前日にアイロンを掛けておいたワイシャツを羽織る。一番上までボタンを留めると、ループタイを通し、長さを調節した。その上から黒のカーディガンを着ると、闇祓いの制服、インバネスコートに袖を通す。巻き込んだ髪を両手で出し、纏めて一つに括った。結い紐は、昔リリーに貰った黒の髪紐。
鏡を見て、妙なところがないかを確認すると、膝丈の黒いブーツを手に取った。編み上げの紐を一つずつ確認しながら、ブーツを履く。黒の光沢があるブーツは、それなりに値が張ったが、おかげでいいものを選べたと思う。
そもそも、休みが殆どといっていい程ないため、給料は貯まる一方なのだ。しかも命を張る仕事だからか、受け取る額は他の仕事と比べ物にならない。
命の値段。ぼくの命は、一体いくらだろう。
ベッドサイドの懐中時計を手に取った。金色に鈍く輝く懐中時計は、気分の問題か見た目よりずっしりと重たい。鎖を指に絡ませ纏めると、ケープの内側に仕舞い込んだ。襟元と袖口についていた今までの紋章を外し、真新しいものに付け替える。
訓練生から、一兵卒になった証。ここ、闇祓いでは、軍隊のような階級制度が存在する。他の部署からはあまり好ましく思われていないようだが、ぼくはこの制度が嫌いではなかった。
自分が立っているのは戦場だと、思い知らせてくれるから。
「……よし」
黒革の手袋をしっかりと嵌めると、鏡の中の自分に、意気込んだ。
今日から本格的に、闇祓いとして働くのだ。
地下二階の闇祓い局に足を踏み入れたのは、実のところ初めてだった。今までは、訓練生は訓練室にほぼ直行だったから。
「し、失礼します……」
『闇祓い本部』と表札の付いた扉を押し開けると、一気に注目が集まった。視線に身を竦ませながらも「今日付けで配属になりました、幣原秋と申します」と名乗る。
「幣原か」
声に目を遣ると、アラスター・ムーディ先生の姿が。顔には一部の隙もないほど傷だらけで、一見すると凄く恐ろしい人ではあるけれども、今のぼくは顔見知りがいた、という安堵に胸を撫で下ろした。
ちょいちょい、と手招きされ、狭い通路をすり抜けながらもムーディ先生の元へと駆け寄った。
「お前はこれから第一班の班員だ。第一線で働いてもらう。覚悟するんだな」
黒い瞳に射竦められた。ギクリと身を強張らせるものの「……はい」と頷く。ムーディ先生はしばらくぼくをじっと見ていたが、やがて「レインウォーター!」と叫んだ。
少し離れたところに座って書類を見ていたエリス先輩が、弾かれたように立ち上がる。
「はい!」
「お前の後輩だ、お前がサポートしろ!」
「はい!」
エリス先輩は殊勝な顔をしていたが、椅子に腰掛ける瞬間ぼくに向かって片目を瞑ってみせた。思わずぼくも頬が緩みかけ、慌てて引き締める。
「全部頭に叩き込め。全てを今日中に。複写も持ち出しも厳禁だ。『記憶力には自信があるんです』──言った言葉は違えるな。お前のデスクはレインウォーターの隣。いいな」
ムーディ先生がぼくの腕に書類を渡す。厚さはざっと三センチはあるだろうか。細かな文字でビッシリと書かれている。これを今日中に。だが、出来ないなんて言える訳がなかった。
「はい」
「いい返事だ」
ぐしゃり、乱暴に髪を掻き混ぜられた。うっ、と思わず顔を歪めるも、その時はもうムーディ先生はぼくに背を向けている。
書類を抱えたまま、妙に立った髪の毛を抑えてデスクに向かうと、エリス先輩はニヤリと笑ってぼくを迎えてくれた。
「ひっどい髪」
「だって……」
唇を尖らせながら、髪紐を解くと再び結び直した。ついでに頭を一振りし、気合を込めると改めて書類を手に取る。
「……………………」
首筋に熱いものを押し付けられて、我に返った。飛び退いて顔を向けると、そこには笑顔のエリス先輩が、マグカップ片手に立っていた。
「随分と没頭していたね」
「え、あ……」
慌てて時間を確認すると、もう夕方を指していた。午前中からずっと書類を見続け、もうそんなに時間が経っていたのか。何人かは帰り支度をしている。
「凄い集中力だ。昼にプルウェットが誘ったんだけど、覚えてる? 君はこちらも見ずに生返事をしていたけど」
「う、すいません……プルウェット先輩にも謝っておきます」
「気にすることはないよ。その集中力はきっと、君の武器なんだから。卑下することは何もない」
コトリ、ぼくのデスクの上にマグカップが置かれた。中にたゆたう液体は、真っ黒な色合いをしていた。あまりコーヒーは嗜まないが、疲れた頭を抱えた今は、紅茶よりもコーヒーの方が身体が欲しがった。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
熱いコーヒーは、紅茶とはまた違った充足感をもたらしてくれる。自然と、息を吐いていた。
「幣原、これから時間あるかい?」
言われて、予定を脳裏に思い描いた。今日はもう何もなかったはずだ。そう言うと、エリス先輩はぼくの肩に手を置いた。
「夕食でも食べに行こう。君、昼も食べてないだろ? 昇進祝いに奢ってあげるよ」
丁度いいタイミングで、お腹が鳴った。思わず顔を赤らめるぼくに、エリス先輩はクスクスと笑う。
「喜んで」
少しつっけんどんに言いながら、ぼくはマグカップの中のコーヒーを飲み干した。
◇ ◆ ◇
『隱れ穴』に辿り着いた頃は、もう夜更けと言って差し支えない時間だった。それにも関わらず、モリーおばさんはいつもと変わらない暖かい歓迎をしてくれた。
「ああ、これはニンファドーラ!」
「こんばんは、先生」
ダンブルドアが、テーブル脇に座っていたトンクスに挨拶をする。挨拶を返したトンクスは、ぼくとハリーに対しても片手を上げて微笑んだが、しかし随分とやつれたようだった。普段はショッキングピンクの髪の毛が、今は茶色だ。元々はこれが地毛なのだろうが、しかしトンクスらしくない。彼女はこの髪色を気に入ってはいなかったはずだ。
「あたし、もう帰るわ。モリー、お茶と同情をありがとう」
そう言ってトンクスは立ち上がった。
「わしへの気遣いでお帰りになったりせんよう。わしは長くはいられないのじゃ。ルーファス・スクリムジョールと、緊急に話し合わねばならんことがあってのう」
「いえ、あたし、帰らなきゃいけないの……おやすみ」
「ねぇ、週末の夕食にいらっしゃらない? リーマスとマッド・アイも来るし──?」
リーマスの単語を聞いた瞬間、トンクスの肩が跳ねた。しかしトンクスは首を振る。
「ううん、モリー、ダメ……でもありがとう、みんな、おやすみなさい」
トンクスはぼくらの横を通ると、庭に出て行った。
心配のあまり、ぼくは思わず彼女の後を追う。
「トンクス……」
今にも『姿くらまし』しようとしていたトンクスは、ぼくを振り返った。
「……アキ」
彼女の灰色の瞳が、きゅっと泣きそうに細まる。
「どうしたの……闇祓いの仕事が辛い? ならあんなもの、辞めてしまえばいいよ。君なしじゃ回らない組織なら、そんな組織は滅びるべきだ。君ほど能力がある人なら、他にも職はいっぱいある……無理をしてまで、あそこはいるべき場所じゃない」
闇祓いの職に就く彼女を必要以上に気にかけてしまうのは、きっと、ぼく自身が幣原に対して色々と感じているからだ。ぼくが幣原に対して言いたいことを、彼女を通して伝えた気でいるのかもしれない。
彼女に、幣原を投影しているのか。
「ううん……違うよ、アキ。あなたが負い目に思うことは、何一つないよ」
「……なら、どうして? どうして、そんな……辛そうな顔をしているの?」
ぼくの問いかけに、トンクスは儚い笑顔を浮かべた。
「あたしの心配じゃなくって、あなたはリーマスの心配をしてあげて」
「リーマス?」
思いもしなかった名前に、目を瞬かせた。そう、とトンクスは微笑む。
「あたしじゃ、あの人の暗闇は癒せない。……あなたじゃないと、リーマスには寄り添えない……あなたでも、もしかしたら寄り添えないのかもしれない。……彼じゃないと、いけないのかもしれない」
『彼』とは、ひょっとして。
トンクスは目を細めると、ぼくの髪をそっと撫で、頬から顎に手を滑らせた。
「お願い、アキ」
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