ドアベルの音で、目が覚めた。闇祓いの報告書を書きながら、眠ってしまっていたのか。
自分が癖字の自覚はあるが、うとうとしながら書いた自分の字は、どうしようもなく見るに堪えない。後で全部書き直さなければ。
外は雨が降っているようだ。雨粒が地面を打ち付ける音が聞こえる。
しかし一体誰だろう、と指を鳴らした。空中に浮かぶ長方形が、扉の外を映し出す。
そこに映った人物に、目を瞠った。
慌てて部屋を出、廊下を歩きながら「……誰だ?」と確認する口調で問いかけた。
『……秋先輩。誰か、なんて分かっているんでしょう? ……僕です。レギュラス・ブラックですよ』
朗らかな声だった。彼から『秋先輩』なんて呼びかけられる日が来ようとは。
想像もしなかった出来事に、少しばかり驚く。
躊躇いながらも、扉を開いた。
「レギュラス……」
信じられないほど穏やかな笑みで、目の前の彼、レギュラス・ブラックは微笑んだ。
彼の右手には、屋敷しもべ妖精の手が握られている。屋敷しもべ妖精はぼくを物凄く警戒するような目で見つめていたが、ぼくの視線に気付いたか、レギュラスの後ろにパッと隠れてしまった。
レギュラスの、男児にしては少し長めの黒髪から、ポタポタと雫が滴っている。雨に打たれたのか。
レギュラスの背後には、雨が糸のように降り続いていて、見慣れた玄関前に灰色のベールが掛かったようだった。
「濡れているじゃないか。立ち話もあれだし、中に入ってくれよ。ちょっと待ってて、今タオルを持ってくるから……」
そう言って身を翻したぼくの腕を、レギュラスが掴んだ。驚いて振り返る。
「長く時間は取らせませんから。大丈夫です」
その笑顔に、表情に、ゾクリとした。
凄く綺麗で、完璧な笑顔だったから。
「貴方は正しかった。そんなことに今更気付いた。もう、遅過ぎるけれど……それでも、貴方に、最後に言いたかった」
レギュラスは微笑んで、ぼくに告げる。
「僕は、貴方と出会うことが出来て、本当に良かった」
それは──まるで。
最期の言葉のようで。
どうしてそんなことを言うのだ。
どうして、ぼくなんかに。
「……凍えてしまう。やっぱり入ってくれないか。積もる話もあるんだ。君が好きなロシアンティーを淹れてあげよう。タオルを持ってくるから」
いいね、ちゃんと居るんだよ。
そう念押して、ぼくは慌てて部屋へと駆け戻った。バスタオルを引っ掴み、慌てて玄関へと戻る。しかし既に、レギュラスの姿は消えていた。
「……っ」
迷ったのは一瞬だった。
雨空に飛び出すと、辺りを見回す。しかし雨と霧で視界は煙っていて、数メートル先すらも見通せなかった。
「レギュラス? レギュラス!」
声を限りに叫ぶ。しかし頭のどこかで、あの後輩はぼくの呼ぶ声に絶対に返事なんてしないんだと、分かっていた。
雨音に混じって、バチンという『姿くらまし』特有の音が聞こえた気がした。
ハッと息を呑み、その方向に杖を向ける。魔力の痕跡だけでも見つかれば、その微かな残り香から、向かった先を特定することが出来るからだ。
レギュラスが、ぼくにあんなことを言うなんて。普段の毒舌は一体どこに行ったんだ。
そんな言葉を残して、勝手に満足していくんじゃない。人を自己満足に巻き込むな。
ふつふつと湧き上がる怒りは、焦る感情に依るものだろう。
レギュラスが、このまま消えてしまうのではないか。そんな予感が、気持ちを急かせる。
「……っ、あった」
見つけた、魔力の痕跡。杖で触れると、それは薄い紫の光となって浮かんだ。
雨に混じって消えてしまうよりも早く、解析に掛ける。じりじりと待つだけの時間も、気が焦れる。
「どこだ、ここ……」
垣間見える情景からして、洞窟、のようだ。どうしてレギュラスは、こんなところに用事があったのだろう。
しかし、迷っている時間はなかった。既にかなりの時間を浪費しているのだ。ぼくが今着ている服も、かなりの水気を吸って重たくなっている。防水呪文を掛けることすら忘れていたのか。
ついっと指を振ると、一瞬でローブの水は蒸発し、太陽に照らされていたような温かみを帯びた。
どこかは分からないが、行ってみるしかないだろう。そう思って、ぼくは『姿くらまし』をした。
辿り着いて真っ先に感じたのは、足元の不安定さだ。
すぐ近くには崖があり、磯の香りがすることから、ここは海にほど近い場所のようだ。
崖と反対側に、洞窟がある。先ほど垣間見えたのは、この洞窟か。
洞窟は、半分が海の水に浸かっていたが、ぼくが足を踏み出すと、瞬時にパキパキと小さな音を立てて凍りついた。抜けないよな、と一応地面を踏み鳴らすも、まぁ安心していいだろう。
杖明かりを頼りに、ぼくは歩いた。
大きな洞穴へと続く階段を上ると、突き当たりに出た。
眉を寄せ壁に近付いて──真新しい血だまりを発見する。
「これは……」
思わず目を細めた。杖を向け、呪文を放つ。
しかし『爆破呪文』でもってしても、この壁にはヒビ一つ入らなかった。
「んー……」
真新しい血。この先をレギュラスが進んだのだとしたら、この血は恐らくレギュラスのもの。
何かしらの事故で、ピンポイントにここに血が溜まることになったとも考えにくいし、レギュラスの意思が働いていることは間違いがないだろう。
もしかして、と思って、ぼくは右の前腕を捲り上げた。一振りで杖を短剣に変えると、眉を寄せる。
「……っつー」
手首から滴る血を壁に振りかけると、途端壁にアーチ状の輪郭が浮かび上がった。次の瞬間、その形に壁が切り抜かれる。
先は、真っ暗だった。光は一切存在しない。目の前には大きな湖が広がっていて、縁の部分は通れそうだ。
湖の水面に光を近付けると、光を感知したか大きな魚の影が寄ってきた。こんなところにも魚がいるのか、と目を見張り、瞬時に魚じゃないことに気が付いて、ぼくは思いっきり後ずさった。
「な、に……」
魚なんかじゃない。あれは──人間だ。亡者だ、ホグワーツ時代、授業で習ったことがある──ヴォルデモートが亡者の軍隊を作っているという噂も、同時に思い出した。
壁に手をつきながらも、立ち上がった。水面を見ないようにしながらも、歩く。
こんなものが自然に出来るはずがない。誰かが魔法で作ったものだ。ならば、魔法の痕跡を探せばいい。
しかし、悪趣味なことだ。アズカバンの成り立ちを聞いたときもゾッとしたが、ここもそれなりに酷い。吸魂鬼の姿を一体も見ないのが、嘘のようだ。
「……ん」
行き止まり、のようだ。しかし、まだ仕掛けはあるのだろう。ぐるりと杖を空中で振り、魔力の痕跡を探す。労せずすぐに見つかった。
空中にある透明の鎖を引っ張ると、やがて水底から一隻の小舟が現れる。
一瞬躊躇したが、乗るしかない、と腹を括った。
舟はゆっくりと進んでいった。オールを漕ぐ必要もない、楽なものだ。
しかしゆったりと腰掛ける気にもなれず、ぼくは立ったまま、真っ暗な先を見つめていた。
やがて、遠くに緑色の光が見えた。なんだろう、と目を凝らす。舟がその光の方へ向かっているのは明らかだった。
しかし、ぼくがその光が何かを確かめることは、ついぞなかった。
光の近くに、暗い影。
ぼくの視力は決して悪くない、誰かが倒れている、ということが視認出来た瞬間、ぼくは小舟の縁先を蹴った。風を操り、風に乗って、その人物の元に──レギュラスの元に、向かう。
「レギュラス!」
レギュラスに水面から手を伸ばす亡者を、杖を横に振り薙ぐことで払った。
「死ぬなっ、レギュラス!」
レギュラスの身体を掴み揺さぶる。
「生きるんだよ、君は! 遺言めいた言葉をぼくに残して、勝手に死のうとしてんな!!」
そう叫ぶと、レギュラスは薄っすらと目を開け、静かに微笑んだ。
「──貴方くらいですよ、僕に遠慮なく触れてくる人なんて……」
そんな言葉が返せるなら、大丈夫だろう。皮肉げな口調に、安心する。
「掴まって。絶対に離さないでよ」
レギュラスの左腕を取ると、彼の身体を背負った。もっとも、ぼくよりもレギュラスの方が大分と背が高いため、自然と引きずる形となってしまう。
亡者は、レギュラスという獲物をぼくに横から掻っ攫われたことに酷く腹を立てたらしい。一体この湖の中に何体いたのか、考えるだけでぞっとする数が一斉に襲ってきた。杖で払うも、キリがない。
亡者には、磔の呪文も死の呪文も効かない。一斉に炎で焼き払ってもいいが、それだと小舟まで一緒に燃えてしまうかもしれない。あの小舟は木製だったから、火がついたらさぞかしよく燃えることだろう。
『姿くらまし・現し術』も、この場所ではきっと封じられている。
背中から滑り落ちそうになるレギュラスを、慌てて背負い直した。
お、重い……こういう時、自分の体型の貧弱さに泣きそうになる。
「このままじゃ、二人とも亡者の餌食になってしまいます……貴方だけでも、逃げてください……」
「……っ、嫌だ! 誰が君を置いていくものか……っ、君が死ぬなんて、神が許したところで、僕は絶対に許さないぞ……っ!」
レギュラスから、そんな言葉が聞こえた。奥歯を食い縛る。
勝手に諦めるなんて許さない。
そんなこと、もう何人もの人を殺したぼくが、言えた義理じゃないのは分かっているけれど。
それでも、レギュラスには死んで欲しくなかった。
死んでいい人間なんているものか。そんな人、誰一人としていないんだ。
──その考えが、誰よりも自らの首を絞めると、何よりも自分の罪深さに絶望することになると、分かっていた。
分かっていても、願ってもいいだろう?
生きていて欲しいと、そんなことを勝手に望むくらいは、いいだろう?
「…………」
レギュラスは、大きく息を吐いた。そして──
驚いて、何も対応が出来なかった。レギュラスに突き飛ばされ、ぼくは無様にもすっ転ぶ。
瞬間、ぼくの上に亡者の重みがずしりとのし掛かった。重みに喘ぎながらも、ぼくは呆然とレギュラスを見上げる。
「なん、で……?」
レギュラスは僅かによろめいたが、二本の足で自らの体重を支えると、ぼくを見つめて微笑んだ。
「……知ら、なかったんですか……? 僕は貴方が大嫌いなんですよ」
レギュラスの笑顔は、とてもよくシリウスに似ていて──でもシリウスよりも、ずっと繊細で、儚くて、涙が出そうになるくらい、綺麗だった。
「貴方の言うことを、僕が──聞く訳がないじゃないですか」
するりと、亡者がレギュラスに絡みつく。
水の中に手繰り寄せられる時、レギュラスは一切の抵抗をしなかった。
「レギュラスッッッッ!!」
伸ばした手は、あえなく空を切る。
ぼくにのし掛かっていた亡者は、もうぼくに興味はなくなったとばかりに水の中へと戻っていった。
「……っ、あ、あああああ……ッッ」
伸ばした左手を空中で握り締め、地面に叩きつける。
お前には何一つ守ることなど出来ないと、運命に嘲笑われた気分だった。
『──。おい、幣原。幣原!』
名前を呼ばれ、ハッと我に返った。
洞窟の中だった。
一体、ここでぼくは何時間を過ごしただろう。茫然自失して、どのくらいの時間が経っただろう。
右腕を上げ、右耳のトランシーバーに触れる。ただそれだけの動作も、億劫だった。
「──はい」
掠れた声が、自分の喉から零れた。途端、耳元で捲し立てられる。
『幣原、お前どうした!? もう始業時間だぞ!!』
エリス先輩の声だ。もう、そんなに時間が経っていたのか。
懐中時計を探して、家の中に忘れてきたことに気がついた。
「すみま、せん……」
『……何かあったのか?』
エリス先輩は、こんな時でも優しすぎる。だからこそ、迷惑を掛けちゃいけない。
「……すぐに着替えて向かいます。本当に申し訳ありませんでした……始末書は後で書きます……」
それだけ言って、通信を切る。軋む身体に鞭打って、立ち上がった。
ぼくらには、立ち止まることは許されない。
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