卒業の儀は、つつがなく終了した。
頭に乗った帽子の位置がなんとなく気になって、両手で直す。
ガウンというものを初めて着たが、ローブとよく似ていて、じきに慣れた。
裏地は見慣れた濃い青色。
「あー、疲れた……」
式典というのは、どうしてこうも肩が凝るのか。
外に出て、空を見上げながらぐっと伸びをすると、後ろから笑い声を掛けられた。
「君は相変わらずだね、秋」
「リィフ」
ぼくの隣に並んだリィフは、同級生だというのに随分と大人びて見える。日本人は童顔だとか、そういう話だろうか。端から見たら、ぼくとリィフが同い年だと思う人はそういないだろう。
「卒業だけど、秋とは就職先が一緒だからなぁ」
「あぁ、リィフも魔法省だっけ」
「そ。闇祓いなら、法執行部か」
「まだ闇祓いになれるって決まった訳じゃないんだよ。採用通知もまだだし」
「いつ通知が来るの?」
リィフの言葉に、思わず渋い顔をした。
ぼくの表情の変化に、リィフはきょとんと目を瞬かせる。
「……今日」
「今日! へぇ……」
ちょうどその瞬間、一羽の鳥が飛んできた。真っ白の鳩だ。そいつはぼくの真上で手紙をポトリと落とすと、一鳴きしてすぐさま身を翻し、風に乗って飛んでいってしまう。
相変わらず、動物にはトコトン嫌われている。
「わっ、と……!」
空から舞う手紙をキャッチしようとしたが、誤って手で弾いてしまった。
ヒラヒラと手紙が地面に落ちる直前に、リィフがサッと拾い上げる。
「おっ、闇祓いの封蝋だ。じゃあこれが採用結果かぁ」
リィフは手紙をためつすがめつ眺めていたが、ふと悪戯っ子のように笑顔を浮かべた。
「開けてあげよっか、秋」
「……頼む」
「えっ!?」
提案した立場だというのに、リィフは素っ頓狂な声を上げた。でも、こればっかりは本当の本心だ。リィフが「闇祓いの封蝋だ」と声を上げた瞬間から、心臓が気持ち悪いくらいにドキドキしているのだ。
緊張しているのか、ひょっとして。
「嫌だよ! どうして人の、それも大事な就職試験の結果なんて開けないといけないの!」
「リィフが提案したんじゃないか!」
「それは君が嫌がる顔が見たかったから!」
「変態か!!」
「言い方ミスっただけだよ!」
リィフが手紙をぼくに押し付けてくる。頭をぶんぶん振ってリィフに押し戻した。
「開けて! どうか頼む、今生のお願い!」
やがて根負けしたリィフが「あー……もう!」と言いながら手紙を受け取った。ピリピリと上部分を破ると、中から羊皮紙を取り出す。その段階でもう直視が出来なくなって、ぼくは勢いよくその場に蹲った。顔を覆い、目を瞑る。
リィフはそんなぼくの様子に、呆れて笑った。
「……ほぉ」
上から降ってきた声に、ビクリと肩を震わせた。
恐る恐る顔を上げると、リィフは満面の笑みを浮かべてぼくを見下ろしている。
「知りたい?」
「……知りたい」
こくりと頷いた。リィフの持っている羊皮紙に手を伸ばす。
「おめでとう、秋」
卒業の帽子を被っていたからか、頭を撫でるように、帽子の上をコンコンと軽く叩かれた。
羊皮紙に、文字が書いてある。しかし脳みそが痺れたように霞みがかっていて、全く動いてくれなくて、アルファベットの羅列にしか見えなかった。
初めてここ、英国に来た十一歳の頃に一瞬で戻った気分だ。
「あーもう、大丈夫?」
肩を揺さぶられ、やっと意識が浮上した。
「……合格したの、ぼく?」
「そう書いてあるじゃん」
リィフが文面を指し示す。
リィフの指に従って目線を動かしたが、それもなんだかぎこちない。錆び付いた引き出しを無理矢理開け閉めしているようだ。
「あー、こりゃダメだ。……おーい、悪戯仕掛人!」
リィフの叫び声に、わらわらと悪戯仕掛人たちが集まってくる。
濃い赤の裏地の集団に、リィフがぼくを引き渡した。
「こいつ、現実を受け入れられないみたい。君らなら無理矢理にでも秋の脳に事実を叩き込めるでしょ」
「僕らを誰だと心得る! 任されよ!」
ジェームズの声。と、ひょいっと手から羊皮紙が抜かれた。顔を上げるとシリウスだった。羊皮紙を読むと、ぼくよりも数倍嬉しそうな顔で、ぼくの肩をばしばしと叩く。痛い。
「まっ、秋を落とすだなんて愚行、犯すはずもないって。あっちもバカじゃないんだし」
「おめでとう、秋!」
視界が赤色に染まった。リリーだった。ぼくの手をぎゅっと握って、満面の笑みを浮かべている。
「あ……」
ぼくは辺りを見渡した。
ジェームズが、シリウスが、リーマスが、ピーターが……そして少し離れたところでリィフが、みんなが、ぼくを祝ってくれている。
「ありが、とう……」
嬉しさが、心の底からこみ上げてきた。
噛みしめるように俯いた瞬間、優しく肩を叩かれる。ジェームズだった。
「こういうときはさ、笑うんだよ、秋」
ふに、とジェームズはぼくのほっぺたを引っ張ると、笑う。
笑顔に包まれて、ぼくも笑った。
幣原秋の周りで盛り上がる赤い裏地の集団の隣を、緑の集団が通り過ぎた。
聞こえた「闇祓い」という言葉に、一人が小さく零す。
「──厄介だな」
半数以上が、先日幣原秋一人の手によって沈められた者たちだった。
そして当然、その集団の中にはセブルス・スネイプの姿もあった。ガウンの下、人目に触れない部分には、未だ包帯が巻かれている。ほんの僅かだが、片足を引きずっていた。無意識に左肘を押さえている。
秋はちらりと目を向けた。同じ瞬間、セブルスもそちらを見遣った。
一刹那、視線が交錯する。
赤い集団から少し離れた場所で、リィフ・フィスナーもまた、険しい表情で緑の集団を見つめていた。
ピーター・ペティグリューは、不安げな眼差しで振り返る。
しかし、他の赤い集団は、緑の集団に目を向けることはない。すれ違ったことにすら、気付いていないだろう。
ーーそういうものなのだ。
そう、なっているのだ。
◇ ◆ ◇
『シリウスが、ヴォルデモートに捕まった』
試験に戻っても、ハリーの言葉が頭の中で何度も何度もリフレインして、集中し切れず諦めて羽根ペンを放り投げた。Oはもらえないかもしれないが、Eは取れるだろう。
残りの試験時間を、巨大な砂時計がさらさらと砂を零す様を見て過ごした。
試験終了のアナウンスに、ぼくは瞬時に椅子を蹴って駆け出した。
まずは、シリウスが本当にグリモールド・プレイスにいないのかどうかを確かめなければいけない。
とりあえず寮に戻って諸々の道具を取りに行かなければ。筆記試験だったから、本当に制服に杖しか携帯していないのだ。シリウスに手紙を書いて送るにも、まずそもそも筆記用具が手元にない。
階段を駆け上がっていた足が、ふと止まった。
待てよ、と、その場に突っ立って思考に頭を浸す。
ダンブルドアはいない。マクゴナガル先生も、昨日『失神呪文』を四本も食らったのだ、起き上がれる状態ではないだろう。
残るは。
『不死鳥の騎士団』として、ホグワーツに残っているのは。
「…………」
考えた。本当にそれでいいのかと。
考えて、一つの結論に達した。
信じるしか、ないのだと。
上に向かっていた足を、下に。階段を駆け下りて、大広間まで戻る。
そして、人の流れと逆の方へ。下へ下へと、下っていく。
石造りの廊下を、走った。足音が反響して、響く。
人気がない魔法薬学教室、そのもう少し先に、部屋。スネイプ教授の、研究室。
ノックすると、くぐもった返事があった。
やがて開けられたドアの先には、ぼくの姿を見て驚いた顔をしたスネイプ教授がいた。
「よか、った……」
ここにいなかったら、どうしようかと思っていた。
喋ろうと思ったが、思った以上に動悸と息切れが激しい。胸を押さえて息をつくぼくに、教授は「……とりあえず、入りたまえ」と入室を促した。
「落ち着け、ひとまず。それから話せ」
教授はソファを勧めると、コトリと紅茶の入ったカップを置いた。
切れ切れにお礼を言い、口をつける。カップの中が空になって、大きく息をついた。
「一体どうした?」
「……ハリーが、シリウスがヴォルデモートに捕まった夢を見た、って」
ぼくの言葉に、教授は表情を僅かに変えた。
「多分、神秘部の奥だと思うんです。……シリウスと連絡を取りたいんです。本当に、シリウスが捕まっているのか。ヴォルデモートの罠なんじゃないのかって」
スネイプ教授は、しばらく黙ってぼくの目を見据えていた。
挑むようなその視線に、ぼくもじっと対峙する。
先に目を逸らしたのは、教授の方だった。
立ち上がると、机の上から二番目の引き出しを開け、何かを取り出す。何の変哲もないそれは、手鏡のようにも思えた。
「『不死鳥の騎士団』の連絡ツールだ。騎士団の者として登録された者が握らない限り、この手鏡はただの手鏡だ」
ほい、と投げ渡され、慌てて受け取った。
「貴様が使えるかは分からんが、あの狸爺は貴様の分も勘定に入れてそうなんでな」
柄の部分を握って、話したい者の名前を告げろ、そう言われ、ぼくは素直に従った。
「シリウス・ブラック」
ぼくの顔を写していた鏡面が、ふと揺らいだ。霞みがかったようにぼんやりと霧がかる。
本当に繋がるのだろうか。心配になるほど待ったところで、再び鏡面はクリアになった。その先には、シリウスの顔が写っていた。
『おいスネイプ、何の用だ手短に五秒で言えその汚い顔を俺に近付けるな──アキ!?』
「よかった、シリウス、無事なんだよね?」
『はぁ? 無事だけど、それが一体どうした?』
はぁあ、と、膝が抜けるくらいに安心した。ソファに座ってなかったら、その場に座り込んでいただろう。それくらいの安堵感が、全身を包み込む。
『おい、一体何があったんだよ?』
「大丈夫。ちゃんとグリモールド・プレイスにいるんだよね?」
『あぁ。ちょっとバックビークが怪我をしてな。ほら、見えるか? 酷いもんだ……』
シリウスが、手鏡をちょいと動かしてバックビークを写した。腕の付け根のあたりが、ザックリと刻まれている。酷いものだ、と思わず眉を寄せた。
『この部屋で、こんな怪我するようなものはそうそうないはずなんだが……まぁともあれ、放っておけなくってな』
「うん、綺麗に治るといいね。ありがとう、よかった」
その時、研究室のドアをノックする音が聞こえた。ぼくと教授はギクリと顔を見合わせる。
奥に行ってろ、とばかりに教授は私室の扉を指差した。入ってもいいのだろうか。しかし迷っている暇はない。
「教授? スネイプ教授、いらっしゃいませんか?」
扉の奥から声が聞こえる。
どこか聞き覚えがある気がするが、誰のものかは思い出せなかった。
『アキ?』
「な、なんでもない……大丈夫」
ドアを開けると、中に滑り込む。音を立てないように締めて、ほぉ、と息をついた。
『しかし、君がスネイプに頼るとは思ってもいなかった』
「……そう、かな。そうかも」
幣原の記憶を思い返しながら、ぼくは呟いた。
「ぼくは……幣原じゃないから。だから教授も、まともに話してくれるんだと思う」
『ふぅん? 俺にはよく分からない感覚だがな。そもそも、君らの友情は、側から見ていてもよく分からないものだったよ……っと、ごめんな。そんな顔をさせるつもりじゃなかったんだ』
シリウスは気遣うように笑ってみせた。
いいや、とぼくは小さく首を振る。
「……ぼくにもよく分からないんだ。幣原は、多分、こうしてぼくが教授を頼ることに、いい顔はしないと思うんだけど」
今度は、シリウスが黙る番だった。
『……そう、だな。君は、幣原秋じゃあない、んだよな』
「……そうだよ。ぼくは、幣原秋じゃ、ないんだよ」
思わず、声が震えそうになった。
そうだよ、シリウス。
ぼくは、幣原秋じゃ、ないんだよ。
間違えないで。ちゃんと、ぼくを見て。
『君は、アキ、なんだよな』
「……っ、そう、だよ……」
認められたことが、物凄く、嬉しかった。
ぼくは、ぼくでいていいのだと。
誰かに、ずっと肯定されたかった。
時計塔のてっぺんから、空を見上げた、あの時から。
『間違えてばっかで、ごめんな。君を幣原秋だと、いつもそのように扱って、君は、それに応え続けていてくれたんだな。俺のために』
「……気付くのが遅いんだよ。こんな子供に気を遣わせて、それが大人のやる仕事?」
『はは……済まない。頭では分かってたはずなんだけどな、どうもその顔を見ると、あいつだと思ってしまうんだよな……アキ』
頑張ったんだな。
とても、優しい声だった。
『まだ十五なのにな。あいつのせいで、わっけわかんない使命背負わされて。『ハリーを守ってくれ』なんて……十五の少年に、掛ける言葉じゃないだろうに』
「……そう、だよ……」
涙が出そうになって、慌てて目元を拭った。
強がって、言ってみせる。
「まぁもっとも、ぼくの方が強いことは明白だけどね。ハリーくらい簡単に守ってみせるよ、だって大切な……大切な」
言葉を切った。
震える声で、吐き出す。
「……お兄ちゃん、なんだから」
たとえ血が繋がっていなくても。
たとえ、幣原の都合でこの立ち位置が決められたのだとしても。
それでも、ハリーはぼくの、お兄ちゃんなんだ。
『……そうだよな。君は、弟、なんだもんな』
少し懐かしそうな表情で、シリウスはぼくを見た。ぼくはふふっと笑う。
「もしかして、レギュラスのこと思い返してる?」
『なっ……そんなわけあるかよ、あんなバカ』
「そんなこと言わないでよ、『お兄ちゃん』」
ぐぅ、とシリウスの顔が悔しげに歪んだ。ぼくは笑い声をあげる。
その時、私室に繋がるドアがガチャリと開かれた。
ぼくは慌てて立ち上がる。
「ごめん、もう切るね。それじゃあ、話せてよかった」
「その必要はない。アキ・ポッター、そいつを貸せ」
スネイプ教授は眉を寄せ、右手を差し出した。
少し躊躇い、手鏡を渡す。
『なんだ、スネイプ? 君の声はあまり聞きたくないのでね、手短に頼むよ』
「あぁ、私も貴様と長々と口を利いていたくはないのでね。……不死鳥の騎士団本部から、全体命令を出してくれ」
スネイプ教授は、一呼吸置いて言った。
「ポッターとその仲間たちが魔法省に向かったと思われる。ポッターの見た夢といい、罠が仕掛けられている可能性が非常に高い。今手が開いている者は、至急魔法省の神秘部に集まれ」
何を言っているのか、脳みそが理解するまでに少しの時間が掛かった。
『どういうことだ!? スニベルス、説明しろ!』
シリウスの怒鳴り声に、我に返る。
「今言った通りだ。ポッターとその仲間たちが魔法省におびき寄せられた。恐らくは、あの──」
そこでスネイプ教授は僅かに眉を寄せた。
「──予言を手にいれるためだろう。言っておくが、貴様は動くなよ。ダンブルドアもそう言って──」
『動くな!? 動くなと、本気でそう言っているのか!? ハリーが危険な目にあっているというのに、お前それでも人間か!!』
「生憎だが、れっきとした血の通った人間だ。……ダンブルドアに伝えた。もうじき本部に現れるだろう。そのためにも誰かがそこに残ってもらう必要がある」
『そんな雑務で俺を、この俺を縛れると思っているのか!? 俺はお前のような臆病者じゃない、杖を取り立ち向かうべき時はわきまえている!』
もしこれが電話だったなら、ガシャンと勢いよくシリウスは受話器を置いたに違いない。
教授は少し途方に暮れたような、普段よりずっと無防備な目でぼくを見たが、すぐさま我に返ったのか、そんな光はあっという間に消え失せてしまった。
「……それで。貴様はどうする?」
「決まってる。魔法省へ」
教授は大きくため息をついた。
「アンブリッジの部屋が、今ならば空いているはずだ。どうやらポッターとグレンジャーが、あやつを森に連れていったらしくな。しばらくは帰ってこられまい、ということだ」
それならば、あそこの暖炉が使える。唯一見張られていない煙突飛行ネットワークが。
「ありがとう、ございます……!」
駆け出そうとしたが、手を掴まれた。
振り返ると、教授もどうしてぼくを引き止めたのか、よく分からないように慌てて手を離した。
「……大丈夫、皆、守ってみせるから」
にっこりと微笑むと、踵を返した。
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