冬の名残は、あっという間に過ぎていった。もう、空気は春めいてきている。
まだまだ風は冷たいが、じきにすぐ夏になるだろう。
「はー……」
教室の床に、大の字に転がった。ぐ、と大きく伸びをする。
目を開けると、空中には銀色の濃い霞の他、虹色に輝く光の玉、金色にたなびくオーロラのようなものに、光に反射してキラキラ光るふわふわとしたリボン状の霧が広がっていた。
顔を動かせば、馬に変身させるために使ったテーブルや、呼び寄せ呪文に使ったクッション、狙撃呪文の狙いをつけるためのダーツ盤など、様々なものが転がっている。
闇祓いの試験は、筆記と実技。いや、それよりもまず、いもり試験で望まれた点数が取れなきゃ意味がない。
いもり試験は、ふくろう試験と同じく六月にある。二週間の長丁場に耐えた後、闇祓いの本試験は、そのすぐ来週だ。悠長に構えている時間はない。
「エリス先輩、すっごいな……ありえない……」
両手を目に当て、ぼくは呻いた。
例年ならば、七年生のちょうどこの時期に魔法魔術大会の本戦が始まっていたはずだ。よく、二足のわらじが履けたものだ。しかもあの人、監督生も兼任してなかったっけ。化け物かよ。
「……よし」
頑張ろう。エリス先輩にも『闇祓いになる』って宣言して逃げ道を塞いだんだから、頑張るしかない。
闇祓い以外の他の進路は考えてないし、職の当ても、それどころか住む場所の当てすらない。色んな人にも『君なら出来る』と励まされたし、なれなかったらお笑い種だ。
開いて置いてあった『闇の魔術に対する防衛術』のノートをパラパラとめくる。
次はどの呪文を練習しようかな、と考えたところで、ふと視線を感じた。
「……オパグノ」
教室の扉に向かって杖を振ると、飛び出した何十もの小さな鳥が、鋭いクチバシを扉に突き立てた。「うわぁっ!?」と、教室の外から叫び声が聞こえる。
「……何してんの?」
扉を開けると、そこには腰を抜かしてもつれ合うように倒れ込んでいる悪戯仕掛人プラス、リリーの姿が。
「秋、酷いよ!」
「びっくりしただろ!」
「手加減はしたよ、ちゃんと」
手加減しなかったら、あの鳥たちはクチバシを扉に突き立てるだけじゃ飽き足らないはずだもの。
長年、魔力の制御を特訓している成果だ。昔は無理だったけど、今じゃ蛇口を捻るように出力が思いのまま。
「どうしたのさ、こんなところで?」
首を傾げて聞くと、思いがけない言葉が返ってきた。
「君を探してたんだよ!」
「……ぼくを?」
「そうよ!」
這い出してきたリリーが、満面の笑顔でぼくを見上げた。
いいけど、リリー、髪の毛ボサボサだぞ。折角綺麗な髪なのに。
「もうすぐ卒業しちゃうでしょ? だから、その前に写真撮りましょうよ!」
「写真なぁ……」
苦手なんだよなぁ、撮られるの。
「なんで苦手なの?」
リーマスが目を瞬かせて尋ねた。
んー、と肩を竦める。
「……魂を抜かれる、って、言わない?」
「なんだそれ! 日本じゃそんなこと言うのか? 変なの!」
ジェームズが笑い転げている。リーマスも苦笑を隠しきれないようだ。
確かに、こっちじゃそんな話聞いたことないけど……。
「いーい? 撮るわよー! 秋、魂取られないから、もっと力抜いて! すっごい怖い顔してるわよー!」
リリーがカメラを構えて大きく手を振っている。ぼくはそれに引きつった笑みを返した。
うう、逃げたい。逃亡したい。
「ほら、秋!」
シリウスがぼくの肩に腕を回した。引き寄せる。
「だーいじょうぶ。魂抜けても、俺が引っ張り戻してやるからさ」
「……っふ、何、それ」
「お? なんだ、俺が信じられないか?」
悪戯っぽい目で、シリウスはぼくを見た。
灰色の瞳が、楽しげに煌めいている。
「君なら、本当にやってのけそうだ」
「当然さ。僕らの絆は永久不滅。王水にだって溶かせやしない!」
ジェームズが、澄んだ眼差しで叫んだ。
カシャリ、とシャッター音が鳴る。と同時に、シリウスがぼくを解放した。
「どうだ? 魂、ちゃんとある?」
「……当然!」
リリーが持ってきたカメラは、ポラロイドカメラのようだった。即座に現像が行われる。
マグルのカメラは、普通一回の撮影で一枚が限度だけれど、これは違うようだった。人数分刷ったそれを、ジェームズが配る。
直視せず受け取り即座にカバンの中へ突っ込んだぼくに、リーマスは笑った。
「うるさいな……リリー、代わるよ。君も入れて撮ってあげる」
「えぇー」
リリーのカメラに手を伸ばすと、リリーは不満の声を上げた。
「秋と写りたかったのに……」
「もう勘弁して……」
一枚でもうメンタルゲージが赤色を示しているのだ。これ以上は無理。
カメラを構えると、慌てたようにそれぞれが集まってきた。各々好き勝手にポーズを決めている。
ジェームズが、何かをリリーに囁いた。リリーはくすりと笑う。
とても、綺麗で可愛い笑顔だと思った。
笑顔を逃さぬよう、カシャリとシャッターを切る。
「ちょっと秋! 撮る時は合図くらいしてよ!」
「あっ、ごめん」
思わず、反射的に。
文句を垂れる仕掛人たちに謝りながらも、現像された写真を手に取った。
そして、沈黙。
「わぁ、とっても素敵ね!」
初めに声を上げたのはリリーだった。輝くような笑顔を、ぼくに向ける。
「……ま、これでいいんじゃない?」
呆れたようにそう言ったのは、ピーターだった。それに、悪戯仕掛人の面々も同意する。
「秋、君、カメラ初めて触っただろ」
シリウスにそう言われ「どうして分かったの?」と目を瞠った。
「一目瞭然さ。あぁ……でも、まぁ、それにしちゃよく撮れてるんじゃないか?」
「よく撮れてるも何も、最高だよ!」
ジェームズが楽しそうに微笑んだ。
写真の中の彼らは、いきなり撮られたことにそれぞれ驚いたり呆れたり笑ったりしている。
「写真ってのは、楽しい思い出を切り取って、ずっと保存するためのものなんだからさ!」
──ジェームズのその言葉に。
ぼくは少しだけ、ほんの少しだけ──写真が好きになった。
◇ ◆ ◇
進路指導の日程が寮に貼り出されると、五年生の雰囲気は一気に張り詰めた。自分の進路を決める大切な試験、ふくろう試験が迫っていることを突きつけられるからだ。
レイブンクロー生は、誰もがノートや教科書を常に開いて持ち歩き、前を見ずによく誰かしらにぶつかっていた。試験前のレイブンクロー寮名物だ。
「失礼します」
笑ってフリットウィック先生の部屋に入る。幣原の記憶通りの、フリットウィック先生サイズの小物に溢れた部屋。
その中、今日は異端者がいた。隅の方にアンブリッジが椅子に座っている。進路指導が先に終わった同級生が辟易した顔で「君のせいだろ」と肩を揺さぶってきていたから、予測はしていた。
「アキくん、お掛けなさい」
フリットウィック先生はにこやかに笑って正面のソファを指し示した。アンブリッジがいるというのに、普段通りの柔らかい声だ。
「さてさて、アキくん。君の成績ならどこにだって行けるでしょう。我が寮から『12ふくろう』の努力家くんが現れるのは、実にめでたいことです」
「そんな、先生、まだふくろう試験は終わってませんよ?」
「いやいや、今までの君の成績を鑑みての妥当な発言です。滅多なことが起こらない限り、私は二年後、君に主席のバッジを渡すつもりですよ?」
そこで、アンブリッジの咳払いが入った。ぼくもフリットウィック先生も共に無視する。
「将来就きたい仕事は、何かありますか? 以前苦手だった『魔法薬学』も、良い成績を収めているようですね。結構結構」
フリットウィック先生の言う『以前』が、ぼくの一~四年生までを指すのではなく、幣原秋のことを言っているのだと、ぼくには分かっていた。
「……先生。将来就きたい仕事、一つだけあるんです」
小さく微笑んだ。
あの当時は、幣原秋は、選ぼうとしなかった道を。
「ホグワーツの先生になりたいんです」
ぼくの言葉を聞いて、フリットウィック先生は破顔した。
「君になら、いつでもこの座を譲り渡しましょう。そもそも、二十年も前から、君に渡そうと思っていた席です」
ぼくも思わず笑みを浮かべた。
ぼくらの間の和やかな雰囲気をぶち破ったのは、アンブリッジの声だった。
「エヘン。お言葉ですが、フィリウス? 彼がホグワーツの教師に相応しいかどうかは、わたくし疑問に思っておりますの」
フリットウィック先生はものすごーく面倒臭そうな眼差しでアンブリッジを見た。
「一応お聞きしましょうか。何故ですか?」
「エヘンエヘン。それでは言わせてもらいますが、彼には教師として若輩を教え導くには、少々未熟ではないかと思いますわ。彼の記憶力は確かに腹立たしいほど素晴らしいですが、教師に対する反抗的な態度といい、実際子供たちを教えられるかと言われますと、難しいものがありますわね」
「おっしゃりたいことはそれだけですね? アキくん、昔も言いましたよね。君の才能を一番活かせる場所は、ここだと。君の才能は、教育、研究という道にこそ、最高のものを示すと。私の思いは、今も変わっていませんよ」
フリットウィック先生の眼差しは、真摯だった。それを遮る、アンブリッジの咳払い。
「そもそも、ではありますが、ホグワーツの人事権は校長、すなわち現在わたくしが持っているということをお忘れではないですか? フィリウス。わたくしは彼が教職に就くことを絶対に認めませんわ」
「あなたの個人的な好き嫌いなど聞いていません。この子は私の最高の教え子です。ずっと最高点を付け続けた、今もなお。この子が杖を振った様すら見たことがない、実技をまるっきり無視して教科書を読むことしか出来ない闇の魔術に対する防衛術教師は黙っていなさい」
フリットウィック先生がピシャリと言うのに、アンブリッジは鼻白んだ。口を閉じて、手元のフリップボードに猛烈な勢いで何かを書き込み出す。
ぼくは愉快だったが、フリットウィック先生が停職にでもなったらどうしようと、それだけが心配だった。
「教師になりたいと、その言葉、信じてもいいのですか? アキくん」
フリットウィック先生の言葉に、思わず詰まった。
どうして詰まったのか、自分でもよく分からなかった。
「……はい」
しっかりと頷く。
フリットウィック先生は満足げに、にっこりと微笑んだ。
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