込み上げる吐き気を感じ、喉に手を当てた。もう吐き出すものなんて、何もないというのに。
酸で灼けた喉が痛む。任務終わりに浴びる朝の日差しは、ぼくから着実に体力を奪っていった。しかし、まっすぐ寮に帰る気にも、なれなかった。
「…………あ」
ふと気付くと、路地の突き当たりだった。何も考えずに足を進めていたら、こんなところに来てしまっていた。
引き返す気力も湧かなくて、物陰に座り込む。見上げると、建物で四角く切り取られた青空が映った。
「……はぁ、ぁ」
項垂れ、左手を見つめる。軽く握っては開いた。
杖を握った感触は、未だ手に残っている。
死の呪文を放った瞬間に僅かに感じた、杖の振動も。
「…………」
両手で顔を覆い、目を閉じた。細く、長く息を吐く。
これからぼくは、何人も敵をこの手に掛けるだろう。屍の山を築くほど、数多くの敵を。それが、ぼくに期待される役割。ぼくが果たさなければならない役目。
──どこまでぼくの心が保つのかは、定かではないけれど。
チャイムの音に、本から顔を上げた。もう時間は夜更け過ぎだ、こんな時間に、一体何の用だろう。
初任務が終わってから、ぼくは二日間の休暇を言い渡された。余りにも、顔色が悪かったからか。情けない。食事も、胃が受け付けてくれなかったし、疲れているにも関わらず、眠気は一切襲って来なかった。
寝転がっていた身体を起こすと、ソファから降りる。廊下を小走りで進むと、玄関の扉前で「……誰?」と低い声で呟いた。
『僕だよ、パトリック・リオン!』
途端、右耳につけているトランシーバーから声が聞こえてきた。慌てて、親指と人差し指でトランシーバーを摘む。
「リオン?」
『ヴィッガーもいるぞ。なぁ、開けてくれないか?』
そう言われて、断る理由はなかった。
錠を外し、扉を開け放つ。そこには、訓練生時の同期、リオンとヴィッガーの姿があった。ほんの数日前まで、彼らと一緒に訓練を受けていたのに、なんだか無性に懐かしかった。
「どうしたの?」
「レインウォーター先輩が、絶対眠れてないだろうからって。『生ける屍の水薬』の希釈液。紅茶とかにそのまま入れて飲んで大丈夫だとさ」
「エリス先輩が……」
本当にあの人は、優し過ぎると言うか、何と言うか。面倒見が良過ぎる。
ぼくは弱いから、いけないことだって知っていながら、ズルズルと甘えてしまいそうになる。
「届けてくれたんだ……ありがとう」
微笑もうとしたが、ぼくの試みは失敗に終わったようだ。だってリオンもヴィッガーも、痛ましそうな顔で口を噤んだから。
いつの間に、ぼくは笑顔を浮かべるのが下手くそになってしまったのだろう。
「……幣原」
とそこで、ヴィッガーが一歩足を踏み出した。ぼくはヴィッガーを見る。
「君は、覚悟をしたんですね」
静かな声だった。目を閉じると、息を吐く。
「うん」
今度こそぼくは、しっかりと笑顔を浮かべた。二人が、僅かに目を瞠る。
「幣原……、今度空いた時間が合ったら、三人で食事にでも行こう。僕は、君のことを何も知らない」
リオンがそんなことを言う。
確かに、その通りだった。ぼくら三人は、一年弱一緒にいたというのに、互いのことを全くと言っていいほど知らなかった。毎日の訓練は過酷で忙しく、また三人とも、自分のことを語り合うような性格ではなかったし──ぼくはどうして、リオンとヴィッガーがこのご時世に闇祓いになろうとしたのか、何も知らないのだった。
リオンの申し出はとてもありがたかったが、ぼくは互いのことを知らない方が、いいようにも思えた。
だって。
互いのことを知っていたら──相手のことを知り過ぎていたら、きっと、別れは何よりも辛いものとなる。
「ありがとう。きっと、時間が合ったら」
心にもないことを口にすると、リオンの肩がホッとしたように落ちた。
「ちゃんと寝るんだぞ──あ、あとこれ、適当に摘めそうな食料! ゼリーとか、ヨーグルトとかも持ってきたから」
「ぼくは病人かい?」
思わずそう突っ込みを入れた。ヴィッガーがクスクス笑っているのに、リオンが赤い顔で肘鉄を食らわす。
「ま……助かるよ」
リオンは元来、世話好きだ。人を細やかに観察しては、色々と気を遣ってくれる。もしかしたら、兄弟が多かったりするのかな。そうかもしれない。ぼくは一人っ子だから、兄弟がいる感覚が上手く理解出来ないんだけれど、リオンがぼくに時折取るこの態度は、『兄』のようにも感じられた。
「ありがとう」
色んな思いを押し隠し、ぼくはもう一度、笑顔を作った。
リオンとヴィッガーは、安心したように微笑んだ。
◇ ◆ ◇
届いたふくろう試験の結果に軽く目を通した後、折り畳む。羊皮紙をポケットに突っ込み辺りを見回せば、ハリーもロンも、ハーマイオニーは言うまでもなく、まだふくろう試験の結果と睨めっこしていた。
「占い学と魔法史だけ落ちたけど、あんなもの、誰が気にするか?」
ロンは嬉しそうにそう言うと、ハリーと成績表を取り替えっこしている。ハリーの成績表を見るなり、ロンはハリーの肩にパンチを食らわせた。
「君が『闇の魔術に対する防衛術』でトップなことくらい分かってたさ──僕たち、よくやったよな?」
「よくやったわ! 七ふくろうだなんて、フレッドとジョージを合わせたより多いわ!」
モリーおばさんが、感極まったようにロンの髪を掻き混ぜる。ロンは少し迷惑そうにしていたが、それでも嬉しそうだった。
「ハーマイオニー? どうだったの?」
「私──悪くないわ」
ハーマイオニーが呟く。ロンはハーマイオニーに近付くと、彼女の手から成績表を奪い取った。
「それ見ろ、Oが九個、Eが一個、『闇の魔術に対する防衛術』だ。──君まさか、がっかりしているんじゃないだろうな?」
ハーマイオニーは首を振る。それに小さな声でハリーは笑った。
「あの……アキは?」
ハーマイオニーが近付いてくる。小さくため息をついて、一度ポケットに直した成績表を広げると彼女に渡した。
ロンとハリーが、ハーマイオニーの両サイドからぼくの成績表を覗き見る。
「すっげぇ、十二ふくろうの天才だ! ビルとパーシーと同じだぜ!」
ロンが軽く口笛を吹く。ぼくは小さく肩を竦めた。キラキラした眼差しでぼくを見つめるハーマイオニーの視線を、そっと避ける。
「これじゃあ主席は待ったなしだな。来年は君も監督生と同じ広い風呂を使えるぞ!」
「はは……」
広い風呂も、十二ふくろうも、あまり達成感を感じない。将来の選択肢が広がったからと言って、ぼくの『ホグワーツ教師』という将来の夢には対して変わらないし──そもそも、このぼくに将来なんてあるのだろうか。
幣原秋の人形に過ぎない、このぼくに。
かと言って、喜んでくれる人たちにこんな暗く重い内心を悟られたくなかった。
だからぼくは、精一杯の虚勢を張って、心に幾重のベールを被せ、せめて嬉しそうに「ありがとう」と微笑んだ。
それからの『隠れ穴』での生活は、ダーズリー家に比べることすら恥ずかしくなるほどの、とてもとても素晴らしいものだった。ハリーの誕生日には──失礼、一応は、ハリーとぼくの誕生日には、豪勢な料理とプレゼントが用意された。
ふくろうは遠く離れた場所に住む友人からもプレゼントを運んで来てくれる。その中でも、綺麗にラッピングされた小包の差出人を見て、ぼくの心は高鳴った。
ぼくの、世界で一番可愛い彼女、アクアマリン・ベルフェゴール。彼女からのプレゼントに心拍数の上昇は止まることを知らない。
しばらく小包を手に固まっていたら、大きくため息をついたジニーに思いっきり背中を叩かれた。痛い。
「全く、いつまでも惚けてないでよ。付き合って何年経つんだっけ?」
「えっと、今で一年と七ヶ月……」
「あっきれた! それでまだキスもしてないってワケ?」
「声が大きいよジニー!」
わたわたと周囲を見回すぼくに対して、教え諭すようにジニーは自分の腰に両手を当て、ぼくに向かい合った。
「付き合い方なんてそれこそペアの数ほどあるし、別に強制はしないけど……アキ、ちゃんと彼女のこと、大事にしてるの? 寮だって違うんでしょ。ちゃんと会ってる? 好きだって伝えてる?」
「う……」
そう言われると、痛い。
「この前の、魔法省でのことだってそう。去年、時計塔から飛び降りようとしたときだってそう。アキは勝手だよ。すごくすごく、心配したと思うよ、彼女さん。だって私も死ぬほど心配したもの。ハリーだってそうよ。いくらあなたが強くても……強いせいで、アキがここからいなくなるのなら」
ジニーはぼくの手をしっかりと握り、目を見て告げた。
「そんな強さ、いらないよ」
「…………」
「あなたがそんな、いつまでも向こう見ずで、自分を大切にしない自己犠牲の姿勢を崩さないんだったら──いつか終わるよ。……好きなんでしょ? 大切にしたいんでしょ? ……なら、大切にしてあげて。あんまり自分の彼女を、泣かせないで」
するりとぼくの手を離し、ジニーは部屋を出て行った。
残されたぼくはしばらくその場に立ち竦んでいたが、息を吐いて、少しだけ笑った。
「……随分と年下の子に諭されるなんて、ねぇ……」
前髪を軽く引っ張ると、目を伏せた。
「……アクア」
君のことも、色々と考えないといけないのかもしれない。
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