しいや。
◇ ◆ ◇
目が覚めると、朝だった。ぼくのすぐ隣では、リーマスが心地よさげに熟睡している。
うんとぼくは伸びをすると、ぼんやりとリーマスを見つめた。そして、真新しい傷が首筋にあるのに目を止める。
それは首の真ん中あたりから始まって、パジャマの中まで続いていた。昨日はそう観察する余裕がなかったから気付かなかった。
パジャマのズボンのポケットから杖を抜くと、そっとリーマスの傷口に当てる。
なぞるように杖を動かすと、傷はもうほとんどわからないくらいに消えてしまった。
少しの間、ぼくはそのままの体勢だった。しかし窓ガラスをどのふくろうも叩かなかったことで、ぼくの想像は確信に変わる。
「……やっぱり、か」
未成年の魔法使いは、幣原秋の時代ならともかく、学校の外で魔法を使うことは禁止されている。
もし魔法を使ったら、魔法省からの警告を知らせるふくろう便が速攻で飛んでくるはずだ。そう、一昨年のハリーのように。
しかし、ふくろう便は飛んでこなかった。それが何を意味するのか。
それは、ぼくの身体が幣原秋のものだということだ。幣原秋はリーマスやシリウスと同い年、年齢としては三十を超える、もういい大人だ。
彼の身体を使わせてもらっているから──彼と同居しているから、ぼくは未成年魔法使いとしてカウントされないのだ。
「…………」
様々な感情を振り払った。
兎にも角にも、これは一つの収穫だ。ぼくは未成年だからと気兼ねすることなく、いつでも魔法を行使することが出来る。
いつでもどこでも、ハリーを守ることが出来る。それはぼくにとって、朗報以外にないだろう。
「ん……」
と、小さな声と共に、リーマスが身じろぎした。やがてゆっくりと目を開け、その瞳にぼくを移すと、にっこりと微笑んだ。
「……やぁ、アキ。おはよう」
ぼくも笑顔を浮かべる。
「おはよう、リーマス」
リーマスが作ってくれた朝食は、甘くて美味しいホットケーキだった。
たっぷりの蜂蜜に添えられたホイップクリーム、ほかほかの紅茶。学生時代から、甘いものが好きな味覚は変わっていないらしい。
「そう言えば、僕の後任──闇の魔術に対する防衛術の教授は、あのマッド -アイ・ムーディなのかい?」
「確かにムーディ先生だけど……あの、って?」
「おや? 往年の素晴らしい闇祓いだって話、聞いていない?」
「チラッと小耳に挟んだ程度」
「じゃあ、この話は知らないんだねぇ」
「どの話?」
「ムーディは君の……幣原秋の直属の上司だよ」
フォークを取り落とした。お皿の上で跳ね返り、やかましい音を立ててテーブルの下に落下しようとする。人差し指をくいっと上げ、フォークを「浮遊」させると、難なくキャッチした。
その間も、リーマスを唖然と見つめ続ける。
「いやー……嘘でしょ?」
「嘘じゃないんだなー、これが。不死鳥の騎士団……っと、これもまだ知らないのか。ヴォルデモートに対抗するレジスタンス集団にも、ムーディは参加していた。結構可愛がられていたもんだよ、君は。まぁ、あの人なりに、だから、ちょっと可愛がり方が普通とは違うけど」
「えー……」
どうも信じられない。腑に落ちない、といった表情をしているぼくに、むしろ疑問を抱いたリーマスが「どうしてそんなに頑なに信じようとしないんだい?」と尋ねた。
「んー……なんでか分かんないんだけどさ。ぼく、あの人に近付くと、なんかどうにも嫌な気分になるんだ……嫌、というより、怖いのかな。ぼくはムーディ先生に、本能的な恐怖を感じているんだ」
ぼくの言葉を聞いて、リーマスは眉を寄せた。
「本能的な恐怖? それは……妙だね」
「妙だろう? だから不思議に思っているんだ。そんなに幣原が可愛がられていたとするなら、近付かれただけで全身の毛が逆立つような気分に一体どうしてさせられるのか、ぼくにはさっぱり分からない」
「……凄まじいスパルタ指導でも受けてたのかね」
「あー……」
それは盲点だった。
確かに、あの人の「指導」を──本人は善意で行っていたとしてもだ──受ければ身が持つまい。その恐怖が骨身に沁みているから、そんな気分にさせられるのかもしれない。
でも──。
「……どうなんだろうねぇ」
ぼそりと呟いた。リーマスも思慮深げに「覚えておくよ。もしかしたら、とても大事なことなのかもしれない」と頷く。
「……ご馳走様。もうぼく、行かなくちゃ。今年も授業がみっちり詰まっているんだ」
「学生も大変だね」
「楽しいだけじゃいられないよ。……っと、あと一個聞きたいことがあるんだった」
「何かな?」
リーマスから髪紐代わりにリボンを借り(夜中だったので寮に忘れてきてしまったのだ)、髪を結びつつ、ぼくはリーマスを見た。
「幣原秋は、セブルス・スネイプのことが嫌いなのかい?」
リーマスはぼくの言葉に、驚いたように目を泳がせた。
「……何か、言われたのか?」
「まぁね。『私に近付かない方がいい』って。今までとは随分と対応が違ったから驚いたけど……その様子じゃ、幣原とスネイプ教授の仲は険悪なんだ」
「険悪……そんな言葉で表せるんならむしろ、良かったかもね」
「……どういうこと?」
目を細め、リーマスが言ったことについての真意を問う。
しかしリーマスはそれ以上は答えようとせず、「ほら、授業に遅れてしまうよ」と言うと、いつも通りの微笑みを見せた。……何も聞くな、ってことか。
「またおいで、アキ。今度はケーキでもご馳走しようじゃないか」
「それ、単純に君が作りたいだけだろう?」
くすりと笑った。手を振る。
リーマスの笑顔は、やがて炎に紛れ、見えなくなった。
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