言葉を告げた後の、リリーの表情は、安堵とも悲哀とも、なんとも形容しがたいものだった。
「リリー、ごめ……」
「謝らないで」
リリーの、涙に濡れた、しかし鋭い眼差しに射抜かれ、ぼくは口を閉ざした。
一回目の、ホグズミード休暇。
ぼくは、道外れの喫茶店で、リリーに別れの言葉を告げたのだった。
「……秋は、すぐに謝る……ずるいよ、秋は……謝れば、それで済むって思ってるんでしょ?」
「……何度だって、謝るよ。だって、君を泣かせたのは、明らかにぼくなんだから」
リリーは両手で顔を伏せた。
「泣いて、なんてないわよ……」と意地を張る。
「……ぼくと一緒にいても、リリーは幸せになれないよ……気付いて、いるんでしょ?」
リリーは賢くて、頭がいいから。
気付いていることくらい、分かっているよ。
「……秋。私ね、好きな人と一緒になれたら、どんなに幸せなんだろうってずっと思っていたのよ」
「…………」
「恋をして、毎日楽しそうに彼の話をする友人を見て、いいなぁって、私もこういう風になりたいなぁって、ぼんやりと憧れていたの。……なのに、一体どうしてなんだろうね。なんで、こんなに息苦しいんだろう。どうしてこんなに、胸が詰まるんだろう。秋が、すぐ隣にいるのに……どうしてこんなに、悲しいんだろうって」
君も、ぼくと同じ気持ちだったのか。
遅かれ早かれ、ぼくらはこうなっていた。
この恋は、決して実らない。
ならば、咲かない花を待つよりも早く、手折ってしまうべきだろう。
リリーは顔を上げると、微笑んだ。
涙に濡れた、けれども吹っ切れたような、笑顔だった。
「……手を、繋いでもいい?」
リリーはおずおずとそう尋ねた。
「大通りに出たら、手を放すの。それで、もう全部、終わり。私と秋は、今までも、そしてこれからも、友達で、親友だった」
「……分かった」
リリーの手を取り、指を絡める。
ほっそりとした手は、冷たかった。
お会計を済ませ、店の外に出る。黙って、二人で並んで歩いた。
自然と、足取りは遅くなった。
「……ふふっ」
大通りに出る道と、更に脇道に入る道。そんな三叉路で、思わず脇道を選んでしまったぼくに、リリーは僅かに笑った。
「好きよ、秋。あなたのそういうところもね」
「……ありがとう、リリー」
人気のない道を、ゆっくりと歩く。
しかし、時間はぼくらを待ってはくれなかった。帰らなければいけない時間が、迫ってきていた。
変なの。ぼくが、この関係を終わらせようとしたのに。
こうして、この時間が終わるのを惜しむなんて。
「……ずっと、この時間が続けばいいのに」
心の声が、漏れたのかと思った。
隣でリリーは、ぼくが考えていたことと、全く同じことを呟いていた。
ぼくが、この、ぼくが。
リリーを傷つけることしか出来ないぼくが、一体どの口で、その言葉に同意出来るだろう。
聞こえなかった振りをして、ぼくはただ、足元を見つめ続けた。
「ここで、いいよ」
リリーは大通りの喧騒が聞こえてきたあたりで、ふと足を止めた。
ぼくを見て、にっこりと笑う。
「次のホグズミード休暇も、一緒に来ましょう、秋。次は、友達同士として」
「……うん」
ぼくも、笑った。
リリーが、ぼくの手を放す。ぼくに背を向け、歩いて行く。
「…………っ」
手を伸ばしかけた。
行かないで、リリー。
好きだよ、大好きなんだよ。
ずっと前から、君のことが。
──そんなこと、言えるわけがない。
伸ばしかけた手を、引っ込める。リリーの後ろ姿を見ながら、歯を食い縛った。
「幸せになって……リリー」
それが、ぼくの望みなのだから。
ぼくの初恋は、静かに終わった。
知る人は、今はもう、ぼくしかいない。
◇ ◆ ◇
「無罪放免! どーれ見たことか、そりゃそうだろう!」
シリウスは笑顔で言うが、一番心配していたのはシリウスに違いない。リーマスも呆れた顔で笑っていた。
夏休み最後の日。明日、ぼくたち学生は、ホグワーツ特急にてホグワーツに帰らなければならない。
シリウスがそのことを残念がっているのを、ぼくやリーマスは知っていた。
台所では、モリーおばさんが腕によりをかけた料理を作っている。ロンとハーマイオニーが監督生に選ばれたことについてのお祝いだ。
正直、これには少し驚いた……てっきり、ハリーだと思っていたのだが。いや、ロンが選ばれたことに対して不満があるわけじゃない。……まぁ、ハリーはあまりにも厄介ごとに巻き込まれすぎた。
「しかし、大法廷で裁かれるとはね……魔法省は徹底的に、ハリーを敵と見なしたな」
「あぁ……そのようだ」
両手で紅茶のカップを持ちながら、ぼくは小さく頷いた。
「わざわざウィゼンガモットの、それも一番の大法廷でだなんて……あそこは確か、『死喰い人』級の極悪人を裁くための場所じゃあなかったか。我が親愛なる従姉妹様のような」
「あぁ……そうか、そう言えば、君の従姉妹に当たるのだったね、ベラトリクス・レストレンジは」
「あぁ」
シリウスの瞳に暗い影が過ぎる。ぼくとリーマスが伺うよりも、シリウスが表情を切り替える方が早かった。
隅で頭を寄せ合いヒソヒソ話をする双子の元に歩み寄ると、「今度はどんな悪戯を考えてんだ、え?」と豪快な笑い声を上げた。
「シリウス、しーっ、し! ママに聞かれたら俺ら死んじまうだろ!」
「おお、そりゃあ悪かった。だがな、君たち、我らが悪戯仕掛人の意志を継がんとする同胞よ。私だったら、そのドクシーの粉末は発熱より嘔吐向けに使うぞ──」
ぼくとリーマスも「おやおや」と近付くと、「私にも見せてくれないかな? これでも悪戯仕掛人の一人なんだよ」と笑った。
「まさかこんなところに、我らが敬愛してやまない悪戯仕掛人の面々が揃っていたとは」
「フィルチが凄まじい表情で悪行を言い立てる先輩が、まさかシリウスとリーマス、それに愉快なお仲間だったとはなぁ」
「あとは誰だっけ? ハリーのおっとさんと、あとは、えーと、ロニー坊やのでぶっちょネズミ?」
その言葉に、ぼくとシリウス、リーマスの三人は声を上げて笑った。
「本当に、『忍びの地図』は素晴らしい作品だ、全くけしからん、全く素晴らしい」
「それにアキが尽力していたとは、さすが我らの可愛い弟分なだけはあるな」
「あぁ、何度もホグズミードへ繋がる通路や厨房へ行く道にはお世話になったものだよ」
「それにちょっとした深夜徘徊にも」
「ちょっとしたお散歩にもな」
「あぁ、あのハニーデュークスに繋がる道か。あの道は私たちもよく使ったものだ」
「毎回毎回、リーマスの目が輝いてたっけ。味覚異常は変わらないな」
「うるさいよ、レイブン」
「悪いね、ムーニー」
「常にチョコレートを持ち歩いてたっけか。今もか? ムーニー」
「パッドフット、おすわり」
「ちょっと、俺とアキの扱いが違いすぎないか!?」
ぼくとリーマスは二人で笑った。
「しかし、ダンブルドアはハリーを監督生にすると思っていた」
双子から離れつつ、低い声でシリウスは囁いた。
やっぱり、シリウスもそう思っていたのか。
「きっと、何か考えがあるんだろう、あの人には」
「だけどそうすることで、ハリーに信頼してると示せたと思わないか?」
「この前ハリーが言っていた。ウィゼンガモットでダンブルドアが、一度も目を合わせてくれなかったと。妙じゃないか?」
「ダンブルドアのお考えは、最近さっぱりだ。今までも読めていたのかすら危ういがね」
「その通りだ……最近のダンブルドアは、ハリーをわざと危険に晒しているような気がする。この前の三大魔法学校対抗試合と同じように……」
眉を寄せた。あの時のことは、未だに許せない。
ハリーのこともだし、それに──セドリックのことも。
「とりあえず、だ。アキ。俺たちの分まで、ハリーをしっかり守ってくれよ」
シリウスの灰色の瞳が、ぼくをしっかと見た。
その目を見返し、ぼくは微笑んでみせる。
「あぁ……当たり前じゃん。なんのために、幣原がこんな身体にしたと思ってんの。ハリーを一番近くで守るため、そうでしょう?」
「まぁ、その割には詰めが甘いよね。あいつらしいと言っちゃ、あいつらしいけど。ハリーを守るんなら、グリフィンドールに入らなくっちゃ」
「あれは、帽子と戦って負けたんだよ……」
思い出すにも口惜しい。口喧嘩に負けたのはあれが初めてだ。
負けた、というか、押し切られた、とも言うか。
「でも、アキがグリフィンドールとか、想像付かねぇな。お前はやっぱりどこからどう見てもレイブンクローだ。なんというか、俺たちとは気性が違う」
「褒め言葉として受け取っておこう。グリフィンドール生は攻撃的過ぎる、穏やかなレイブンクロー生と違って」
「穏やかかねぇ、レイブンクロー生。時折舌鋒鋭くズバズバ言ってくる癖に」
「そりゃあ、そいつの論理展開が無茶苦茶だからだろ。論理の穴を見つけたら、指摘せずにはいられない性なのさ……あっ!」
ふと大切なことを思い出して、ぼくは息を呑んだ。
なんだなんだ、とシリウスとリーマスが不審げな顔を向けてくる。
「忘れてホグワーツに持ってっちゃうところだった……これ、シリウスに」
そう言って、杖を差し出すと、シリウスは眉を寄せて受け取った。
「どういうことだ?」
「幣原の昔の『二本目の杖』らしいよ──この前魔法省に行ったとき、気付いたら持ってたんだ。どこから取ってきたのかは幣原に聞いてよね。気が付いたら、今までの杖の他にその杖と、鍵の束と、あいつの癖字で書かれたメモがあったんだから」
「君も全く、難儀なことだ」
リーマスが同情を込めて呟いた。本当に、と肩を竦める。
ふぅん、とシリウスは杖を軽くしならせたりくるくると回していたが、ひょいっと軽く手首を振り上げた。瞬間、空中に花びらが舞い上がり、ぼくに降り注いでくる。
頭を振ると、髪に付いた花びらが二、三枚飛んでいった。
「ちょっと、シリウス!」
「はは、悪い悪い」
全く悪びれた様子がなく、シリウスは軽く詫びた。
「黒檀、か?」
「そう。芯はドラゴンの心臓の琴線。二十八センチ。……よかった、悪くはないようだ」
ほっと息を吐いた。魔法使いが杖を選ぶのではなく、杖が魔法使いを選ぶのだ。
もし、相性が悪かったらどうしようかと思っていた──比較的、誰とでも馴染む杖であったとしたところで。
「シリウス、杖持ってないだろ? その……幣原が、折っちゃったから」
少しだけ、口ごもる。
あぁ、と合点が行ったように、シリウスは「そういうことか」と呟いた。
「気に病むことじゃねぇのに……」
「あいつは、気に病むんだよ、シリウス」
リーマスの声に、「……それもそうか」とシリウスは肩を竦めた。
夕食後。朝には強いが夜には弱いぼくは、チェスに誘ってくるジニーを軽くいなして、先に上がらせてもらった。眠気に目をパチパチとさせながら、大きな欠伸を一つ漏らす。
ふと、啜り泣きが耳に入った。誰かが、泣いているのか。
足音を顰めて階段を登り切る。
啜り泣きは、客間の方から聞こえていた。様子を伺い、思わず声を掛ける。
「モリーおばさん……」
声を掛けて、おばさんの目の前に広がっている光景に気がついた。ロンだ。大の字に倒れて、死んでいる。
思わず息を呑んだ。
「リディクラス!」
泣きながら、おばさんが杖を振った。ロンの死体がビルに変わる。そしてアーサーおじさんに、双子に、パーシーに、ハリーに──。
「おばさん、落ち着いて」
モリーおばさんの肩を、優しく撫でた。
──不安なのだ、おばさんも。
いつ誰が死ぬかも分からぬ『不死鳥の騎士団』に、家族全員がいることに。
家族を失うこと、それこそが、おばさんが一番恐れるものなのだ。
「リディクラス」
杖を取り出し、はっきりと唱える。
ハリーの死体が消え、代わりに現れたのは、ぼく自身だった。
いや、ぼくじゃない。
幣原秋の姿だ。
『死んでくれるって、言ったよね? アキ』
純粋な笑顔で、ぼくに笑いかける。濁って淀んだ、光の灯らない瞳で。
何より綺麗な微笑みなのに、どこまでも歪に見えた。
『ぼくの唯一の願い、叶えてくれるって』
「……あぁ、叶えてあげるよ」
杖を一文字に横薙いだ。幣原秋の姿は、霞となって消え失せる。
「今すぐじゃあ、ないけどな」
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