(ま、まずいことになってしまった)
ピーター・ペティグリューは身震いした。
ピーブズに追いかけられ、『動物もどき』の姿のまま、必死に隠れられる場所を探して飛び込んだ。そこが、グリフィンドール寮の天敵、スリザリンの談話室であったことに気付いたのは、すぐのことだった。
すぐさま出ようとしたが、談話室のドアは閉じられてしまった。現在ネズミの姿であるピーターには、それをこじ開けるだけの力はない。
人型に戻れば可能だろうが、談話室に人は大勢集まっていて、そこでグリフィンドールのローブ姿を晒すことがどれだけの愚策かは、ピーターにも容易に分かった。
(ど、どうしようか)
こんなとき、ジェームズだったらどうするだろう。
シリウスだったら、リーマスだったら、一体どう対処するのか、小さな脳みそで考えた。
(ジェームズとシリウスは……ダメだぁ、あの二人は堂々と姿を見せて周りの人たちボコボコにして颯爽とこんなとこから退散してるよぉ)
なら、リーマスは?
リーマスなら、しばらく息を潜めているだろう。そしてほとぼりが冷めた辺りで退散するはずだ。
リーマスが取りそうな行動なら、自分にも真似が出来る。そう思うと、少し心が楽になった。
スリザリン生は、何やら集まって話をしているようだった。円を描いて集まっている。
ピーターに辺りを見渡す余裕が出てきたからか、彼らの会話が耳に飛び込んできた。
「……でも、どうやって?」
「あの方も、無理難題を押し付けてきた」
「セブルスは? あいつはどこに行ったんだ?」
「知らないよ」
「セブルスの奴、幣原と仲がいいだろう? 庇おうとするんじゃないか?」
「あの方の命令に背いてまで? 冗談だろう。セブルスもそこまでバカではないさ。所詮友達だ、あの方のためなら簡単に売る。セブルスはそういう男だ。狡猾で掴みどころがなく、どこでも上手く立ち回る……」
くつくつとくぐもった笑い声が漏れた。賛同する声がそこかしこで上がる。
「闇の帝王はセブルス・スネイプにこの任務を課したのではない。我々全員にこの任務を課したのだ。幣原秋を闇の帝王の元に引きずり出すという任務を」
ピーターは思わず目を瞠った。
「どうして幣原秋を闇の帝王がご所望なのかについて、考えるだけ杞憂、時間の浪費に過ぎないだろう。闇の帝王の高尚な考えは、一介の
「……その通りだな。君の言う通りだ、エイブリー」
「しかし、一体どうやって?」
「それは……」
──とんでもないことを聞いてしまった。
ドクドクと耳の奥で鼓動が鳴っている。
──秋に知らせないと。
秋が危ない。
逃げるように駆け出した瞬間、床に落ちていた本に思いっきり鼻から当たってしまった。大きな音に、何人かが何事だと振り返り、音の元凶を探す。
慌てて隠れようとしたが、摘み上げられる方が早かった。
「なんだ、ネズミか。汚らわしい」
「とっとと放り出しておけ」
チーチーと鳴くピーターに、音の原因が分かって失望した目を向けるスリザリン生。
しかし、その中の一人だけは違った。
「……いや、ネズミじゃないぞ。もしかしたら、こいつ……」
ピーターにじっと顔を近付ける彼、名前は確か、エイブリーだったか。
底冷えのする瞳でじっと見られて、ピーターは竦み上がった。
「おい、エイブリー。ネズミなんて放っておけよ」
「万が一のこともある。試してみようじゃないか、ネズミをどっかにやるのはそれからでいいはずだ──」
そう言ってエイブリーはすらりと杖を抜くと、ピーターの眼前に突きつけた。恐怖にかられ暴れるも、自身を摘み上げる力は案外強く、離してはくれない。
「汝の姿を現せ」
青白い閃光が、杖先から迸る。気付けばピーターは、元の人間の姿のまま呆然と注目を浴びていた。
エイブリーに胸倉を掴まれ壁に押し付けられてなお、ピーターはしばらく現実を飲み込むことが出来なかった。
「ほぉ……面白い、『動物もどき』か。どこかでコソコソ嗅ぎ回る人間臭いネズミの話は聞いていたものの、君のような出来損ないの落ちこぼれが、こんな高度な術をマスターするとは思ってもいなかったよ、ピーター・ペティグリューくん」
杖を顎先に押し当てられ、ピーターは恐怖でガタガタと震えた。目に涙が浮かぶ。
「ポッターとブラックの腰巾着くん。今日ここで見たこと聞いたことを、決して誰にも話さないと約束してくれるかな?」
秋の身に危険が迫っていることと、現状の自らの窮地を、天秤に掛け。
迷いなく、自分自身の安全を取った。
こくこくと頷くピーターに、満足げにエイブリーは頷くと杖を引く。
しかし掴んだ胸倉はまだ放さない。
「このくらいで見逃してあげるよ、害にもならない臆病者」
──あぁ、その通り。
涙で霞む視界の中、ピーターは思った。
臆病者。
その呼び名は、誰より何より、自らに相応しい。
◇ ◆ ◇
ハリーは、冬休みが終わってから、スネイプ教授と『閉心術』の訓練をすることになったようだ。
グリモールド・プレイスにスネイプ教授が訪れたのは、冬休み最後の日だった。応対したシリウスと色々あったらしく、しばらくシリウスはずっと不機嫌だった。
冬休みが明けて二日目のこと。ぼくはアリスの隣で、日刊預言者新聞を睨みつけていた。
『アズカバンから集団脱獄 魔法省の危惧──かつての死喰い人、ブラックを旗頭に結集か?』
「パンくずを零すな、汚れるだろ」
アリスがムッとした顔で、紙面からパンくずを払い落とした。「ごめんごめん」と軽く詫びる。
「いい加減、自分で新聞買えばいいじゃねぇか。そんなに金に困ってる訳じゃねぇんだろ?」
「今の、魔法省に迎合し媚びへつらってハリーをこき下ろす日刊預言者新聞には一クヌートたりとも払ってやるもんか。そもそもイギリスの魔法界の主だった新聞社がここしかないっていうのがいけない。市場の独占は企業の堕落を許すんだぞ」
「そんなこと言うのなら、お前が作れ、競合企業を。……しかしまぁ、落ちぶれたもんだ、とは思うがな」
軽い口調とは裏腹に、アリスの視線は鋭かった。何度となく一面記事を見ながら、考え込むように口元を手で覆っている。
ぼくはちらりとスリザリンのテーブルに目を向けた。どの寮の生徒も、今日の新聞を片手に騒ついてはいるが、スリザリンのテーブルだけは、ざわめきの種類が少しばかり異なるようだった。
ドラコは仲間たちと一緒に盛り上がってはいたが、その表情には僅かばかりの焦りが見える。アクアは普段通りの無表情ではあったが、何も考えていないことはあり得ないだろう。
「集団脱獄、とは言うが、おそらく魔法省はもはや、吸魂鬼を制御出来ていないんだろう……お前の兄貴の件だったり、どうも最近動きがおかしい。ブラックを旗頭に、というよりむしろ、アズカバンの看守の怠慢が原因だろうな」
アリスは冷静に言葉を紡いだ。
「きっと、そうだろう。ヴォル……例のあの人は、闇の生物を味方につけるのが得意だった。彼らがぼくら魔法族に奪われ続けてきた『自由』をくれてやると約束して」
「あぁ、その通りだ」
アズカバン集団脱獄のニュースは、ホグワーツに暗い影を落とした。
親戚が、あの十人の死喰い人の手に掛かって命を落とした生徒も多く、彼ら彼女らは廊下を歩くたびに下世話な好奇心の詰まった眼差しに晒されて辟易していた。
同時に、ハリーへの視線の種類が少しずつ改善してきたようだ。日刊預言者新聞の記事では満足出来なくなった生徒が、「ヴォルデモートが復活した」と言い続けるハリーとダンブルドアに興味を示し始めたのだ。これは、いい兆候だった。
その折だった。
「……アキ。次のホグズミード休暇、絶対空けておくのよ」
そんなことをアクアに言われたのだった。
「……期待した、期待したのに」
何せ、このホグズミード休暇はバレンタインなのだ。アクアからその日を「絶対空けておいてね」と言われたら、そりゃあ期待する。期待しないわけがない。……何を期待するかって? そりゃ……コホン。ぼくも一応は男の子ですし。
「ごめんなさいね、アキ、邪魔しちゃって。まだ時間もあるし、アクアとどっかに行ってきてもいいのよ?」
『三本の箒』には、アクアと、そしてハーマイオニーの姿。
ハーマイオニーがいるから、というわけではないが、それでもため息でも吐きたくなるというものだ。
「いや、でもそうしたら、ハーマイオニーがひとりぼっちになっちゃうじゃん。いいよ……」
「あら、あんたも来てたんだ」
ほんわかと夢見るような声を掛けられ振り返ると、そこには我が寮の後輩、ルーナの姿。
「ほら、ひとりぼっちじゃなくなったわ」
「…………」
大きくため息をついた。
ルーナが「どうしたの? 変な顔してる」とぼくを見て大きく首を傾げている。
「なんでもないよ、なーんでも……」
頭を振ると、普段より乱暴に席を立った。ローブのポケットに手を突っ込んだまま、アクアに「行くよ」と声を掛け、振り返らずに『三本の箒』から出て行く。
通りは雨が降っていて、色とりどりの傘が、決して広くはない通りを埋め尽くしていた。
「ちょっと、アキ……」
パタパタと、アクアが走ってきてぼくの隣に並んだ。ぼくの顔を伺うように覗き込んできて「……怒ってる?」と尋ねる。
「……無意識、なんだろうなぁ」
「え?」
「なんでもない。行こう」
傘を手に、ぼくらは歩いた。これといった宛てもなく、時折アクアを置き去りにしていないか振り返って確認しながら、ずんずん進んで行く。
雨と雪で、足元が悪い。外にいても冷えるし、どこか喫茶店にでも入ろうか。
そう思った辺りで、喫茶店らしき建物が目に付いた。
ドアを押し開け、軽く後悔する。
マダム・パディフットのお店は、昔と──幣原秋の記憶と違わず、今でも少女趣味の洪水に溢れていた。
しまった、とりあえずなんでもいいから屋内に入りたいという思いでいっぱいで、店の名前を確認することすら怠ってしまった。出ようとするも、それより店員が席に案内する方が早かった。断りきれず、ぼくは再びため息をつく。
案内された席のすぐ近くで、ハリーとチョウの姿があった。ぼくは思わず目を瞠る。
チョウはこちらに背を向けているため気付いていないようだが、ハリーはぼくらに気付いたようだ。青ざめた顔で助けを呼んでいる。ぼくに何が出来るというのだ、頑張れ我が兄貴よ。
席では、小さなキューピッドが一人、赤く大きなハートを手に、命の通わない笑顔で飛び回っていた。少女趣味が理解出来ないぼくとしては、嫌にグロテスクなものにも見えて、席に付く前に左手で払いのける。
「紅茶とコーヒーを一つずつ」
やって来た店員さんにそれだけ伝えて、頭を押さえた。店内の香水の香りだろうか、やけに甘ったるい匂いが、側頭部あたりを刺激して微妙に気分が悪い。
「……やっぱり、怒ってる」
「怒ってない」
「ほら、怒ってる」
「怒ってないって……本当だから。人の思い通りになってる自分が嫌なだけ……」
ぐしゃぐしゃと前髪を掻き、引っ張ると、頭の中を切り替える。
丁度よく飲み物が運ばれてきたので、紅茶に砂糖を入れるとかき混ぜ、一口飲んだ。
はぁ、と息をつき、なんとなしに隣を見て、隣がその、なんだ、接吻とやらを公共の場であるにも関わらずなさっていて、思わず動揺する。
えっ、ここ喫茶店だよな、いかがわしいところじゃないよな!?
「あ、あのさ、アクア。彼の様子はどうだった?」
チョウとハリーが近くにいる、ということを鑑み、『彼』と伏せて会話を振る。
アクアは一瞬だけ目を白黒させたが、すぐに飲み込んだのか「あぁ」と頷いた。
「……元気、そうだったわ。だからこそ、歯がゆいのだけれど。彼を、助けてあげられない自分に。飼い殺している自分自身に」
「……そうか」
……ここにいると全身から汗が吹き出るのはぼくだけか。
緊張で死にそうなんだけど。緊張というか、凄く居心地が悪い。
アクアは一体どう思っているのだろう。女の子の思考は意味不明だ。
もしかするとぼくにその、キ、キスなんてして欲しいとか思ってたり……。
「……絶対無理」
「は?」
しまった。声に出していた。非常に気まずい。
「……飲み終わったら、とっとと出る。いいね? アクア。……ちょっと、何笑ってんの」
ぼくの言葉に、アクアはクスクスと笑っていた。一体なんなんだ。
アクアは悪戯っぽく微笑んで言った。
「アキは、一体いつこの空気に耐えられなくなるのかしらって考えていたところだったのよ。案外耐えたわね」
アクアは軽やかに立ち上がると「行きましょう、アキ」と笑う。
その笑顔に思わず見惚れ、慌ててぼくも立ち上がった。
一生、彼女には敵わないなと思った。
敵わなくてもいいや、と思って、口元がにやけた。
「さあ、始めてちょうだい」
『三本の箒』に、ハーマイオニーの明快な声が響く。
「……どこから話せばいいのか分からない。けれど、僕が去年見たことを、そのまま話そうと思う」
そう前置いて、ハリーは語り出した。リータの自動速記羽根ペンが、羊皮紙の上を飛び跳ねている。
「それでも、本当にいいの? アクア」
ハーマイオニーの声に、アクアは顔を顰めて、それでも微笑んだ。
「ええ。……よろしく頼むわよ、リータ」
僅かに、目を伏せて。
「……私は多分、もう二度と、あの家には帰れないわ」
再び顔を上げたときには、その瞳には真摯な光が宿っていた。
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