「……ねぇ、秋」
広い広いホグワーツの中の、小さな一部屋。
小部屋の中には、勉強している幣原秋と、ジェームズ・ポッターのみ。
テーブルにぐでんと顎をつけてスニッチを弄っていたジェームズだったが、勇気を出して秋に声を掛けた。
「何?」
「……あの、さ」
口ごもる。そのことをごまかすように、スニッチを持っていない方の左手で髪の毛をぐしゃぐしゃと掻いた。
秋の黒い瞳、それを直視しないように目線を落とし、えいやっと口を開く。
「……エバンズに告白しようと思うんだけど」
ノートに何かを書き付けるボールペンの音が、止まった。
ジェームズがちらりと顔を上げると、秋は頬杖をついたまま、無表情でジェームズを見ていた。
秋の無表情は、本人は自覚がないのだろうが、少しばかり怖いのだ。丁寧に整った顔立ちをしているからだろう。
「ぼくに気兼ねする必要はないよ、ジェームズ」
くるりと秋は指先でボールペンを回した。
「そもそも告白なら、一番初めの段階でもうしていたじゃない。四年生のダンスパーティでさぁ。覚えてるよ、ぼく」
「いや、それはそうなんだけど……そうなんだけど、ほら、改めて、というか」
「改めて」
淡々と秋はジェームズの言葉を繰り返す。
「……その。これでダメだったら……」
「諦める?」
「諦められる訳ないじゃないか!」
「だと思った」
しまった、思わず。
軽く咳払いをして、仕切り直した。
「諦めることは出来ないけど……でも、今より少し距離を置く……かも」
語尾が小さくなったのは、自分でも自信がないからだ。
リリー・エバンズに惚れて、早三年。初めは歯牙にも掛けられず冷たい言葉しか掛けてもらえず(いや、それは今もかもしれない)他の男──まぁ目の前にいる幣原秋なのだが──とエバンズが付き合ったりした訳だが、ダンスパーティには二度(どちらも土下座をして同伴のお許しを乞うた)、デートには一度(途中でシリウス達に邪魔されたが)成功している。
「でも、昔より成功する確率は高いと思う……んだよ」
「そりゃ、以前は皆無、コンマ以下を探っても見事にゼロが並ぶほどの見込みなしだった訳だし、それならたとえ現在の成功率が一パーセントだったとしても、昔よりは確率が高いんじゃないの」
「そんなに見込みなかったの昔の僕!?」
「自覚なかったの!?」
むしろぼくの方がびっくりだよ、と秋はぶつくさぼやいた。
「昔はところ構わず格好つけては呪い掛けるし、セブルスに嫌がらせはするし、セブルスに度を越した悪戯はするし、セブルスを公衆の面前でパンツ脱がそうとするし。あの時はこんなクズとどうして友達なんだろうと本気で頭抱えたよ」
「う、うぅ……あの時はごめんよ。君に湖に放り投げられて、頭が冷えた」
「冷えるのが遅いんだよ」
「秋は僕に対して辛辣だよね」
そう言うと、秋は目を瞬かせた。
「そうかな?」
「そうだよ。だってそんなにずけずけと物を言わないもん、他の人には。リーマスやリィフ・フィスナーにそんな物言いしてるの、聞いたことない」
「そうかな……そうかも」
「特別扱い?」
にやけて聞く。
てっきり「そんな訳ないじゃん」と返されるかと思ったが、予想は外れた。
「きっとそうなんだろうね」
「……へぇえ」
「ジェームズは、ぼくの憧れだから」
奇も衒いもなく、真っ直ぐに、幣原秋はそんなことを言ってみせた。
思わず呆気に取られる。
「憧れたもんだよ、君のような破天荒な人に。たくさんの人を、一つの悪戯で笑顔にしちゃうんだもの。まるで魔法みたいだ」
「……みたい、じゃないよ。魔法なんだよ」
「うん、そうだね。とっても優しい魔法だ。……素晴らしい魔法を、君はこれからも人にかけ続けていくんだろう。そんな君になら、リリーを任せてもいいかなって思えるんだ」
秋の声は、淡々としていた。
秋は真実、そんなことを考えているのだろう。
「……秋、エバンズの父親みたいだ」
「は……はぁあ!?」
「もしくはお兄ちゃんか。妹を頼むー、みたいな?」
「何言ってんの!?」
「君が……秋、君が、エバンズともう一度、付き合い直すってことがあるのなら」
ジェームズは口を開いた。
「僕は……身を引くよ。いや、エバンズの視界に入っているかも怪しいところだけどね、僕は。……君の邪魔はね、したくない」
存外大きな音に、ハッとした。
秋が、手元の本を乱暴に閉じた音だった。
「ぼくはリリーとは付き合わない。この先何があろうと、絶対に。……君ならぼくの気持ち、分かってくれているもんだと思っていたんだけど」
まぁそうだよね、と、秋は乾いた声を漏らした。
「だから今言っておく。ぼくは絶対に彼女のことをそういう意味で好きにはならない。彼女だって、ぼくをそういう意味で好きになることはありえない。ぼくと彼女が一緒に未来を歩む世界は、存在しない」
断定的な口調だった。曖昧な感情を、全て切り捨てるような声だった。
「……じゃあ、僕がもらっても、いいの?」
囁く声に、秋はほんの少しだけ、笑ったようだった。
「……初めから、そう言っているじゃない」
◇ ◆ ◇
クリスマス、再びぼくたちは聖マンゴを訪れていた。アーサーおじさんにクリスマスのお祝いをするためだ。
大人たちに病室を追い出され、「六階の喫茶店へ向かおう」というロンの提案に、反対する者は誰もいなかった。ぼくとハリー、ロン、それに昨日合流したハーマイオニーと一緒に、喫茶店へと向かう。
「まさか、ロックハートと出会うとはね」
ハリーは噛みしめるように呟いた。
三年前、ロンの杖が逆噴射して、『忘却術』が彼の身に降りかかったのだ。そのことについて平然としていた訳ではないだろうが、しかしいざ彼の容体を目にして、動揺しない訳にはいかなかったのだろう。
「あら、ミセス・ロングボトム、もうお帰りですか?」
そんな声に、ぼくらは揃って振り返った。
そして、瞬時に理解した。おそらくハリーも、そうだっただろう。
ネビルと、老婦人の姿があった。「ネビル!」とロンが声を掛けると、ネビルは飛び上がった。
ぼくらが止める間もなく、ロンが駆け出し、ネビルの元へ向かう。仕方なしに、ぼくらもロンの後を追った。
「ネビル、お友達かえ?」
ネビルのおばあさんだろう。おばあさんはハリーに目を止めると、柔らかな笑顔で握手を求めた。
「おう、おう、あなたがどなたかは、もちろん存じてますよ。ネビルがあなたのことを大変褒めておりましてね」
ネビルは俯いていた。拳にぎゅっと力が入っているのが見て取れる。
祖母の「おや、アリス、どうしたのかえ?」という言葉に、弾かれたようにネビルは顔を上げた。
ネビルのお母さん──アリス・ロングボトムが、ゆらゆらと身体を揺らしながら、こちらに歩み寄ってきた。
『初めまして、幣原くん』
あのときそう微笑んだ面影は、僅かに見受けられた。
ネビルにガムを手渡した彼女は、ふとぼくを見た。彼女の瞳が、僅かに見開かれる。
「──あら、幣原くん」
やがて、その表情に笑みを灯し、彼女は柔らかに微笑んだ。
「ずっと待ってた。いつ、来てくれるのって、フランクとも言っていたのよ」
瞳に、縫い付けられる。
「エリスくんは、元気?」
「────っ」
息が、吐き出せない。
ふと隣を、誰かが通り過ぎた。
「……アリス。もう、休むといい」
彼女の視線が、ふと動いてライ先輩に止まる。
「ライくん。あのね、幣原くんが来てくれたのよ」
「そうか。それはよかったな」
「エリスくんも、来てくれないかなぁ。ずっと見ていないわ」
「……忙しいのだろう。アリス、君も早く元気にならなければ」
「そうね。フランクも一緒に」
彼女の背を押し、ライ先輩は病室の奥へと向かった。ぼくは大きく息を吐き出す。
『幣原くん』
耳の奥で、今呼びかけられた言葉が輪唱を起こす。ぎゅっと目を瞑って、堪えた。
ぼくは幣原秋じゃない。
ぼくは、アキ・ポッターだ。
『自分』を見失うな、アキ。
「徐々に良くなってきているんですよ。あの先生のおかげでね」
ネビルのおばあさんは、二人が消えた奥を見ながら言った。
「前は言葉もうまく話せなかった。それをここまで回復させてくれたのはあの先生のおかげです。まだ、意識は十五年前のまま、現在を認識出来ないようだけれど……。あの先生はフランクとアリスの同級生でねぇ、本当によくしてくれる。魔法医学、特に脳医学を専門にしていらっしゃる方でね。時折、様子を見に来てくださるんですよ」
やがて、ライ先輩が姿を現した。
ネビルのおばあさんに目を向けると、「……どうも。来ていらしたんですか」と一礼する。
「いつもいつも、ありがとうねぇ」
「……いえ、私はこれが仕事ですから。それでは」
頷き、ライ先輩はぼくを一瞬だけ視界に入れると、すぐさま歩き去ってしまった。
「さて、もう失礼しましょう。みなさんにお会いできてよかった」
そう言って、ネビルと、ネビルのおばあさんは立ち去っていった。
「……アキ、行こう?」
そう言うハリーに、小さく首を振った。
「後で行くよ」
ハリーは少し悲しげな顔をしたが、何も言わなかった。
閉じられた病室の前で、ぼくは静かに息をついた。
幣原秋は、彼女のお見舞いに一度でも顔を出したのだろうか。
出していないのだろうと、直感が告げていた。『アキ・ポッター』となってからは、会いに行くことも出来なかった訳だし。
──それでも。
求められていた。望まれていた。
『いつ、来てくれるのって』
待っていてくれたのだ。彼女は、幣原を。──ぼくを。
病室の扉に、額をつけた。奥歯を食いしばる。声には出さず、呟いた。
──ごめんなさい。
かつて同僚だった、彼女に。彼女の夫に。二人の息子である、ネビルに。そして、エリス先輩に。
「お前が謝っても、どうにもならない」
声に、振り返る。
ライ先輩が、立っていた。
「出せ、アキ」
静かな声で、ライ先輩は言った。
何もかもを見通した瞳で。
「子供の中に引きこもって現実を直視していない、あの臆病者を」
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