破綻論理。

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空の記憶

第20話 奈落の底First posted : 2015.11.24
Last update : 2022.10.14

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 階段は、想像以上に長かった。
 やがて辿り着いた先は──奈落だった。

 地下に広がる、広々とした空間。
 壁には、本棚が一つ。小さな机が一つ。不可思議な発明道具は、そこらかしこに置いてある。
 本も小物も本棚も机も何もかも、原型を留めているものは存在しない。

 黒いインクをバケツでぶち撒けたようだった。
 壁に、床に、本棚に、机に、小物に広がる黒い染み。
 乾いたそれが、以前は黒ではなく赤を示していたのだと、理解するのは早かった。

「あー、こんなに血まみれじゃ、もはやあの判別方法は意味がないなぁ。幣原の血に反応するも何も、直兄の血に塗れちゃってる。あーあー、しかもくんのお母さんの血も混じっちゃってるよ、こりゃ。困ったね」
「…………っ」
くん、吐くならよそに行ってね」

 梓さんの声は冷たかった。
 いや、この人は元々こんなものだ。無機質で感情の篭らない喋り方をする。

「だ……いじょうぶ、です」

 何度目か分からない「大丈夫」の言葉を口にして、細く息を吐いた。
 首にかけているロケットを、強く握りしめる。

「んー……くん、これ、元通りに直せる? ひとまず、引き裂かれた本だけでも何とかしてくれたらいいんだけど……」
「……全部戻せます、大丈夫です」

 杖を握った手が震えているのは、見ずとも分かっていた。

「レパロ」

 無言呪文が使えるほど集中出来るような精神状態ではなかった。
 杖を振ると、机も本棚も小物も本も、何もかもがかつてあったような整然とした状態に戻る。しかし降り掛かった血は、そのままだった。

「あぁ、血は仕方ないよ。そもそも血に魔力は宿るものだしね。しかも幣原直の血なんだし」

 そう言って、梓さんは本棚に近付くと適当に一冊の本を手に取った。その背表紙が血に塗れているということに気づき、ヒッと思わず喉が鳴る。
 そもそも、この部屋自体が血まみれなのだ。壁だって、床だって。

「君に手伝えというのはさすがに酷か。待っていてね、そう長くは掛からないと思うから」

 そう言われ、ぼくは頷いた。
 うずくまり、頭を抱えて強く目を瞑る。

 ゾクゾクと悪寒が這い回る。息がどうにもぎこちない。
 よく梓さんは、平然としていられる。

 家の地下に、こんな場所があっただなんて。そんなことも知らず、ぼくはこの家で寝起きをしていただなんて。
 怖気が走る。この家に長居はしたくない。長居なんて、出来る訳がない。

 父の、両親の血だと、梓さんは言った。
 両親の葬式時に、周りの人たちが話していた言葉が蘇る。あの時はわざと聞き流していたものだ。認識したくはなかったから。

『何ヶ月も気付かれなかったというのに』

『死体は腐ることなく形を保ち続けていて』


『二人の血は、体内から抜き取られていた』


「…………っ」

 思い出した瞬間、もう無理だった。
 階段を駆け上がり、一目散にトイレへと走る。胃の中のものを全て吐き出すと、幾分か落ち着いた。
 それでも、この家にいること自体がもう耐えられなかった。そもそも、ここは両親が殺された場所なのだ。そんなところで寝泊まりしようと思っていた今までの方が、おかしかったんだ。

 ぐったりとした足取りで、洗面所に向かう。
 鏡に映る自分の、あまりの顔色の悪さに思わず笑えた。

「……大丈夫かい? 済まなかったね」

 振り返ると、梓さんが立っていた。目的のものを見つけられたのか。
 右手に握られている本から目を逸らし、小さな声で「……いえ」と呟いた。

「本当に済まないことをした。もう大丈夫だよ」

 梓さんはぼくの頭を軽く撫でようとしたが、ぼくは反射的に一歩後ろに下がった。
 乾いた血の痕に触れた手で、触れられたくはなかった。

「……ごめんね」

 そう、梓さんは頬笑んだ。





「それじゃあ、くん。さよならだ」

 改めて両親の墓参りをした後、梓さんはぼくに笑いかけた。

「どこに住んでいらっしゃるんです?」

 何の気無しにそう尋ねると、梓さんは「ここから大分遠いところだよ」と言い、僅かに首を傾げた。

「君は、あまり来ない方がいい。用がないのならね」
「……はぁ」

 夕暮れの道を、ぼくらは歩いた。
 セミが近くで、遠くで鳴いている。生温い風が吹いていた。

 町は、賑わっていた。どうやら今日は、どこかで夏祭りがあっているようだ。
 浴衣を着た小さな子たちが、神社のある方に向かって走っている。

 踏切がカンカンと音を立てるのに、足を止めた。
 一つの線路しかない、小さな踏切だ。遮断機すらない。

 カンカンカンカン・カンカンカンカン

 日本は、なんだかイギリスよりも物悲しい。何故か、そう思う。
 夕暮れ時は切ないし、花火はシュンと消えてしまう。セミの命は儚いし、空気は夏独特の気配を纏う。

 カンカンカンカン・カンカンカンカン

「……あれ?」

 は、と気付いた。

 もうここは使われなくなった線路のはずだ。ぼくが幼い頃には、既に使われていなかった。
 小学生の間では、使われてもいないのに一人でに鳴り出す踏切として、ちょっとした話題になっていたものだっけ。でもぼくは、この踏切が音を鳴らすのを聞いたことがなかった。

 今、初めて耳にした。

 カンカンカンカン・カンカンカンカン

 ふらりと、梓さんは足を踏み出した。
 あまりにも自然な動作で、気付いた時には、梓さんは線路の中に足を踏み入れていた。

 ゴゥッと、向こうから音が聞こえる。
 見えない電車が、音を立てて近付いて来ている。

「梓、さん……っ」

 慌てて駆け寄ろうとした瞬間、空気に押された。思わず尻餅をつく。

 梓さんはぼくを振り返ると、微笑を浮かべた。
 父とは全く違う、笑顔だった。


「 クン、君ハ本当ニ、莫迦ダネェ 」


 カンカンカンカン・カンカンカンカン

 轟音を立てて、見えない電車は目の前の線路を通り過ぎていく。
 ガタンガタンと、レールを車輪が進む音。

 気付けば、梓さんの姿は消えていた。

 カンカンカンカン・カンカン……

 電車が通り過ぎ、しばらくしてから踏切の音も消えた。
 しばらくポカンと口を開けて見ていたぼくだが、やがて口を閉じると、立ち上がる。

 手の砂を払うと、ぼくは歩き出した。

 忌々しい、我が家へと。

 

  ◇  ◆  ◇

 

 ──ロンの父親が、アーサーおじさんが襲われた。

 深夜、フリットウィック先生に叩き起こされたぼくは、その言葉に冷水を浴びせられたかのように目が覚めた。

 それを、ハリーが『予言』したのだという。

 フリットウィック先生に連れられて校長室へ向かうと、そこにはハリーとロン、それにフレッドとジョージの双子に、ジニーがいた。皆、蒼白な表情だ。
 ハリーはぼくの姿を見るなり、顔を歪めて抱きついてきた。身体が、痙攣しているかのように震えている。安心させるように背中を叩くと、徐々にだが、身体の震えは収まっていった。

「何があったの?」

 ハリーは青ざめていたが、しっかりとぼくの目を見つめて言った。

「……アーサーおじさんが、蛇に襲われたんだ。……僕はそれを、見ていたんだ」

 ざわり、と胸が騒ぐ。
 どうして、ハリーがそれを知ることが出来たんだ? 

 幣原の父親のような予知能力は、ハリーにはないはずだ。
 それとも素質は眠っていて、何かしらの刺激で目覚めたのだろうか? 

「アーサーは、『不死鳥の騎士団』の任務中に怪我をなさったのじゃ。アーサーはもう『聖マンゴ魔法疾患障害病院』に運び込まれておる。君たちをシリウスの家に送ることにした。病院へはそのほうが『隠れ穴』よりずっと便利じゃからの。モリーとは向こうで会える」

 ダンブルドアは静かにそう言った。
 フレッドが震える声で「どうやって行くんですか? フルーパウダー?」と尋ねた。

「いや、あれは現在安全ではない。『煙突網』が見張られておる。移動キーに乗るのじゃ。今はフィニアスが戻って報告するのを待っているところじゃ……君たちを送り出す前に、安全の確認をしておきたいのでな」

 冷え切ったハリーの身体に、わずかだが温かみが戻ってきた。
 そのことを確認して、ぼくはハリーから身を離す。ハリーは俯いて、ぼくの手を握った。しばらく離そうとはしなかった。

「あいつは、喜んで、と言っておりますぞ。私の曾々孫は、家に迎える客に関して、昔からおかしな趣味を持っていた」

 額縁に、フィニアスと呼ばれた魔法使いが現れてそう言った。
 曾々孫ということは、シリウスの曾々祖父か。さすがにここまで離れると、面影も何も見つからない。黒髪に灰色の瞳は、シリウスと一緒だ。

「さあ、ここに来るのじゃ。邪魔が入らぬうちにの」

 ハリーとぼく、それにウィーズリー兄妹も、ダンブルドアの机の周りに集まった。
 ダンブルドアは錆びて黒ずんだヤカンを指差して言う。

「移動キーは使ったことがあるじゃろうな? よかろう。では──」

 皆、ヤカンに手を伸ばした。ダンブルドアが数を数える。

 ふとハリーがダンブルドアを見上げた。ダンブルドアも、ハリーに目をやった。
 途端、ハリーの顔が苦痛と苦悶に歪む。どうしたのだ、と声も出せないまま、ダンブルドアを見ると、ダンブルドアはハリーの反応を予測していたように落ち着き払ってハリーを見つめていた。

「……三」

 ダンブルドアの瞳が、ぼくに移る。
 何かを伝えようと、その目は意志を持っていた。

 しかしその思いが何なのかを詳しく探る時間もなく、移動キーは作動し、ぼくらは落ちて行った。

 深い、異次元へと。





 グリモールド・プレイスで、ぼくらは知らせが来るまでまんじりとしない夜を過ごした。
 誰もが、口数少なかった。ウィーズリー兄妹たちは、揃って実の父の安全を思い不安げな表情を浮かべていたし、ハリーは真っ青な顔で、ずっと膝の上に置いた自分の拳を見つめていた。

 シリウスも、どうしていいのか分からないと言った雰囲気だった。
 時折シリウスは物言いたげにぼくを見た──ぼくと話がしたいのだろうと言うことは、すぐに察せられた。でも、ぼくらが揃って抜けると、皆は一層不安がることだろう。
 それが分かっていたから、ぼくらは暗い瞳を見合わせることしか出来なかった。

 朝の五時を過ぎたあたりに、やっとモリーおばさんが姿を現した。青ざめていたが、安心させるように微笑んでいる。気丈な人だ。

「大丈夫ですよ。お父様は眠っています。後で、皆で面会に行きましょう。今は、ビルが看ています。午前中仕事を休んでくれたのよ」

 部屋に、安堵の空気が流れた。張り詰めていたものが、パチンと切れたようだった。

「朝食だ!」

 シリウスが立ち上がり大声で言ったことで、誰もがやっと空腹の存在を思い出したようだ。

 クリーチャーの姿が見当たらないので、シリウスは楽しげに台所へと駆けて行った。『動物もどき』に変化していないにもかかわらず、その尻には見えない尻尾があるようにも見えた。
 ぼくとハリーはシリウスを追った。ウィーズリー家だけにしてやりたいと思ったからだ。
 しかしハリーは途中でモリーおばさんに呼び止められ、ぼくは一人でシリウスを追いかけた。

「どう思う、アキ

 杖を振り、水の入ったヤカンを火に掛けながら、シリウスは低い声で言った。

「分からない」

 ぼくも正直に答えた。
 シリウスは振り返る。真剣な眼差しだった。

「ポッター家に『予見者』が出たと聞いたことはない」
「でも、ハリーは時折、ヴォルデモートと繋がりのある夢を見ている。君に送っただろ、去年の夏だったかな」
「あぁ……覚えがある。同じことが、よく?」
「よく、と言えるほど頻繁じゃないのだろうけど……でも最近、頻度は多いようだ。廊下の夢を見るのだと、言っていた」
「廊下?」

 訝しげに、シリウスの眉が寄る。
 ぼくは首を振った。

「分からない」

 ちょうどそこに、モリーおばさんがエプロンを付けて台所へと入ってきた。
 ぼくとシリウスは揃って口を閉じる。

「シリウスおじさん。それに、アキも」

 そう声を掛けられて振り返ると、ハリーが立っていた。

「ちょっと話があるんだけど、いい? あの──今すぐ、いい?」

 断る理由は一つもなかった。

 暗い食料庫で、ハリーは語った。
 内臓を吐き出すように、激しい痛みに顔を歪めながら、ハリーは話した。

「そのことをダンブルドアに話したか?」
「うん。だけど、ダンブルドアはそれがどういう意味なのか教えてくれなかった。まあ、ダンブルドアはもう僕に何にも話してくれないんだけど」

 恨みがましい声だった。
 シリウスが落ち着けるように言葉を紡ぐ。

「何か心配するべきことだったら、きっと君に話してくれていたはずだ」
「だけど、それだけじゃないんだ」

 ハリーの顔色は、蒼白を通り越して白っぽく見えた。

「僕、頭がおかしくなってるんじゃないかと思うんだ。ダンブルドアの部屋で、移動キーに乗る前、ほんの一瞬蛇になったと思った。そう感じたんだ。ダンブルドアを見た瞬間、傷痕がすごく痛くなって──ダンブルドアを、襲いたくなったんだ」

 あの時のアレは、見間違いや幻ではなかったのか。
 一体どういうことだろう、とぼくは考えこんだ。シリウスの声は、穏やかだった。

「幻を見たことが尾を引いていたんだろう。それだけだよ。夢だったのかどうかは分からないが、まだそのことを考えていたんだよ」
「そんなんじゃない、何かが僕の中で伸び上がったんだ──まるで身体の中に蛇がいるみたいに」

 ハリーは、切羽詰まった声でそう言った。

「眠らないと。朝食を食べたら、上に行って休みなさい。昼食の後で、皆と一緒にアーサーの面会に行けばいい。君はきっとショックを受けているんだ、単に目撃しただけのことを、自分のせいにして責めている。それに、君が目撃したのは幸運なことだったんだ。そうでなけりゃ、アーサーは死んでいたかもしれない。心配するのはやめなさい」

 シリウスの言葉に、ハリーが納得したかは怪しいところだった。
 シリウスが食料庫から出て行く。

「……本当に、僕の気のせいなのかな? 僕の、勘違いなのかな? アーサーおじさんのアレを見て、気が昂ぶってたから、そういう風に感じたのかな?」

 縋るような、声だった。
 ぼくは静かにハリーの手に自分の指を絡める。

「疲れていることもあるんだろうね。君に必要なのは、食事と暖かいベッドだよ。……さぁ、行こう」

 皆の元へ。
 ぼくの言葉に、ハリーはこくりと頷いて、笑みを浮かべた。

 救われたように。

 ──ぼくは、重要なことを見過ごしたことに気付けなかった。

 この時が、一つの契機だったのに。



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