桜の花びらが、風に舞って散っている。
薄い水色の空に、淡いピンク色。この色合いに物凄く郷愁を感じるのは、一体どうしてなのだろう。
イギリスの桜は日本と少し違うが、なぜだかホグワーツには一本だけ、日本によく咲いている種、染井吉野の木があった。東塔の校舎裏にあるそれは、ひっそりと佇んでいて、誰に見られていようが見られていまいが構わない、という矜持があるようで、思わず笑みが零れる。
「秋だ! 秋ー!」
名前を呼ばれて振り返ると、東塔の二階から、リリーが手を振っていた。微笑んで手を振り返すと、リリーがパッと東塔の中に引っ込んでいく。
あっという間に、二階から駆け下りてきたリリーが、校舎裏へと姿を現した。
「こんな桜、今まであったかしら?」
今日は風が少し強いようだ。長く綺麗な赤い髪を手で押さえながら、リリーは首を傾げた。
「ぼくも初めて見つけたんだ。ホグワーツの不思議なところだよね。季節も、本当なら三月や四月に咲くはずなのに」
「ふふっ、そうね」
リリーは笑みを浮かべたまま、桜を見上げて目を細めた。
「……でもね、この花は、日本じゃちょうど卒業の時期に咲くんだ」
呟いたぼくの言葉を、リリーは拾った。
「日本で、とっても愛されている花でね……川べりやら、本当に至る所に植えてある。学校にだって。日本の学校の卒業は三月なんだけど、ちょうどその時期に満開になって、桜並木の中をね、歩くんだ」
「……とっても、綺麗なんでしょうね」
ひらりひらり、風が吹くたびに、花びらが少しずつ散ってゆく。
リリーの赤い髪に、花びらがついているのに気付いた。手を伸ばそうとして、躊躇う。
「……髪に、花びらついてる」
結局、口で指摘するだけに留めた。
「えっ、どこ?」
「頭のてっぺん……あぁ、違う、もうちょい左」
照れたように、リリーは微笑んだ。大人っぽい綺麗な笑みだった。
「不死鳥の騎士団に、入るんだ」
「……えぇ、そうよ」
リリーから目を逸らして、桜を見上げた。
「……止めて欲しい、って言ったら、どうする?」
「……たとえそれが、秋の頼みでも、私は聞かないわ。ただでさえ、ジェームズに再三言われているのに。……嫌ね、男の子って。どうして、女の子を守ろうとするのかしら」
「…………」
「女の子だってね、戦いたい時もあるのよ。私にとって、今がその時」
穏やかな表情だった。迷いのない言葉だった。
「今この世の中で、私に出来ることをしたい。ジェームズはきっと、不死鳥の騎士団で戦いの最前線に飛び込むわ。あなたも、シリウスも、リーマスも、ピーターも。皆が戦っている中、置いていかれたくない。私だって、私に出来ることがしたい。……私が、仲間外れが嫌いだって、秋ならよく知ってるでしょ?」
「……そう、だったね」
嘆息した。
「リリーが男だったら良かったのになぁ」
「あら、私だって、秋が女の子だったら良かったのにって、いっつも思っているわ。覚えてる? 昔、セブを驚かせようとして、私たち入れ替わったの」
久しぶりにリリーの口から聞いた「セブ」という単語に、思わず表情が強張った。
悟られないように、強いて平静を保つ。
「覚えてるよ。スカートを履いたのは、あれが生まれて初めてだ」
「あの時、あなたの制服を借りたけど、私男の子の制服、案外似合っていたでしょ? サイズもぴったりで」
「身長の話は止めようか」
悲しくなってくるから。結局、あんまり伸びなかったし。
「大きくなったわよね、でも。昔は私より小さかったのに」
「今でも、リリーとほんの少ししか違わないけどね」
それでも、一応はリリーより背が高くはなったから、少しだけホッとする。ぼくの遅く短い成長期も、このときばかりは空気を読んでくれたようだ。
「……卒業、するんだよね。変な感じ」
リリーはぽつりと呟いた。
「リリーと出会って、もう七年が経つのか。早いね」
「秋と出会ってたった七年だなんて、短いわ」
むぅ、とリリーはむくれる。
一体どうしてふくれっ面をするんだ、と、ぼくは笑った。
「……変なこと言ってもいい? 秋」
「……どうしたの、リリー?」
リリーは、自身の赤いネクタイをぎゅっと握った。グリフィンドールの、赤と金色のネクタイを。
「……なんでもない」
「なんだよ、変なの」
「私は変な子よ、知らないの?」
「よーっく存じております」
クスクスとぼくらは笑い合った。
「七年と言わず、何年だって。君が結婚しても、ぼくが結婚しても、変わらずに友達でいよう。……だって」
人生は長いのだから。
──なんて、なんたる痛烈な皮肉だろうか。
◇ ◆ ◇
一番最後の試験は、魔法史だった。
よく、こんな重たい教科を最後に持ってきたものだ。五年分のノートと教科書を積み上げると、優に一メートルは超えるだろう。
「試験問題を開けて。始めてよろしい」
マーチバンクス教授の言葉に、一斉に問題用紙を開く音。
泣こうが笑おうが、これが最後の試験だった。
「殺すなら殺せ」
目の前でシリウスが言っている。
血まみれで、苦痛に顔を歪めながらも、誇り高く気高く、そう言い放つ。
「言われずとも最後はそうしてやろう」
自分の口から、信じられないほど冷たい声が出た。
そもそも、自分はこんな声をしていただろうか。自分の目線は、こんなに高かっただろうか。
分からない。何も、分からない。
自分の口が、言葉を紡ぐ。
「しかし、ブラック、まず俺様のためにそれを取るのだ……これまでの痛みが本当の痛みだと思っているのか? 考え直せ……時間はたっぷりある。誰にも貴様の叫び声は聞こえぬ……」
杖が、シリウスに向いた。閃光が迸り、シリウスは息も絶え絶えに絶叫する。
自分はそれを笑って見ている……。
──僕は、誰だ。
違う。これは僕じゃない。
僕はシリウスをこんな目に合わせたりなんてしない。
大切な大切な後見人を、こんな惨たらしく痛めつけたりは絶対にしない。
悲鳴が聞こえた。そう思った。
それが自分の声だと気付いたのは、少し経ってからだった。
「ハリー、ハリー!!」
僕の名前を呼ぶ声が聞こえる。
肩を思い切り揺さぶられ目を開けると、視界に愛しい弟、アキの姿が入ってきた。
「大丈夫、ハリー!?」
大丈夫、と反射に答えようとした。
しかし、口から零れたのは、信じられないほど小さく震えた声だった。
「シリウスが、ヴォルデモートに捕まった」
あまりに小さいその言葉は、アキにしか聞こえなかっただろう。
アキは大きく目を見開いた。
「ハリー、それ、どういう……」
アキの声を遮ったのは、マーチバンクス教授だった。
アキを僕から引き剥がす。同時に、トフティ教授は僕の腕を引いた。
「アキ・ポッターくん、君は試験に戻りなさい。トフティ教授、彼を頼んでも?」
「承知しました。さぁ、ポッターくん」
有無も言わさぬ口調で、トフティ教授は僕を支えると玄関ホールまで連れ出した。
誰もが一斉に僕を見つめている。
「行きません……医務室に行く必要はありません……行きたくない……」
大きく咳き込むと、少し震えが治まった。
トフティ教授は気遣わしげに僕を見ている。
「何でもありません、先生。大丈夫です……眠ってしまって、怖い夢を見て……」
額の汗を拭った。トフティ教授は好々爺風に笑いながら、僕の肩をトントンと叩く。
「試験のプレッシャーじゃな! さもありなん、お若いの、さもありなん! 試験はもうほとんど終わっておるが、最後の答えの仕上げをしてはどうかな?」
「はい、あ、あの、いいえ、もういいです……出来ることはやったと思いますから……」
「そうか、そうか。ならば、私が君の答案用紙を集めようの。君はゆっくり横になるがよい」
「そうします。ありがとうございました」
素直に頷いた。
トフティ教授の姿が大広間に消えた瞬間、僕は駆け出していた。
階段を駆け上がる。通り道の肖像画が、僕のあまりの速さにブツブツ文句を言うのも知ったことじゃない。
医務室に駆け込むと、マダム・ポンフリーが驚いて悲鳴を上げた。
「マクゴナガル先生にお会いしたいんです。いますぐ、緊急なんです!!」
「ここにはいませんよ、ポッター。今朝、聖マンゴに移されました」
マダム・ポンフリーの言葉にショックを受けて、しばらく呆然とした。
何かマダム・ポンフリーが言っているが、耳を素通りしていってしまう。
「……秋」
連絡が取れる不死鳥の騎士団のメンバー。ダンブルドアもマクゴナガル先生もハグリッドもいない今、頼れるのは彼だけだ。
それにさっき、アキに対して呟いた。『シリウスがヴォルデモートに捕まった』と。
くるりと身を翻して大広間に駆け戻ると、ちょうどロンとハーマイオニーに出会った。
「ハリー!」
駆け寄ってくるロンとハーマイオニーに「一緒に来て。話したいことがあるんだ」と告げた。
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