もしも、全てが夢だったら。
そう考えて、静かに目を閉じた。
両親は日本にいて、長期休暇のたびに帰ってくるぼくを、暖かく迎えてくれるんだ。
そこには、ぼくと父さんと母さんの三人だけで、他の登場人物は誰一人として必要ない。ぼくら家族だけで完結している世界が、広がっているんだ。
リリーとセブルスは、仲違いすることなく、ずっとずっと友達の、親友のまま。
ぼくら三人は、寮が違っても、卒業しても変わらず仲良し三人組のまま、就職したりなんだりで、学生時代よりも会う頻度は少なくなってしまったけれど、時折誰かの家に集まって、美味しい紅茶とケーキを片手に歓談するんだ。
ぼくら三人の会合は、たびたび悪戯仕掛人たちに妨害される。様々な手段で乱入する彼らに、リリーは怒るけれども、でも最後は皆で一つのテーブルを囲んで笑っているのだろう。
楽しい時間があっという間に過ぎて、いつの間にか深夜になっていて、騒ぎ疲れてジェームズやシリウスはきっと、ソファで寝ちゃうことだろう。
そんな折、兄を探してレギュラスが訪れるのだ。「兄がご厄介になっていませんか」なんて言いながら。
寝こけるシリウスに眉を顰めるレギュラスの腕を、リリーが「レギュラスも少しお話していきましょう!」と引っ張るんだ。
レギュラスは少し驚いたように目を見開いて、少しだけ微笑んで「……兄が起きるまでなら」なんて、そんな言い訳めいたことを口にしつつ、なんだかんだで一緒にいてくれるんだろう。
どうしようもない妄想を。
そんな、どうしようもない空想を。
あったかもしれない未来を、一体何度、思い描いただろう。
何度思い描けば、気が済むのだろう。
◇ ◆ ◇
もしも、全てが夢だったら。
ぼくの存在自体が、ただの空想で、構想でしかないのなら。
幣原秋が、家族や友人に囲まれて、笑っていられるのなら。
彼が、悪夢に苦しまずに済むのなら。
幣原秋が幸せであるのなら。
アキ・ポッターは必要ない。
それは、自明だ。
英国首相は、自分の腰掛ける高価な肘掛け椅子の肘置きを、再びぎゅっと握り締めた。
暖炉から人が、一人、二人、気付けば三人。そういう超常現象はあまりお目に掛かりたくないのだ。
まだ見知っていたファッジならばともかく、新しい魔法大臣だと名乗ったルーファス・スクリムジョール、そして彼の付き人だと名乗るリィフ・フィスナー。ファッジが以前ここを訪れたときも、行動を共にしていた。
年若い彼が魔法大臣の付き人とは、さぞや優秀なのだろう、そう以前嫌味も混ぜて口にすると「家柄のせいですよ」とサラリと返された。さぞやいい坊ちゃんなのだろうと腹立たしくもなったが、瞬間温和そうな彼の瞳に激しい炎が閃いたような気がして、首相は口を噤んだのだった。
魔法使いを怒らせて、何か妙なことがあってはたまらない。
しかし、決して広いとは言えないこの部屋に三人も魔法使いがいたんじゃ、落ち着くものも落ち着かない。
だが、そう思っているのは首相一人だけのようだった。
「フィスナー」
話は終わりだと、切り上げる声音で、ルーファス・スクリムジョールはリィフ・フィスナーの名を呼んだ。
首相の前に進み寄った彼は、懐から棒きれを取り出した。それが杖だと、首相は知っていた。
「怯えないで。危害を加えるつもりはありません」
そう言われても、身体が強張るのはどうしようもない。
リィフ・フィスナーは僅かに苦笑したようだった。
「私の妻はあなた方と同じ、魔法使いじゃない、普通の人間でした。私たちはきっと、分かり合えるはずです」
思わず目を瞠った。そんなプライベートを口にするとは。
と同時に、そうか、目の前の彼にも自分と同じく家庭がある、妻がいて、恐らく子供もいるのだろう、ということに気がついた。
今まではそんなこと、考えもしなかった。
微笑んだまま、彼は杖を振った。
「『中立不可侵』フィスナーの名に掛けて」
さらさらと、薄絹のようなものが上から降ってくる。重みはなく、感触もない。
キラキラと光に煌めくそれは、しかし何故だろう、首相を安心させた。『魔法』を、こんなに心穏やかに受け止めたのは、生涯で初めてだった。
「あなたの安全は、私の名に掛けて保証しましょう」
一回りも二回りも年齢が違う彼の言葉に、首相は頷いた。
「終わったか」
「えぇ」
フィスナーはスクリムジョールに受け答えするため、首相に背を向けた。
その後ろ姿に、言葉を掛けた。
「君の奥方は、ならば私が守るべき人だ。我が政府の威信に掛けて、安全を保証しよう」
フィスナーはゆっくりと振り返った。口元には笑みが浮かんでいた。
「──あいつも、きっと喜ぶことでしょう」
多くは語らずに、彼らは暖炉の炎に消えた。
暖炉を見つめ、ふと思う。
もしも娘が、彼のような魔法使いの男を旦那にしたいと連れてきていたなら、自分は一体どういう反応をしただろうか。その結婚を、果たして自分は認めただろうか。
次に彼らが訪れたときは、もう少し暖かな歓迎をしてやろう。
そう、思った。
静かな病室で、リーマス・ルーピンは椅子に腰掛け、両手を組み合わせて項垂れていた。
部屋の中は、全くの無音だった。病室の外を、時折看護師がパタパタと歩く音が響くくらい。
控えめなノックの音に、リーマスはピクリと肩を動かした。
僅かに顔を上げ、ドアを伺う。
「……やっほー、リーマス」
「……トンクス」
右手をひらひらとさせ、気遣うように笑みを浮かべたのは、ニンファドーラ・トンクスだった。ショッキングピンクの短い髪に、手には花束が握られている。
トンクスは、リーマスに何と声を掛ければ良いのか躊躇ったようだ。
視線を彷徨わせ、間を持たせるように窓枠に歩み寄り、花瓶を手に取った。生けてある花を入れ替える。
作業の途中、トンクスはリーマスをちらりと振り返ったが、リーマスはトンクスが現れる前と同様に顔を伏せていたため、トンクスのそんな動きには一切気が付かなかった。
「……仕事は終わったの?」
リーマスから声を掛けられ、トンクスは軽く飛び上がった。
誤魔化すように、軽く笑みを浮かべてみせる。
「う、うん。今日は遅番だったからさ」
「……こんなとこに寄ってないで、早く家に帰って寝ればいいのに」
「あ、はは……なんだか、目が冴えちゃっててさ。折角時間が出来たんだし、それに……」
意を決して、ごくごく普通のトーンで、何の気無しに見えるよう、呟いた。
「リーマスに、会えるかもって思ってさ」
リーマスはその言葉に、何の反応も返さなかった。
トンクスは安心しつつ、心の何処かで僅かに落胆する。
リーマスと、シリウスの眠るベッドを挟んで反対側に、トンクスは椅子を出した。腰掛ける。
「リーマス、その……あ、あんまり根を詰めすぎちゃ、身体にも悪いよ! パァッと気晴らし、というかさ……そうだ、遊びに行こうよ!」
「……このご時世、そんな余裕はないよ。トンクス、君だって忙しい、私以上に……私なんかに、君の貴重な時間を浪費させるのは、良くない」
「『私なんか』って……」
トンクスは拳を握り締め、少し勢い込んだが、それもすぐに萎んでしまった。
「……闇祓いは、身体が資本なんだから、あまり無茶をしちゃいけないよ」
「……そんな無茶、しないよ」
「そう? ……そうか。でもね、心配なんだ」
リーマスは細く、長く息を吐いた。
「あいつみたいに……秋のように、君がなってしまわないかって……思うと、それだけで、怖くなる……」
頭を起こしたリーマスは、仄暗い眼差しで、どこか遠くを見据えていた。
「……秋」
焦がれる口ぶりだった。執着を垣間見せる、声だった。
その視線の先に、一体何があるのか。
一体誰を、視ているというのか。
──引き戻さないと。
此方に。現世に。現実に。
トンクスは焦る思考の中、そう思った。
それ故、悪手を打ってしまった。
彼女はうっかり者ではあるが、本来は思慮深く頭も回る。そうでないと、闇祓いになんてなり得ない。
魔法力と頭脳、共に最優秀だと認められた者しか、闇祓いになることは出来ない。
ただ、彼女は。
彼を笑顔にさせたい、彼の願いを叶えてあげたい、ただ、それだけだったのに。
椅子を蹴って、トンクスは立ち上がった。
大きな音に、緩慢にリーマスは顔を向ける。
トンクスはにっこりと微笑んだ。
「あの人に会いたい? ──見た目だけで、いいのなら」
生まれ持った、その能力。『七変化』の能力。
幣原秋の──アキ・ポッターの姿形は、覚えている。
長く艶やかな黒髪に、白い肌。少女のように大きな黒い瞳、目立たないけれども丁寧に整った顔立ち。
目を閉じて、しっかりと彼の容姿を頭に思い浮かべ──
「やめろ!!」
大声に、息を呑んだ。
「やめてくれ……その姿で、あいつじゃないのに、あいつじゃないのにその姿をしないでくれ!」
真っ青な顔で、リーマスはトンクスを見ていた。立ち上がると、トンクスによろよろと歩み寄り、ふらついて床に膝をつく。
トンクスは『七変化』を解くと、慌てて歩み寄った。落ちた肩に手を伸ばした瞬間、触れるよりも早くに手を払われる。じんわりと痛む右手を、反射的に胸に抱えた。
リーマスはそれに我に返ったようだ。愕然とした眼差しでトンクスを見つめた。
「……ごめんなさい」
トンクスの謝罪に、むしろリーマスは顔を歪めた。
トンクスは、頑張って微笑んだ。
「ごめん……あたし、帰るね」
トンクスは酷く後悔していた。
幣原秋の話は、リーマスにとっては地雷だと、理解していたはずだったのに。
彼の弱いところを、無意識に思いっきり踏みにじってしまった。
呆然とリーマスは、トンクスが消えた先を見つめていたが、やがてがっくりと項垂れた。
痛みに耐えるように、身体を折り曲げる。
「最低だ……私は」
込み上げるものを飲み込んだ。
ゾクリと身震いしながら、吐息と共に言葉を漏らす。
「……秋……っ」
その声は、誰にも届かず、空に消えた。
「……どうしたんだ」
アリス・フィスナーは、紅茶のポットを片手に持ったまま、自宅の暖炉前の絨毯に転がっている銀髪の姉弟を見下ろした。
もつれ合うように倒れている二人は、ほとんど同時に起き上がると、アリスを見て声を上げる。
「アリス!」
「フィスナー!」
「そうとも俺がアリス・フィスナーですけれど……はぁ、まさか休みに入って初日から駆け込まれるたぁ、思ってもなかった……」
空いている方の手で、髪をぐしゃぐしゃと掻く。
ひとまず座れ、とソファを顎でしゃくり、紅茶を淹れ直そうと台所へ向かった。あともう二人分、用意しないといけなくなったからだ。
「で? どうしたよ」
紅茶を差し出すと、二人はそれぞれ感謝の言葉を述べてから口を付けた。ついでに茶請けとしてクッキーを広げてやると、こちらにも歓声が上がる。
何があったのかは、話をすることが苦手な姉に代わり、よく口が回る弟が説明をした。
アリスは時折眉を顰めながらも耳を傾けていたが、全てを聞き終わると大きく息を吐いた。
「……なるほどな」
左耳のピアスに触れながら、アリスは少し考え込む風だったが、やがて顔を上げると、銀髪の姉弟を見た。
「とりあえずお前ら、荷物まとめてうちに来い。ここは『中立不可侵』の本拠地だ、魔法契約も新しいし、そうそう滅多なことは起こらない」
「……ありがとう、フィスナー」
「気にすんな、幼馴染のよしみってもんだ。……ちゃんとアキに手紙送っとけよ、あいつにゴチャゴチャ言われたくねぇしな」
二人を再び暖炉の炎に送り返した後、アリスはしばらく面を伏せていた。
「……よし」
碧の瞳に真摯な光を宿し、アリスは顔を上げると、踵を返した。
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