「……う、うぅ……」
あぁ、母が泣いている。
母が、泣いている。
「……かあ、さん」
あの男はいない。自分と母を脅かす、あの男は今はいない。
どこへ行ったのか、興味は全く湧かない。出来るだけ遠くに、出来るなら帰って来ないで欲しいと思う。
汚らわしいマグルの男。魔女の母に暴力を振るう男。
あいつの血が自分の中に半分も入っているという事実が、酷くおぞましい。
「母さん」
杖を手に、そっと近付いた。
足音に、母は顔を上げもしない。俯いて、ただはらはらと涙を零している。
母はいつも、無抵抗で殴られる。マグルなんかが振るう物理的な怪我なんて、魔法使いならば杖一振りで治せるというのに──母はそれをしない。
否、出来ないのだ。
精神的なことで、魔法が使えなくなることがある。
日々繰り返される男からの暴力に、母は耐えられなかった。
純血の魔女なのに。
ギリ、と奥歯を噛みしめる。
胸の中に広がる男への憎しみを感じながら、母の前に跪いた。
「……母さん。大丈夫、大丈夫だから」
ふと、母の手に一枚の手紙が握られていることに気がついた。母が強く握りしめているせいで、シワが寄ってしまっている。
「……セブ、ルス……」
母は顔を上げた。涙に濡れた顔に、痛む心はもう存在しない。痛みに、随分と慣れてしまった。
現実から一枚ベールを掛けたような、そんな感覚で、母と相対する。
「どうして、教えてくれなかったの……?」
「……え」
思いも寄らぬ言葉に、目を瞠った。
自分は、母に何か隠し事をしていただろうか。
どれだか見当がつかない、というのが正直なところだった。隠し事も、話していない事も、山積みだった。
──この、左腕の印も。
右手で、左腕の闇の印を服の上から撫でさすった。半ば無意識だった。
「……僕が、母さんに隠し事なんてする訳、ないじゃないか」
口から零れたのは、そんな心の伴わない言葉だった。
しかし、母は瞳に再び涙を溢れさせる。
「嘘、嘘。知っていたんでしょう、あなたは……あぁ、どうして。あなたは、あの子と、幣原秋くんと、友達なんでしょう……」
母の口から親友の名前が飛び出たことに、動揺した。
一体、どうして。どうしてここで、秋の名前が出てくるのか。
果たして、母は。
「あの子と友達なら、知っていたはずよ。……あの子のご両親が、あぁ、アキナ先輩と、幣原先輩が……亡くなっていたことに」
頭を重たい鈍器で殴られたような、そんな衝撃が走った。
血の気が引く。
「どうして、もっと早くに教えてくださらなかったの……先輩、アキナ先輩……」
母は顔を伏せ、大きく肩を震わせた。
心労で痩せ細った首が、酷く頼りなく見えた。
「秋の、両親が……亡くなっていた?」
呟いた自分の声は、他人のもののように白々しく、耳に入ってきた。
思い出す。思い返す。
鮮烈な記憶を。
温かな、あの人を。
『君は、すっごく可愛くて、すっごくいい子だねぇ』
抱きしめられたあの時のことを。
何年も昔のことなのに、秋の母親の記憶は、自身の中に鮮やかに残っていた。
──彼女が、死んだ。死んでいた。
記憶の中の彼女に、亀裂が入る。
破片が、崩れていく。
「どうして、教えてくれなかったんだ……」
──秋。
ひび割れた破片の奥に、親友の姿が見えた気がした。
こちらに一瞥も暮れず、振り返らない彼の姿が。
何年も一緒にいたはずなのに、秋が何を考えているのか、さっぱり分からなかった。
◇ ◆ ◇
ロンドンの中心部。古く寂れたデパートが、聖マンゴの入り口だった。
トンクスの言葉に応えるよう、壊れたマネキンが手招きする。ぼくらはガラスを突き抜け、歩き出した。
「ロンドンのど真ん中に、こんなのがあるなんて……」
「本当だよねぇ」
ぼくとハリーが口々に呟くのに、トンクスは笑った。
「マグルたちって、本当になーんにも見てないんだもんねぇ。まっ、こんなところに魔法使いの病院を建てようなんて思い至った奴も、私は気が知れないなぁ」
薄膜を抜けると、そこは広々とした病院のホールだった。受付は混み合っていて、いかにも奇天烈な魔法障害を持つ人もいれば、見たところなんにもなさそうな人もいる。
受付に尋ねると、アーサーおじさんの病室はダイ・ルウェリン病棟の二階だと言う。
モリーおばさんに続いて、ぼくらは歩いた。廊下には癒者の肖像画がずらりと並び、クリスタルの玉が、ロウソクの光を灯してゆらゆらと揺れていた。
そう言えば、クリスマスが近いのだ。今更ながら、思い出す。
「私たちは外で待ってるわ、モリー。大勢でいっぺんにお見舞いしたら、アーサーにも悪いもの。最初は家族だけに、ね」
マッドアイも賛成のようだった。
ぼくとハリーは身を引くも、双子とモリーおばさんにそれぞれ引っ張られる。
「ハリーにお礼を言いたいはずさ、父さんも」
「でも、ぼくは……」
「アキも家族の一員だ、そうだろう?」
「あぁ、その通りさ。じゃなきゃ、この前の夏休みも俺たちと悪戯グッズを発明して母さんに正座で怒られるなんて経験するもんじゃない」
明るい双子の声に、救われる。
アーサーおじさんのベッドは、一番奥だった。
日刊預言者新聞を読んでいたおじさんは、来訪者の姿を視認して、にっこりと笑い新聞を横に置いた。
「やぁ! モリー、ビルはいましがた帰ったよ。仕事に戻らなきゃならなくてね。でも、後で母さんのところに寄る、と言っていた」
おじさんの傷は、病院服と毛布に覆われて見えない。
だからか、血色が悪い以外はいつも通り元気な姿で、それが皆をホッとさせた。
ハリーに何度もお礼を言ったアーサーおじさんは、子供達の元気な追及に少々眉を寄せた。
モリーおばさんがぼくらを外につまみ出し、代わりにマッドアイとトンクスを呼び込む。
「騎士団の話でしょ、ぼくもダメ?」
小首を傾げて見上げると、トンクスは少々ぐらりと来たようだった。
しかしモリーおばさんが「ダメに決まっています」とピシャンと言う。
「ぼく、幣原なのに……」
「なら、幣原秋になっておいでなさい。彼の方が分別があります」
チェッ、とぼくは舌を出した。
「アキが潜り込めずとも、我らを誰と心得る?」
「今こそ『伸び耳』の出番、そう洒落込もうじゃないか」
ぼくとハリーは声を上げて笑った。
薄橙の紐が、するすると伸びていくと、ドアの下から入り込み、やがて内部の声がすぐ近くにいる時と同じほどはっきり聞こえるようになる。
「……隈なく探したけど、蛇はどこにも見つからなかったって。アーサーを襲った後、消えちゃったみたい。だけど、『例のあの人』は蛇が中に入れるとは期待してなかったはずだよね?」
「わしの考えでは、蛇を偵察に送り込んだのだろう。なにしろ、これまでは全くの不首尾に終わっているだろう? アーサーがあそこにいなければ、蛇はもっと時間をかけて見回ったはずだ。それで、ポッターは一部始終を見たと言っておるのだな?」
マッドアイの声。モリーおばさんが不安げに言った。
「えぇ。ねぇ、ダンブルドアは、ハリーがこんなことを見るのを、まるで待ち構えていたような様子なの。今朝お話したとき、ハリーのことを心配なさっているようでしたわ」
「むろん、心配しておる。あの坊主は『例のあの人』の蛇の内側から事を見ておる。それが何を意味するか、ポッターは当然気付いておらぬ。しかしもし『例のあの人』がポッターに取り憑いておるなら──」
誰もが、ハリーを見た。
ハリーは『伸び耳』を耳から引き抜き、蒼白な顔でぼくらを見渡した後、パッと立ち上がって駆け出して行った。
「ハリー!」
『伸び耳』を引き抜くと、ぼくはハリーの後を追いかけた。
しかし、ハリーは足が速い。リーチの差だろうか。
あっという間に見失い、ぼくはキョロキョロと辺りを見回した。
「……えぇいっ」
勘で、左に曲がる。廊下にいる病人と見舞客を避けながら、ぼくは走った。
ハリー、どうか。
思いつめないで。
角を曲がる。
瞬間、少女とぶつかりそうになった。避けるのには成功したが、勢いを殺しきれずによろめき、尻もちをつく。
「ろうかははしっちゃダメなんだよ、おねぇちゃん!」
少女はそんなことをぼくに言うと、咎める瞳ではあったが、ぼくに手を差し伸べた。
「……おねえちゃん、じゃない、おにいちゃん、だ」
「え? だって、かみのけながいよ?」
「それでも、おにいちゃん、なんだ」
少女の差し伸べた手に、ありがたく掴まると立ち上がる。
「髪長いのにおにいちゃんなんて、へーんなの」と少女は呟いた。見ると、少女も病院着を身にまとっている。ぱっと見は普通だけど、この子も何かしらの病気を抱えているのか。
「……アリシア、勝手に病室を出ちゃいけない。そう言っているだろう」
「だって、お星様が飛んできたんだもの。ほら」
そう言って彼女が指差した先には、何もなかった。
近付く靴音に、振り返り──呼吸が、止まる。
靴音が、止まった。
ぼくらは、黙って見つめ合った。
いつもは眠たげに半分ほど閉じている目は、今日は見開かれている。
濃い茶色の瞳が、長めの前髪の間から、まっすぐにぼくを見つめていた。
「……ライ、先輩」
記憶より、年月分の時間を積み重ねた容貌。
でも、全く変わっていないと思わせるのは、この人の纏う空気が、変わらないから。
魔法医学に足を踏み入れた、人。
鋭すぎる牙を持つが故に、家族を人質に取られ、その牙を封じられた人。
ヴォルデモートが、その才能を危険なものだと判断し、すぐさま枷を嵌めた、その人が。
「……アリシア、病室に戻りなさい」
「えぇー」
「……後で、お星様を捕まえてやる。だから、早く」
ぷぅ、と頬を膨らませながらも、アリシアと呼ばれた少女は駆け出して行く。その姿を目で追うことなく、ライ先輩はぼくに歩み寄った。
鋭い瞳で。
「……アキ・ポッター」
名前を呼ばれ、反射で身が震えた。
ゆるり、と、ライ先輩の手が伸びる。
緩慢な動作なのに、身体は全く動かなかった。
思いっきり頬を殴られ、ぼくは吹き飛んだ。魔力は篭っていないが、溢れんばかりの怒りを感じた。
「……一度、殴ってやりたいと思っていた」
地面に倒れ伏したぼくに、冷ややかな声が浴びせられる。
ぐい、と胸倉を掴まれ、乱暴に引き起こされた。濃い茶色の瞳に映るのは、怒りの感情。
「詰まらないことを考えたものだ。その意地が、再びお前から、大切なものを奪うだろう」
そうか、と、その時理解した。
人の考えていることが分かると、ライ先輩は昔語っていた。
幣原秋は、思考が日本語だから読めないだけだと。
今のぼくは、英語圏で生まれ育った。言語も、思考も、英語なのだ。
「……浅はかなことだ」
激しい怒りを、その瞳に滾らせて。
ライ先輩はぼくを睨みつけた。
「どこまで愚かだと気が済む。どこまで馬鹿なのか。どこまで、俺を失望させれば気が済む。どうして見えない、どうして分からない。俺には馬鹿なお前の考えが理解出来ない」
「な、にを……」
何を言われているのか、分からない。
「……分からないか。そうか」
ライ先輩は、ぼくに見切りをつけたように、ぼくの服から手を離した。
あっさりと。
「なら、失って初めて気が付けばいい」
辛辣に言い放つと、ツカツカと歩いて行く。
ふと立ち止まると、振り返ってぼくに告げた。
「ハリー・ポッターは二つ下の階のロビーにいる。早く行ってやれ」
そして、立ち去る。
ぼくは呆然と、その後ろ姿を眺めていた。
いいねを押すと一言あとがきが読めます