八月十二日は、ぼくとハリーの言い争いから始まった。
「何さ、一体何の騒ぎ……」
ぼくらの声に驚いたか、ロンがベッドから半分ずり落ちながら眠け眼を擦っている。
ぼくらが二人で「「ロン!」」と叫ぶと、ずるっとベッドから滑り落ちた。驚かせてしまったようだ。だがしかし、今はそんなのに構ってられない。
「びっくりした、何さ、二人して……」
「だってハリーが、法廷にシャツとジーンズで行こうって言うんだぜ!? 信っじられない、正装に決まってんだろ!」
「まだ十五の子供が、着慣れない正装なんてしてっても変じゃないか! ロン、何か言ってやって……」
ロンは目を白黒させてぼくらを交互に見ていたが、やがて「あー、うん、どっちでもいいんじゃない……?」と曖昧な笑みを浮かべた。
「何だよ使えないな!」
「ロンの優柔不断! 見損なったよ!」
「なんで僕が罵られてんの!?」
その時、バチンという大きな音がした。同時に背中に重みが乗り、堪えきれずに床に這い蹲る。
「おぉ、ごめんなアキ、君だったとは」
「肋骨とか折れてないかい? 君を潰しっちまう気はなかったんだぜ」
そう言ってぼくの背中から飛び降りるのは、フレッドとジョージの双子だ。
うぐう、とぼくはくぐもった声を漏らす。成人男性二人分の重みは、さすがに痛かった……。
「ねぇジョージ、聞いてよ。アキがね、僕に正装して行けって言うんだよ。そもそも正装なんて持ってないって言うのに……」
「ほほう? 正装とな」
フレッドとジョージの目がキラーンと光る。
しまった、聞く相手を間違えた、とハリーも瞬時に悟ったようだ。しかし、黙り込むのが少しばかり遅かった。
「ハリーよ、ここをどこだと心得る?」
「純血の名門も名門、あのブラック家本家のお宅であるぞ」
「煌びやかな正装の一着や二着」
「クローゼットを開けるとそこはめくるめく布の洪水」
「ついていたであろう値札を考えるのも恐ろしい」
「そんな、庶民の感覚とは懸け離れた大貴族、それこそブラック家!」
「ってなわけで、シリウス呼んでくるぜ」と消える双子に、ハリーはため息をつき、ぼくは勝利のガッツポーズを決めたのだった。
「なんか、変じゃない?」
「変じゃない、全然変じゃない」
「おお、似合ってるぞ。さすがはジェームズの息子だな!」
シリウスは上機嫌にハリーのネクタイを直している。
シリウスのこんなに晴れやかな顔を見たのは久しぶりだ。まぁ確かに、ぼくだってプリベット通りに閉じ込められ続けちゃあ気が滅入って仕方がないだろう。
シリウスの気持ちも分かるというものだ。
「私は一緒には行けないが、ハリー、君の無罪を誰よりも強く信じているのは私だということを忘れないで欲しい。……あと、これも」
そう言って、シリウスはハリーのネクタイに、金色に輝くネクタイピンを刺した。
真ん中にはルビーが埋め込まれている。
「これは?」
「ジェームズが卒業祝いに私にくれたものだ。きっと、君を守ってくれることだろう」
へぇ、とハリーは目を輝かせてそのネクタイピンを見つめた。
「カッとなるなよ。礼儀正しくして、事実だけを言うんだ。そして、何度も言うが、アキの──幣原秋のことは一言も口にするなよ」
「分かってるよ、シリウス」
「……そうだな」
そう言ってシリウスは笑うと、ぼくを見て「ハリーをよろしくな」と言う。
ぼくは小さく頷いた。
ぼくとハリー、それにアーサーおじさんは、マグルの地下鉄を乗り継ぎ、魔法省までやって来た。
アーサーおじさんは、ぼくとハリーの予想通り、地下鉄に乗るのは初めてで、ぼくとハリーは一時すらもおじさんから目を離せなかった。だってすぐさまあっちへふらふらこっちへふらふら面白そうなものがあったら吸い寄せられていくんだもの……。
まぁ、そのおかげで、ハリーが緊張でガチガチにならずに済んだのかもしれない。
赤い電話ボックスからぼくらは魔法省に入ると、人の波に従い歩き出す。
途中、『魔法族の和の泉』をハリーがじっと見ていた。ホグワーツを退学にならなかったら財布の中身全部いれよう、とでも考えているのかもしれない。
エレベーターを乗り継ぎ、アーサーおじさんの働く『マグル製品不正使用取締局』へ。
ここへ来る途中、『闇祓い本部』にいたキングズリーがぼくらを呼び止める。仕事の話にプライベートを混ぜながらアーサーおじさんと喋る傍ら、キングズリーはぼくに一冊の雑誌を押し付けてきた。
「きっと気に入るだろう」
唇をほとんど動かさず、キングズリーは片目を瞑ってみせる。
目を落とすと、どうやら表紙はコーネリウス・ファッジのデフォルメ画のようだった──あまりにも下手くそな絵なので自信がないが。よく分からない見出しが並ぶ中、『シリウス・ブラック──加害者か被害者か?』という見出しに目が止まった。パラパラと開いてみる。
『大量殺人鬼? それとも歌う恋人?』という煽り文に、シリウスのこれまた下手くそなイラストで、思わずぼくは吹き出した。『ザ・クィブラー』か、覚えておこう。
「アーサー! よかった、出会えて1」
アーサーおじさんの仕事場へ到着した時、息急き切って一人の魔法使いが現れた。
「十分前に緊急通達が来た──」
「逆流トイレのことか?」
「いやいや、トイレじゃなく。ポッター少年の尋問ですよ……時間と場所が変わって、八時開廷で、場所は地下にある古い十号法廷──」
慌ててぼくは時計を探した。アーサーおじさんの机の上の時計は、既に七時五十分を指していた。
ぼくらは弾かれたように駆け出した。
「急げ、ハリー! よかった、随分早く来ていたから。もし出廷しなかったらとんでもない大惨事だ!」
ウィーズリーおじさんはエレベーターの前で急停止すると、下へ行くボタンを連打した。
「あそこの法廷はもう何年も使っていないのに、何故あそこでやるのか──もしや、いやまさか──」
エレベーターに乗り込む。おじさんがブツブツと呟くのに、思わず目を瞬かせた。
「神秘部でございます」
アナウンスする女性の声を最後まで聞かないまま、ぼくらは走った。更に下へ行く階段を下ると、廊下を走る。まるで魔法薬学教室の廊下とそっくりだ。
「法廷……十号……多分ここだ……あった」
おじさんは息を切らしながら、親指で扉を指した。
「さあ、ここから入るんだ」
「おじさんたちは一緒じゃないの?」
「いや、私は入れない。頑張るんだよ!」
ぼくはハリーの肩に手を乗せると、屈むようにハリーに言う。そしてハリーの額に軽くキスをして、「行っておいで」と微笑んだ。
「……うん」
ハリーがしっかりと頷き、重厚な扉の中に消えていく。
「……大丈夫かな」
アーサーおじさんの声に、ぼくは眉を寄せた。
「信じるしかない」
はぁ、と大きく息を吐いて、ぼくは壁にもたれかかった。
思わず頭を押さえ、目を閉じる。
「ダンブルドア! よかった、もう無理かと!」
「少々早く目が覚めすぎたようじゃ。年かのう?」
その声に目を開けると、ダンブルドアがスタスタとこちらに歩いてくるところだった。
学期末、ハリーを死地に平気で放り込んだあの時のことを思い出し、思わず眉が寄る。腸が煮えくり返っているのだ、あれから。
そのまま扉の奥に消えていくものかと思っていたが、ダンブルドアはぼくにまっすぐ歩み寄った。
薄いブルーの瞳の中に、ぼくが写っている。
ダンブルドアは両手でぼくの肩を掴むと、言った。
「『話がしたいんだ、秋』」
「なっ……」
ぼくは目を見開いた。
乱暴に、何より無理矢理に、意識が引き剥がされる。
「……何、ですか」
「何、わしはあの子に嫌われとるようだからの」
やがて頭を上げたぼくに対し、ダンブルドアは囁いた。
その言葉にぼくは息を呑む。
ぼくの肩から手を離すと、ダンブルドアは毅然とした様子で歩みを進め、扉の奥に姿を消した。
ぼくは目を見開き、ダンブルドアの後ろ姿を呆然と見つめていたが、大きく息を吐いた。シャツの胸元を強く握りしめ、肩で息をする。
「ど、どうしたんだ? 大丈夫かい、アキ──」
アーサー・ウィーズリーの腕の下をすり抜け、ぼくは駆け出した。背中に「アキ!?」という叫び声が掛けられる。
階段を駆け上がりながら杖を抜き、振った。
カツン、と、重たいブーツが石造りの床に触れる音。目線が今までより十五センチほど上がったからか、少しだけ平衡感覚が狂っている感じがする。
頭を振って髪を掻き上げる。普段より随分と短い髪に、小さく笑った。
エレベーターに乗り込むと、二階のボタンを押し、腕を組む。何人もの魔法使いや魔女が、次々と乗り込んでは、やがて出て行く。
人に押されてたまたま隣に来た魔女が、鏡を見ながら自分の前髪をずっと弄っていた。横目でチラリと見る。短い茶髪に緑の瞳の、闇祓いの制服を身にまとった青年が写っていることに、よし、と心の中で笑った。
『闇祓い本部』と表札がついているその小部屋を、そっと押し開き、隙間に身を滑り込ませた。
左の人差し指を軽く振り、できる限り影を薄くする。擦れ違う人に、違和感すら抱かせない影の薄さ。確かに認識したはずなのに、三秒後にはどんな顔だったのかも思い出せない、そんな風に。
しかし、懐かしい。
不自然を悟られぬように、そっと周囲を見回した。
指名手配犯の人相書きや日刊預言者新聞の切り抜き。クィディッチ・チームのポスター。どこからともなく香る、コーヒー豆の匂い。
クリップ留めされた書類に目を通すキングズリーの背後を通った。彼はぼくに全く気付かないまま、眉を寄せて報告書を睨んでいる。
小部屋の最奧に、重厚なつくりの扉が一つ。ドアノブは存在しない。
ぼくはちらりと周囲を見回し、誰もぼくを見ていないことを確認すると、そっと杖を押し当てた。カチリ、と奧で錠が開いた後、ギィ、と小さな音を立てて扉が開いた。
ぼくは素早く中に滑り込む。
扉の先には、長い廊下が続いていた。
闇祓いとして登録された者の杖でしか入れない場所だ。ぼくが『死んで』から十年以上も経っているから、もう契約は解除されているのかと思っていたが──なんにせよ、良かった。
廊下の左右には、表札のない扉が六つばかり並んでいる。
右手の一番奧まった扉の前で、ぼくは立ち止まった。ここでもまた、杖を押し当て、扉を開ける。
中に一歩足を踏み入れると、ぐるりと周囲を見渡した。
雑多な物置だ、と初めて目にした者は思うだろう。いや、実態も、そうは変わらないのだけれど。
この部屋は、部隊長以上の者しか入れない。
かつての闇祓いの遺品が、ここに集められている。
杖を振ると、戸棚から一つの黒い箱が姿を現した。埃まみれではあるが、箱はしっかりとしている。
黒い箱には白いマジックで『幣原秋』とぼくの名前が書かれていて、横には小さな鍵穴が取り付けられていた。
指を鳴らすと、パカリと箱は口を開く。中には数枚の書類と、数枚の写真、昔よく使っていたマグカップ、鍵、そしてぼくの二本目の杖が収められていた。
闇祓いでは、二本の杖を持ち歩く習慣がある。
たとえ自分の杖を折られたとしたって、まだ足掻かなければいけないからだ。
生きるために。生き延びるために。
杖と鍵を取り上げ、ローブに収めた。そのまま閉じてしまおうとも思ったが、気が変わった。
写真を取り上げる。懐かしさに、思わず頬が緩んだ。
ぼくと、悪戯仕掛人が、笑い合っている写真だ。卒業前に撮った、唯一の集合写真。
みんな幼い──まぁ、今のぼくを除けば、だけど。シリウスの部屋にも飾ってあったっけ。
そして、二枚目。
何の写真か覚えてはいた。しかし、記憶を思い返すのと、実物を直接見るのとじゃ、全然違った。
「…………っ」
息を堪えず、意識して吐き出した。
父と、母。
そして、先ほどの写真より、何歳も幼い自分が、二人に囲まれ、にっこりと無邪気に笑っている。
込み上げてくるものを、呑みこんだ。
誰がいつ来るかも分からないところに、長居は出来ない。ぼく自身にもタイムリミットがあることだし。
一瞬──そう、一瞬だけ、逡巡した。
手に取った写真を、揃って黒い箱の中へと戻す。
指を再び鳴らすと、鍵を掛け、元通りの位置に仕舞い込んだ。
目を瞑る。
全ての迷いを断ち切って──断ち切った『振り』をして、ぼくは静かに身を翻した。
いいねを押すと一言あとがきが読めます