日本に長居する気は、残念ながらぼくには全くと言っていいほど起きなかった。
両親の墓参りに、ほんの一泊するくらいでいい。それも、自分の家以外で。
おぞましいあの家で眠れるほど、ぼくは神経が太くは出来ていない。
両親が、一体どのようにして死んだのか。どのようにして殺されたのか。
……なんて、そんなことをぼくは知りたくもない。考えたくもない。
薄情? そうかもしれない。
それでも、ぼくは無理だった。そこまで心は強くない。
ぼくが両親のために出来るのは、ただ一つ。
敵討ちしか、存在しない。
「ハァイ、秋。ご一緒してもいいかしら?」
新学期。
一人コンパートメントで本を読むぼくに声を掛けてきたのは、誰あろう、リリーだった。豊かな赤い髪の毛を、サイドで軽く結い上げている。
「どうぞ、お好きなお席に」
「……あなたの膝の上とか?」
「それはこいつで満席」
手に持ってる本を示すと、リリーは笑った。
リリーの冗談は、冗談なのかそうじゃないのかたまに分からなくって始末に困る。
「チュニー! ここよ!」
窓から身を乗り出して、リリーは大きく手を振った。
やがて窓越しに近付いて来た彼女に、ぼくも笑いかける。
「久しぶり、ペチュニア。二年振りくらい? 美人になった」
そのセリフに、ペチュニアは凄まじい目つきでぼくを睨んだ。
と、リリーに頭を叩かれる。手首のスナップが効いていて、想像以上に痛かった。
「チュニー、その、許してあげて」
「もう知らないわ。それじゃあね」
そう言ってペチュニアは肩を怒らせながら去ってしまった。
「あぁ……」と、リリーはしょんぼりして座り込む。
「一体どうしたの?」
「……あなたは見た目が女の子のようなのに、本当に女心には疎いわよね」
「そりゃ……まぁ、うん……」
自覚はある。リリーに何度も鈍感鈍感言われちゃ、まぁ、ぼくが鈍いんだろうなってことも。
今のも、きっとぼくが悪いのだろう。
「……でも、今の何が悪かったって言うんだい? 思い当たるのは『美人になった』って言葉くらいだけど、思ったことを言って何が悪いの? 褒め言葉だよね」
「えぇ、そうね。褒め言葉だけど、その褒め言葉を額面通りに受け取れない人もこの世にはいるのよ」
「……はぁ……」
そういうものなのだろうか。
兎にも角にも、女心というものは複雑怪奇だ。学問として研究してもいいのではないか。
「そうだわ、秋。見てみて!」
さっきまで落ち込んでいたリリーが、今度はいきなり表情を輝かせる。このいきなりの変化も、『女心』とやらがもたらす摩訶不思議なものなのだろうか。
「じゃーん! 首席バッジ! どうだ!」
「おおぉっ! すごい!」
黄門様の紋所のように(って、ここはイギリスだけども)ババンと突き出した『首席』バッジに、思わず手を叩いた。リリーも鼻高々で満面の笑みを浮かべている。
「まさか私がもらえるとは思ってなかったわ。えっへへ、秋には是非とも自慢したかったの」
「すごいよ、さすがはリリーだ!」
「もっと言って!」
「頭もいいし美人だし、君は本当に才色兼備って言葉が似合うね。日本には『立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花』って言葉があるんだ。美人を形容する語句なんだけどね、まさしくこれこそリリーにぴったりで」
「ストップ。止めて、お願いします、私が悪かったわ」
褒め殺される、とリリーは顔を覆った。殺すつもりは全くないのだけれど。
「変に暑くなっちゃった。あなたのせいだからね」
「君が褒めてって言ったんじゃないか……」
納得がいかない。
む、と唇を尖らせていると、リリーがふと思いついたように手を叩いた。
「そうだわ。じゃあ私が今からあなたのいいところを並べ立てるわね。どこまで耐えられるか、やってみましょう」
「何だよ、その変なの……」
ぼやくが、リリーは聞いちゃいない。楽しそうに指折り上げ始める。
「髪の毛さらっさらなところ。凄く綺麗な黒髪で、本当に憧れる。手入れしているように見えないのにどうしてそんなに綺麗な状態が保てるの? 頬もすべすべで本当に女の敵よね。華奢で可愛くって、どうしてあなたは女の子じゃないんだろうっていつも思っているのよ」
「……褒めてる?」
「褒めてる褒めてる。あとはその目。真っ黒で、光に当たるとキラキラして、すっごい綺麗なのよ。……あなたは知らないでしょうね」
リリーは淡く微笑んだ。心臓の鼓動が、妙な感じに飛び跳ねる。
「あなたはとっても優しいわ。あなたはそれを、臆病だと評すのかもしれない。それでも、いつも私はあなたの優しさに救われてきた。いつだって、いつだって。あなたの笑顔はとても暖かい。すごく心が軽くなるの。……ねぇ、秋。あなたはどう思っているか分からないけれど、私はあなたと友達になれて良かったよ。あなたと一瞬だけでも手を繋ぐことが出来て、良かったよ」
ぼくの両手を、リリーは握った。暖かで細く、柔らかな手。
女の子の手だと思った。
「……ぼくら、さ。あのときぼくが別れようって言わなかったら、一体どうなっていたと思う?」
リリーはぼくの問いにキョトンと目を瞬かせたが、やがて笑った。
「あなたが別れを切り出さなかったら、きっと私が言っていたわ。私はあなたのことが好きで、あなたも私のことが好きだけれど……多分、恋人としてやっていける種類の『好き』じゃなかったのね」
「……そう、だね」
そう言われて、随分とホッとした。
「いつでも私は、あなたのことが大好きよ。……だからね、教えて、秋。あなたの心の暗闇を、私は知りたい。私は、あなたに寄り添いたい」
ぼくの目を見て、リリーは言った。
「あなたのご両親は、どうして姿を見せなくなったの? いつもいつも来て、あなたを見送ってくれていたのに、どうしてもう来てくださらないの? ……ご両親が来てくれなくなって、あなたの纏う空気が変わったのは何故?」
息が、震える。
リリーから目を逸らしたかったけれど、リリーがそれをさせてくれなかった。
「……あ、う」
小刻みに震える身体を、何故だか流れる涙を、止めることは、拭うことは、出来なかった。
リリーに、両手を握られていたから。
「ぼく、のせい、なんだ……ぼくが」
この世に生まれたから。
◇ ◆ ◇
シリウスは、始終上機嫌だった。クリスマスを、ぼくらがこの屋敷で迎えることが決まったことが大きいだろう。クリスマスソングを口ずさみながら、飾り付けをしている。
「なにか考え込んでいるな、我が友人よ」
「……まぁね」
大きなクリスマスツリーに飾り付けを施しながら、シリウスはぼくに声を掛けた。
ぼくは膝を抱え、椅子に座り直す。
「ねぇシリウス。ぼくは、何か間違えているのかな」
ぼくの言葉に、シリウスは目を瞬かせた。
「間違う? 一体何を?」
「……分からない」
シリウスは、梯子からヒョイっと飛び降りた。床が軽く軋む。
「君は思慮深いし、神経質な奴だから、そうそう大きなミスは犯さないと思っていたけれど」
「そんなことない……いつもいつも、後悔しっぱなしだ」
幣原も、そうだ。
いつも、気が付いたときには、何もかもが取り返しのつかないことになっていた。
両親の死も。リリーとセブルスの別離も。
気付いたときには、手遅れだった。
「俺が世界で一番後悔したのはさ、やっぱりまぁ、ジェームズとリリーが死んだときなんだよ」
シリウスは静かに言った。
ぼくは伏せていた目を上げる。
「あのとき、『秘密の守人』にピーターを推薦しなかったら。ピーターの真意に気付けていたら。ピーターの裏切りに、気付けていたら。兆候は、確かにあったはずなのに……あいつの心の闇に、気付いてやれていたら。あいつの本性を知っていたら。……ヴォルデモートなんかに縋るよりも強く、俺たちが、ピーターの心を掴んでいれば」
「…………」
「何度も、あの日の夢を見る。ハロウィーンのあの夜のことを。……家が、壊れていて。ジェームズが、リリーが、死んでいて。なのにどうして、俺はこうして生きているのかって。あの絶望を、何度も何度も、夢で突きつけられるんだ……忘れるなって言われてるのかな、ジェームズに。忘れた試しなんて、いっぺんもないのに」
グシャッと、シリウスは髪を掻き上げた。
眼差しは、遠く虚ろだった。
「君に、秋に杖を向けられて、杖を折られて、アズカバンに送られて……正直、ホッとしたんだ。俺の罪を償う術が、ここにあったんだって。
アズカバンで過ごすことが、俺の贖罪の証となるのなら。ジェームズとリリーが、不甲斐ない俺を、それで許してくれるのなら。俺は、なんだってするよ」
分かるよ、シリウス。
昏い瞳が、言葉を紡ぐ。
「どうして、俺は生きているんだ。親友一人守れなくて、どうして俺はのうのうと生きているんだ。こんなところに閉じ込められて、俺は生きている価値があるのか?
……この家は、嫌なことばかり思い出す。父も、母も、レギュラスも死んでしまった。どうして俺は、生きているんだろう。まだ、ジェームズとリリーに償わなきゃいけないのかな」
シリウスが、そっとぼくに手を伸ばした。
一瞬後、強い力で抱きしめられる。
「……ハリーを見ていると、不思議な気分になる。ジェームズと重ねてはいけないと分かっているのに、重ねてしまう。ジェームズの言動を期待しては、一人失望してしまう。ハリーはジェームズじゃないのに。ジェームズは、もうここにはいないのに」
震える息が、耳元で鳴る。
「あの二人の元に行きたいと。そう願うことは、間違っているのかな」
その言葉に否定を返すことは、ぼくには出来なかった。
だって。
幣原も、同じことを思っているだろうことは、間違いなかったから。
だから。
「……ハリーのために、生きてよ。シリウス」
ぼくの言葉に、シリウスが小さく息を呑んだ。
シリウスの髪に、くしゃりと触れる。
幣原秋として、言葉を返した。
「ぼくも、ハリーのために、生きるから」
背後に佇む、大きなクリスマスツリーのイルミネーションは、無機質にチカチカと光っていた。
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