「ヴォルデモートだった。僕とフェンウィックは戦ったけど、フェンウィックはあいつに殺された──木っ端微塵だった」
「──あぁ、欠片しか見つからなかったと、聞いている」
「そうか──そうだろう」
秋、と、ハシバミ色の瞳が言った。暖炉の明かりに照らされた瞳は、光の加減か、いつもよりも鋭かった。
「あいつは僕に尋ねた。──『幣原秋は、いないのか』と」
ギリ、と奥歯を噛み締めた。
「『いない』と言った瞬間、ヴォルデモートは去っていった。用はない、と言いたげに。──誰かが、不死鳥の騎士団の誰かが、あちらに情報を漏らしているんだ。この任務に君がついていると、リークしたんだ。そうじゃないと、あんな行動はしない──僕がヴォルデモートなら」
「…………」
ピーターの言葉を思い返していた。
『……ねぇ、疑問には思わないの? ……相手の情報をこうして僕らが得ているように──相手側に、こちらのスパイがいるように──こちら側にも、あっちのスパイが紛れているかもって』
ゾクリ、と身震いをする。
暖炉のすぐ近くにいるというのに、何故だか、とっても寒かった。
闇祓い訓練生の指導教官は、一年ごとに代わる。現教官であるアメリア・スミスは、仕事の引き継ぎのため大量の書類をまとめていたが、声を掛けられ顔を上げた。
「っ、クラウチさん!」
自分に声を掛けてきた者が、魔法省魔法法執行部部長、バーティミウス・クラウチだということに気付き、スミスは慌てて立ち上がった。
「そう畏まらなくていい、スミス」
クラウチはそう言うが、平坦な口調のため親しみは一切感じられない。
「何の……御用でしょうか」
スミスの言葉に答えず、クラウチはスミスのデスクに積み上がった書類を手に取った。それが今年の訓練生のプロフィールと成績が書かれたものであることに気付き、思わず声を上げる。
「それは極秘資料です! いくら貴方と言えど、目を通すためには所定の手続きを踏んでくださらないと……」
「スミス、私が、この私が、手続きを踏んでいないとでも?」
低い声でそう言われ、スミスは思わず身震いをした。思わない、この几帳面が過ぎるほどに几帳面な目の前の上司は、恐らく本当に、全ての必要な手続きを踏んでいる。それだとしたら、スミスは何も言うことが出来ない。
「──こいつだけでいい」
そう言うと、手に取った書類から一束だけを抜き出し、残りは乱暴にスミスのデスクに放った。スミスは慌てて、放られた書類を確かめる。スミスの手元にあるのはパトリック・リオンと、マーク・ヴィッガーの資料のみ。となると、現在クラウチの手元にあるものは──。
「……幣原に、何の御用でしょう」
今度こそスミスは、口調に警戒心を滲ませた。スミスの質問に直接は答えず、クラウチは資料に記された文言を読み上げる。
「『魔法攻撃力、魔法防御力に著しく高い特性を発揮。対人戦闘、対物戦闘共に高い戦績を収める。膨大な魔法力を有し、どれだけ魔力を消費してもへばることはない』──」
「その分体力はあまりありませんし、シビアに徹しきれない一面もあります。確かに、魔法力は目を瞠るものがありますが、魔法薬学は不得手です」
早口でスミスは言った。無意識に手を握り締める。クラウチが何を意図しているのか、今から何をしたいのか、感覚が分かっていた。
「幣原はまだ未熟です。訓練期間である規定の三年を終えてないのですから、当然です。あと二年で彼の才能を引き出せるだけ引き出して──」
「余計な言葉は必要ない。私が何の根拠もなしにこの言葉を発していると思うかね?」
「…………っ」
時折、訓練生三人から「視線を感じる気がする」と、愚痴のような言葉が漏れ聞こえていた。
もしかして、もしかして──
「スミス。君も分かっているはずだ」
クラウチは手に持っている資料を放った。バサリ、軽い音を立てて、資料はデスクの上に落ちる。
「彼の才能を極限まで引き出せるのは、戦場でしかあり得まい。無限にも近いあの魔法力が、一体どれほどの戦力になるか、考えたことがないわけではないだろう?」
鋭い瞳が、スミスを射抜いた。
「幣原秋を、実践に投入しろ」
「──は、え?」
スミス女史の言葉に、ぼくはポカンと口を開けた。
「ちょっ──えぇ? なんで? ぼくまだ、訓練期間一年も──」
「上司命令です、幣原」
ピシャリと、口答えを許さない厳しい声がスミス女史の口から零れた。
「人手不足と戦力増加のためです。覚悟は、その制服を纏い懐中時計を持った瞬間から、出来ていた筈でしょう」
「…………」
「リオンとヴィッガーには私から説明をします。あなたは明日から、地下二階の闇祓い本部に行きなさい」
有無を言わさぬ口調だった。教官として、少し砕けた口調で接してくれていたのに、硬い口調に戻ってしまったことが、とっても勝手だけどなんだか悲しかった。
「……はい」
目を伏せて一礼する。スミス女史の靴音が遠ざかり──と思ったら、再び近付いてきた。ぼくは思わず顔を上げかけ──
「上官が立ち去るまでは頭を上げない!」
「はい!」
鋭い声に、慌てて頭を下げ直した。
ぽふ、と頭に暖かい感触。ゆるゆると髪を撫でられる。
「……精進するのですよ、幣原」
「……ぅ、は、はい」
どうか、無事に生き延びなさい。
囁かれた声を、ぼくはきっと忘れないだろう。
◇ ◆ ◇
長い廊下を、桜さんに従って歩く。
空気が、なんというか、日本だ。日本の夏の空気。遠くでセミの鳴き声がしている。もう日は沈んでしまい、西の地平付近が僅かに明るいのみとなった。
板張りの廊下を、じっと歩く。広い屋敷なのに、人の気配は感じない。セミの鳴き声と、風が木々の葉っぱを揺らす音、それにぼくらの足音以外は、完全に無音だった。
……ところで、どういう足運びをすれば桜さんのように静かに歩けるのだろう……謎だ。足袋に秘密があるのだろうか。……いや、そういう訳ではないだろう。
板張りの廊下の突き当たり……離れ、とでも言うのだろうか。そこに通されたぼくらが見たものは、年老いた老人が布団に横たわっている姿だった。僅かな面影から、彼が幣原梓、幣原秋の叔父であることを認識する。
「やあ、こんにちは。こんな姿で済まないね、幣原秋くん」
「いえ、ぼくは……」
言いかけた言葉が、止まる。その僅かな間を、梓さんは笑った。
「元来正直者なんだね、君は。久しぶりだ、秋くん」
その口調も、何もかも、あの時と変わらない。恐ろしいくらい、変わっていない。
「……お変わりない、ようで」
迷った挙句に、そんな言葉を発した。一体どうしてぼくが幣原秋であることを看過されたのかは分からないが、今更取り繕うのも遅いだろう。先ほどの逡巡は、取り返しの付かない間となってしまった。
「変わりない? 僕にしてみれば、秋くんの方が何も変わっていないように見えるけれどね。……まぁいいや。もう少し早く来てくれるかと思っていたけれど、僕には直兄と違って未来は視えない。僕が生きているうちに来てくれたことこそを、僥倖だと喜ぶべきなのだろうね」
「……ぼくがあなたに会いに来ることを、最初から予測していたんですか? ……あの時から?」
「当たり前だろう」
『秋クン、君ハ本当ニ、莫迦ダネェ』
そう言って、梓さんは嗤った。底冷えのするような、狂った嗤い声だった。
呑まれないように、大きく深呼吸をする。
この人に呑まれてはいけない。
「父の本を、返してください」
腹に力を込め、梓さんに向かい合う。梓さんはしばらく愉快そうにケタケタと嗤っていたが、正気な瞳でぼくを見た。
「いいよ。僕には、あの本は使えない」
「……使えない?」
どうも、変な表現だ。
「直兄の、幣原直という一人の天才が書き記した書物は、僕のような凡人の手には余るということさ。君も解読してみれば分かるだろう。桜、本を秋くんに渡してやってくれないか?」
桜さんが音もなく梓さんの枕元に跪き、枕の下から一冊の本を取り出した。
和綴じの本だった。表紙には黒いシミが残っている。それが血の痕だということを考えないようにしつつ、ぼくはその本を受け取った。軽くパラパラと捲ってみる。
確かに、ぼくの父、幣原直の文字だった。ダンブルドアが言う通り、多くの言語で書かれている。日本語、英語のみならず、フランス語、ドイツ語、スラブ系言語もあれば、いきなり漢字が出てきたり。殴り書きのような文字まで見受けられる。また、魔法陣だのといった図形も時折あった。これは解読に手間取りそうだ。
そもそも、どうしてダンブルドアは、こんな本を欲したのだろう?
「あ……ありがとうございます」
あまりにも呆気なく目的の物が手に入ったため、拍子抜けしてしまった。ぼくの知る梓さんなら、もっと渋るかとも思っていたのだけれど。肩透かしを食らった気分だ。
「この本は、何が書いてあるんですか?」
梓さんは、この本を解読したのだろう。だからこそ、この本に対して妙な表現をしていたのだ。そう思って尋ねると、梓さんの笑みが深くなった。
「ねぇ、秋くん。君の国のテロリストで、日本魔法界を無茶苦茶にしたあの彼、ヴォルデモートは、どうして直兄に執着しているのか、聞いてもいい?」
「……ぼくも、よくは知らないですけど。昔は友人だったと聞いていますよ」
「友人? ……へぇ、友人、ね。じゃあ、そのかつての友人であったその人が、君のご両親を殺したんだ」
何が言いたい。思わず眉を寄せた。
「殺した時には、友人だとも思っていなかったんじゃないですか? 友達ならば普通、殺さない」
「それはどうかな。友達だとしても、殺そうと思えば人は死ぬよ」
「……それは、そうですけど」
……でも、リドルは。
ちらりと右手の小指に目を遣った。そこには、リドルとの魔法契約の証である、赤いリングが嵌っている。
──リドルは、父のことを、どう思っていたのかな。
両親が死ぬことになったのは、ぼくのせいだ──ぼくがいなければ、両親は死ぬことはなかった。
リドルは、ぼくの両親を殺したことを、後悔していたりとかするのかな。
──初めて考えることだった。頭の中で言語化したその考えに、思わずぎくりとした。
後悔しているから、何だと言うのだ。
殺した事実は、一切合切覆らない。
死者が生き返ることは、決してない。
「ねぇ、秋くん。君にその本を託すのはね、君ならば、叶えられるからだよ。その本はね、悪魔の書物だよ。今までの努力や苦労、慟哭、後悔、成功も失敗も、全てを呑み込んでしまう悪魔の所業だ。全てをなかったことにしてしまう、全てを水泡と帰してしまう。だから、直兄はそれをしなかったんだ」
『それ』とは、どれのことだろう。
分からない。
「どうして家の物が、全て粉々になっていたか分かるかい? どうしてそんなことを、と、考えたことはある? その理由を教えてあげよう。その本が、ヴォルデモートの手に渡りそうになったからだ。絶対に見つからないと思っていたこの本の存在に気付かれ、暴かれそうになったからだ。──木を隠すには、森の中。本を隠すには、大量の本の中。魔力を隠すには──より強い魔力の中。全てを粉々にして、魔法使いの魔力が篭った血を振り掛けたら、さすがにヴォルデモートでも見つけられなかったようだ」
──それは。
ぼくの両親は、意図してあの惨状を──あの家の地下に広がる、あの惨状を──作り出したと、そういうことなのか?
「最後に、一つだけ聞いてもいいですか?」
ぼくの言葉に、梓さんは目を向けた。
「どうして……そんなに詳しく、両親の死の状況を知っているんです」
まるで、その場にいたかのように。
梓さんは答えた。
「君には言っていなかったねぇ。直兄が未来を視られたように、僕はね、ものの過去が見えるんだよ。……覚えておくといい。幣原家は、時を司る家系だということを」
彼の唇が、吊り上がって弧を描く。
「直兄が守った本を、僕が守れた。直兄の子供に僕が手渡すことが出来た。直兄の思いを、託すことが出来た。……もう幣原家は終わりだ。日本の魔法界も、もうこの襲撃で途絶えるだろう。直兄が憎んだ幣原家は、ここで終わるんだ。その終焉を、この目で見ることが出来た」
目を細め、恍惚の表情で虚空を見上げ、梓さんは呟いた。
「──もう、悔いはないよ」
済みませんでした、と、桜さんはぼくらに頭を下げた。
「父が不敬を致しました」
「いえっ、全然、そんなこと……」
語尾が萎む。桜さんはしばらく頭を上げなかったが、やがて姿勢を正すとぼくを見下ろした。
「……貴方が、幣原秋なのですか? 私の、従兄弟の」
「……嘘ついて、ごめんなさい。ま、その……本当は、幣原秋じゃなくって、あいつはぼくの別人格というか、なんというか……」
これ、見ず知らずの人に説明するのは滅茶苦茶難しくないか。拙いながらも言葉を並べ立てると、なんとなくは伝わったようだ。
「……では、幣原秋は生きているということなんですか」
「ええっと、一応は。ここに……ですけど」
自分の頭を差し示す。
しばらく桜さんは目を瞬かせていたが、やがて、ふと無表情を崩し、微笑んだ。
「彼に、お伝えください──」
その唇が、言葉を紡ぐ。
「貴方と、もっとちゃんとしたところで会いたかった」
改めて、ぼくは桜さんを見た。
「……てっきり、恨み言を言われるかと」
「恨み言……そりゃ、積もる話をすればいくらでもありますが」
やっぱりあるんだ……そりゃそうだよなぁ。幣原秋の父、幣原直は、かなり幣原家に影響を及ぼした人だし、幣原秋にも言いたいことはたくさんあるだろう。
「父は、日本魔法界と幣原はこれで終わりだと言いましたが、私はそうは思いません」
そう言って、桜さんは目を細め、背後の屋敷を振り返った。
「日本魔法学校『魔法処』校長、幣原桜の名にかけて、必ず復興してみせます。子供たちから未来は、奪わせません、何者にも」
ぼくは目を瞠った後、深々と頭を下げた。
日本魔法界から抜け出た時は、もう世界は夜闇に沈んでいた。それでも日本の夏は、夜になっても暑さは収まらない。生温い風に眉を顰めながら、ぼくらは歩いていた。
目的地は、幣原家の墓。
「あの、この本……」
梓さんから受け取った本をダンブルドアに渡そうとしたが、しかし「それは君が持っておくべきものじゃ」と断られた。なんだ、と思ったが、言い返す気力もない。小さく息を吐いた。
梓さんと会話すると、大体気力が根こそぎ持っていかれる。精神が酷く疲れるのだ。
「……彼も、可哀想な被害者の一人なのかもしれんの」
ダンブルドアの言葉に、目を瞬かせた。
「才能に、人は狂うのじゃ。幣原秋しかり、幣原直しかり、ヴォルデモートしかり──わしもじゃ。彼もまた、才能という名の大きな力に狂わされた一人なのかもしれんの」
「あなたも? ダンブルドア先生も、なのですか?」
ハリーが尋ねる。
ダンブルドアは多くは語らず、ただ静かに微笑んだ。
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