雨は数日、降り止まなかった。
暗い部屋で、ぼくはシリウスに頭を下げた。
「ごめん……助け、られなかった」
「……君が謝ることじゃない」
掠れた声だった。
僅かに頭を上げ、シリウスの表情を伺う。
目を伏せ両手を組み合わせたシリウスは、低い声で呟いた。
「……バカな奴だ」
「大丈夫!?」
身重の新妻、リリー・エバンズ──否、リリー・ポッターが躓いて体勢を崩したのを見て、ジェームズは慌ててリリーの両腕を後ろから掴んだ。
「もう、大袈裟よ」
「何かあったらどうするんだい! 欲しいものがあったら僕が全部準備するから、君はずっと座っていてよ!」
「ジェームズ、ちょっとウザいわ」
「うぐっ」
身も蓋もない辛辣な言葉、学生時代はよく食らっていたが、最近はトンとご無沙汰だった。
「大体あなた、私なしで一人でご飯が作れるというの? ならやってみなさいよ。言っておくけれど私は三ヶ月前のあの大惨事を忘れたことなんて一度もないわよ」
「ご、ごめんなさい……」
すごすごと立ち戻る。言い返す言葉が何一つ思い浮かばなかったのだ。
「そんなに心配しなくても、大丈夫よ」
そっとリリーはジェームズを押し返し、微笑んだ。
ソファに座ると、目立ってきたお腹を優しく撫でる。ジェームズもその隣に腰掛けた。
「そう言えばね、昨日、秋が訪ねてきたのよ」
「えっ、秋が!?」
驚いて目を瞠った。
その反応を予測していたとばかりに、リリーがクスクス笑う。
「結婚しても、私が秋の話題を出すと慌てるのは変わらないのね。ジェームズは今騎士団の任務でいないわよって言ったら、少し寂しそうな顔をしてたわ」
「……忙しいだろうに、顔を見せてくれたんだね、あいつ」
「えぇ。『いつ頃生まれるの?』って目を輝かせて聞いてきたわ。夏頃よ、って言うと『そっかぁ……』って、目を細めてた」
リリーが描写したその表情は、ジェームズも簡単に脳裏に思い描くことが出来た。
目を細めて。何よりも嬉しそうに微笑むのだろう。あいつは、秋は、そういう奴だ。
「……ねぇ、ジェームズ」
「なんだい、リリー?」
リリーは僅かに瞳を揺らしてジェームズを見上げた。少し不安げな眼差しだった。
「……最近、秋に会った?」
「最近……? そうだねぇ、二週間前に騎士団の会議が終わった後、少し話をしたくらいだけど」
そう、とリリーは目を伏せた。
「どうしたんだい?」
「……私の気のせいかもしれないんだけどね」
そう一拍置いて、リリーは呟いた。
「今の秋の笑顔、ゾッとするほど、綺麗なの。恐ろしいくらい……純粋な、笑顔なの」
◇ ◆ ◇
ハリーは、ドラコがボージン・アンド・バークスの店主に見せていた『何か』を、死喰い人の証である『闇の印』だと考えているようだった。ロンとハーマイオニーはそれについて曖昧な反応を返すばかりで、ぼくもはっきりと言明しないものだから、ハリーは業を煮やしながらも、腹の中でその考えを吟味するのみに留めていた。
ドラコが『死喰い人』になったのかどうか。
可能性は無くも無い、そう思う。前回の闇の時代を生きた幣原の記憶を持っているぼくだからこそ、そう思うのかもしれない。
──この学期は、ドラコと距離を取っておいた方が安全かもな。
ぼく、ではなく、ドラコ自身の安全のために。
ヴォルデモートはハリーだけではなく、幣原秋を、ひいてはぼくを目の敵にしている。ぼくを崩すためだったら、何だってやるだろう。心苦しい役目を、ドラコに背負わせたくはなかった。
リーマスとは、長いようで短い夏休みの間、全く会うことが出来なかった。不死鳥の騎士団メンバーに尋ねると、彼は現在長期の張り込み任務に出ているのだという。トンクスも滅多に『隱れ穴』に姿を現さなくなったし、たまに訪れたとしても憔悴し切った表情をしていた。髪は未だ茶色のまま、指摘されると力無く笑っていた。
新学期は、驚くほどに早く訪れた。
魔法省の車で送迎され、キングズ・クロス駅ではマグルのスーツを着こなした闇祓いが二人、むっつりとした顔のままぼくらを挟んで進んだ。一体何の護衛だろう、と、駅の構内で擦れ違う人達が振り返ってぼくらを見ている。もう少し愛想のいい人はいなかったのだろうか。
ふと視線を感じて顔を上げると、闇祓いの一人がぼくを見下ろしていた。
ぼくは数秒目を合わせた後、手を伸ばしてパーカーのフードを目深に被ると目を逸らす。
九と四分の三番線を抜けると、いつもの喧騒が身体を包んだ。
監督生であるロンとハーマイオニーに手を振って別れ、ハリー、ジニーと共にぼくが先頭になって空いているコンパートメントを探す。混み合った車内の中、やっと空いているコンパートメントを見つけた。そそくさと乗り込み、気付く。ハリーがいつの間にか消えていたことに。
ハリーの姿を見失ったことに、心臓がドキドキと音を立てる。「ハリー・ポッターを守る」という目的の元、幣原秋に作られた存在である自分が顔を出す。
動揺を押し隠して窓から首を突き出し探すと、ハリーの姿は案外簡単に見つかった。アーサーおじさんと話しているハリーに、ホッとする。
汽笛が鳴ったのに、慌ててハリーが話を切り上げて汽車へと近付いてきた。キョロキョロと視線を彷徨わせるハリーに「ここだよ!」と大声を出す。
ぼくの声はハリーに届いたようで、ほぼ迷い無くハリーはこちらに歩み寄ってきた。
アーサーおじさん、モリーおばさんに手伝われ、窓からハリーとトランクを入れると、ぼくらは一息をついた。
すぐさま列車が動き出す。
窓越しに、モリーおばさんが声をかけた。
「身体に気をつけるのよ。それからいい子にするのよ。それから──危ないことをしないのよ!」
ぼくとハリー、それにジニーは、二人の姿が見えなくなるまで手を振った。
「じゃ、あたしディーンと落ち合う約束してるから、また後でね、ハリー、アキ」
そう言ってジニーは、長くて綺麗な赤毛を柔らかく揺らしてコンパートメントから出て行った。
ぼくは笑顔で手を振り返したが、ハリーは少し複雑な表情をしていた。一体どうしたのだろう、と表情を窺うも、ちょうどのタイミングでコンパートメントがノックされた。
「やぁ、ハリー、アキ」
「こんにちは」
「ネビル! それにルーナも。元気?」
ネビルとルーナの二人を中へと招き入れる。
ネビルは椅子に腰を下ろすなり興奮した表情で、新品の杖を取り出した。
「見て、ハリー。僕ね、新しい杖を買ってもらったんだ。ばあちゃんが『日刊預言者新聞』に載った記事を見てとっても喜んで、やっと父さんと母さんに恥じない魔法使いになり始めたって言うんだ。オリバンダーが売った最後の一本だと思う。次の日にいなくなったんだもの」
少し気を惹かれて、ぼくは口を開いた。
「オリバンダーの様子は、どうだった? どことなくソワソワしてたり気も漫ろだったりとかなかった?」
「特にそうは思わなかったよ、いつも通りだった」
「ふぅん……」
ならばいよいよ、ヴォルデモートらがオリバンダーを誘拐した線が強くなるな。
目を伏せ思考に脳を浸していたが、コンパートメントの外が騒がしいのに目を向けると、女の子が数人中を伺ってはクスクスと笑っている。やがて一人がコンパートメントのドアを開けた。顔には出さないものの、ノックくらいしたらどうかな、くらいは感じる。
女の子はまっすぐハリーを見つめて、自信たっぷりの声音で言った。
「こんにちは、ハリー。私、ロミルダ。ロミルダ・ベインよ。私たちのコンパートメントに来ない? この人達と一緒にいる必要はないわ」
初っ端から随分と悪手を打ってきたものだ。
窓枠に頬杖をついて、起こる喧騒を眺める。
「この二人は僕の友達だ。それに僕を誘いたかったら、僕が世界で一番大事にしている弟を貶すことは、絶対にしちゃいけないことだと思うよ。後学のためにもね」
彼女の目の前で、ハリーがドアをピシャリと閉める。ついでにブラインドまで下ろしてしまった。
「ハリー、そんなこと言ってたらとんでもないブラコンだと噂を流されちゃうよ」
「事実だからね、構わないよ。その程度で引くような人は、所詮その程度」
「みんな、あんたにあたしたちよりももっとカッコイイ友達を期待するんだ」
ルーナは率直だった。それに対し、ハリーは端的に答える。
「君たちはカッコイイよ。あの子達の誰も魔法省にいなかったし、誰も僕と一緒に戦わなかった」
「いいこと言ってくれるね」
ルーナはにっこりと微笑むと『ザ・クィブラー』に視線を落とす。ネビルはしかし、真面目な表情で囁いた。
「だけど、僕たちはあの人には立ち向かってない。君が、立ち向かった。ばあちゃんは『あのハリー・ポッターは、魔法省全部を束にしたより根性があります!』って。ばあちゃんは君を孫に持てたら、他には何もいらないだろうな」
ハリーは少し笑うと、急いで話題をふくろう試験のものに変えた。ネビルの注意はうまい具合にそちらに逸れ、『変身術』が思った点数が取れなかったと嘆いている。
ハリーは頷きながらネビルの話を聞いていたが、よく見ると上の空だった。
トランクから一冊の本を取り出す。わざわざ日本まで取りに行った、あの本だ。
梓さんのことを思い出し、少し憂鬱な気分になる。上から手織りのブックカバーを掛けているため、傍目から血痕は見えない。
世の中の魔導書には、開くだけで具合が悪くなったり生気を吸い取られたりするものがあるという。たとえ写本でも、だ。
だから、父である幣原直が書いたと言われる本にしても幾分覚悟はしていたのだが、実際は何にも起こらなかった。少なくとも自覚症状は一切ない。
極々普通の本だ。中身が読めないだけで。
そう、読めない。
これは単純に言語力の問題だ。気合いの問題、と言い換えてもいいかもしれない。ぼくに扱えるのは英語とせいぜいの日本語、後は呪文学で少し触ったラテン語と古代ルーン文字、その程度。
しかしこの本を開いてみると、一ページの中に様々な言語で書き込まれていて、見るだけで頭が痛くなる。
とりあえず読める部分だけさらってみたけれども、進捗ははかばかしくない。
「ねぇ、それなぁに?」
ふとルーナが、手元の本を覗き込んでいた。と思うと軽く取り上げ、首を傾けたまま目を通す。
苦笑しつつも「読めないと思うよ……?」と口に仕掛けて。
ルーナは本を手から取り落とした。
バサリと床に本が落ちる。
「あっ……ごめんね、アキ」
謝罪の言葉を口にしたルーナはしかし、ただでさえ白く抜ける肌が、今度こそ色を失うほどに青ざめていた。
「……ルーナ?」
「……ごめんアキ、あたしこの本は耐えられないよ。よく分かんないけどね、見ただけで気持ち悪いんだ」
それだけを呟いて、ルーナはコンパートメントから出て行ってしまった。
ハリーとネビルも話を止めて、ルーナが消えた方向を見る。
「どうしたの?」
「……さぁ」
本を拾い上げると、少し捩れたブックカバーを整えた。軽く叩いて砂を落とす。
昼食どきにやっと、ロンとハーマイオニーがやってきた。
それとほぼ同時に、一人の女の子がノックと共に入ってくる。三年生くらいだろうか、女の子は上級生ばかりのコンパートメントにあたふたしながら顔を赤らめた。腕には紫のリボンで結ばれた羊皮紙の巻紙が三つ抱えられている。
あー、これは。見覚えあるぞ。
「わ、わたし、これを届けるように言われてきました。ネビル・ロングボトムとハリー・ポッター、それにアキ・ポッターに」
ネビルとハリーはきょとんとした眼差しで受け取ったが、ぼくはやんわりと受け取りを拒否した。女の子は少し困ったような表情をしたが、元々断られたらすぐ引くようにとでも言われていたのだろう、無理矢理押し付けるような真似はしなかった。
逃げるようにコンパートメントを出て行く女の子を尻目に、ハリーとネビルは巻紙を開く。
「何だい、それ?」
「招待状だ」
ロンの疑問に、ハリーが短く答えた。やっぱりな、とぼくは息を吐く。
あの人は本当に、そういうことが大好きだ。幣原の時はさておいて、今のぼくと何を話したいと言うのだろう。
「行ってらっしゃい、二人とも」
「アキは?」
ここから動く気はない、という意味を込め左手をヒラヒラと振ると、ハリーは軽く肩を竦めてネビルと共に出て行った。
「スラグホーン先生って、何を教えるのかしら?」
「決まってるだろ? 『闇の魔術に対する防衛術』さ」
ハーマイオニーの呟きにロンが返す。「いや」とぼくは口を挟んだ。
「魔法薬学、だと思う」
隠居生活から無理矢理引っ張り出しておきながら、ダンブルドアが専門外の学問に就けることはさすがにない……ないだろう、ないと思いたい。もし『闇の魔術に対する防衛術』だったら、スラグホーン先生が気の毒すぎる。
「魔法薬学? そうだとしたら、スネイプ先生は?」
「スラグホーンがスネイプを蹴落としたのか!? そりゃヒャッホイだ!」
ロンは浮かれているが、さすがにそれはないだろう。ダンブルドアは、スネイプ教授を手元に置いておきたいだろうし──そうならば。そうしたら。
「…………」
浮かんだ考えを、ぼくは黙っておくことにした。どうせ数時間後には正解が発表されるのだから。
代わりに、考える。
今年は一体、どんな一年になるのだろうかと。
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