「今の君、何て呼ばれてるか知ってる?」
ぼくはコートを脱ぎながら、リィフの問いかけに短く答えた。
「『黒衣の天才』」
「……正解」
ハンガーを放ると、リィフは難なくキャッチしてみせた。
最近のリィフは、一週間に一度はぼくの部屋に泊まりに来る。ちゃんと家に帰っているのかと尋ねると、苦笑いで目を逸らした。まったく、と大きくため息をつく。
「奥さんが泣いてるぞ」
「こっちとしても帰りたいのは山々なんだけどねぇ」
ハンガーにコートを掛けながら、リィフはしみじみと呟いた。
「仕事をきちんと果たさないと、奥さんが奥さんじゃなくなっちゃうから」
「……君も大変だね」
「そうかな?」
リィフの奥さんは、魔女ではない。魔法を使えない、極々普通の人だ。
長く綺麗な金髪と、海の色のような碧の瞳が印象的な、とても美しい人だった。
純血一族、『中立不可侵』フィスナー家。よりにもよってその直系であるリィフが、マグルの女性を選ぶなど。
しばらくは色んな場所での話題を呼んでいたリィフだったが、今では大分落ち着いたようだ。
「子供の名前は、考えてるの?」
「何にしようかなぁ。どうしようかな。ねぇ秋、どうしよう」
「知らないよ、ぼくに聞かないで。君の子供でしょ」
「今のところね、一つだけ候補が上がっていてー、『アリス』っていうの。僕は寡聞にして知らなかったんだけど、マグル界じゃ有名な小説の主人公の名前らしい。シャーロットが、うちの奥さんが好きだって言うから、その名前にしようかなって」
「アリス……あぁ、なるほど」
小さく頷いた。可愛らしい、いい名前だと思う。
「読んだことないのかい? 日本語にも翻訳されているし、とっても有名な作品だと思うんだけど」
「マグル界の有名と、魔法界の有名はまた質が違うしね。『ビードルの物語』をこっちは聞いて育ってきてるんだ。『白雪姫』やら『シンデレラ』やら、マグル界には色々あるもんだ」
「そりゃ、マグルの方が人口も圧倒的に多いですから」
コートが掛かったハンガーを受け取ると、少し背伸びをしてフックに掛けた。
手袋を外すと、少し気が休まる。ソファに腰掛け、大きく息をついた。無意識に指先を合わせる。
「『黒衣の死神』じゃないだけマシさ」
「おや、自覚あったんだ」
「そりゃあね、そうだ。何年この魔力と付き合ってると思ってる」
隣にリィフが腰を下ろした。スプリングが軋む音がする。
「魔法省は、君を英雄に仕立てるつもりだ」
「……知ってる」
仕立てるも何も、既に偶像化は始まっている。
ぼくの名前は一週間おきくらいの感覚で、日刊預言者新聞の紙面を飾っていた。写真が載らないのは楽なものだが、噂話ならぼくの目に入らないところでやって欲しい。
まるで、ホグワーツの一年再来だな、と感じる。
あの頃も確か『天才』だと呼ばれていた。悪意と侮蔑と恐怖の籠った、あの呼び名。
今の呼び名には、何が籠められているのだろう。『呪文学の天才児』を引き継いでいる感じは、微妙にする。
「ほんのすこし前、ここに死喰い人からの襲撃を受けてね──まぁ侵入者対策は万全だったし、二度と手出しが出来ないくらい容赦ない仕掛けを施していた訳だけど、それでも帰宅したら玄関の前に他人の肉塊があるっていうのは結構な騒ぎになってね。まぁ、ぼくと──『黒衣の天才』と関わり合いになるのが嫌だったというのもあるだろうけど、それを機に、最近は続々と引っ越しているらしい。空き部屋増えたし、折角ならリィフ、一部屋借りなよ。今ならお金さえ払えば貸してもらえる」
言葉に皮肉げな響きを滲ませ、ぼくは笑った。リィフは少し切なげな眼差しでぼくを見つめている。
耐えられなくなって、ぼくは視線を逸らした。
「……先にシャワー浴びてきなよ。明日も早いんだろ」
つっけんどんな口調で言うと、立ち上がる。
「……あぁ、そうだね」
諦めたような笑顔を、リィフは浮かべた。
これは一体、何に使う薬なのだろう。
恐ろしく複雑な魔法薬の手順書を睨みながら、セブルス・スネイプは考えていた。
魔法薬学の優秀な成績を買われ、薬作成を命じられたのがつい先日。前線に立たなくていい、というのは、個人的に気が楽だった。作らされるものが『真実薬』や『ポリジュース薬』『生ける屍の水薬』と言う類のものであるということはさておき──
戦場で万が一にでも、幣原秋と出会ってしまったならば。
『黒衣の天才』、幣原秋。
彼の噂を、数多く聞いた。
全ての退路を塞ぎ、涼しい顔で敵を葬る闇祓い。
長い黒髪を一つに括った闇祓いを見たら、戦いを挑まずに逃げることだけに専念しろ。
さもないと、必ず殺される。
胃が、捩じ切れそうな気分になった。
何も考えたくなくて、セブルスは魔法薬の作成に没頭した。
それが一体どんな薬で、未来で誰を傷つけるのか──そんな、考える必要のないことは、考えなかった。
◇ ◆ ◇
紅の列車から人がひっきりなしに吐き出される。人の波に突っ立って、ぼくは眉を寄せてハリーの姿を探していた。
意地張ってないで、ハリーに着いてスラグホーン先生のところへ行けばよかった。どうしてそういうところで横着するのか、そういう些細なところで、相変わらずぼくは詰めが甘い。
「よっ、アキ」
ふと肩を叩かれた。
振り返ると、そこにはトンクスの姿。笑顔を浮かべてはいるが、覇気がない。闇祓いの制服は、幣原の時代とは少しデザインが違うが、基本的な部分は同じだ。
トンクスの闇祓い姿を見るのは、思えば初めてだ。階級章を見ると──年齢にしては結構地位が高い。これは高給取りだなぁ。
「トンクス! どうしてここに? 仕事かい?」
「そっ。学校の警備を補強するためにホグズミードに配置されてるんだ。それより、どうして皆と一緒に行かないの?」
「ハリーの姿が見当たらないんだ……スラグホーン先生のお茶会があってね、そこでハリーから目を離しちゃった」
「スラグホーン? ……あぁ、聞いたことはあるよ! 習ったことはないけどね。上級生の先輩が、スネイプと比べて『昔は良かった……』って懐かしんでた」
「は、はは……なるほど」
しかし、そうか、トンクスはその世代か。セブルスが新任教授としてホグワーツで働き始めた頃合いか。
……意外と年齢差があるんだなぁ。
「うーん、ハリー見当たらないね。普段だったら君を見つけるとすぐさま駆け寄ってくるのがあの少年じゃない?」
「…………うん、そうなんだけど」
否定の言葉を探して、見付からずに止む無く肯定した。
ホグワーツ特急から出てくる人の数が、段々と減ってくる。最後の一人らしき人物は、ぼくとトンクスに奇異の目を向けつつも、友人に取り残されまいと前の子の背中を追う。
さて、とぼくは声を発した。
「ハリーは透明マントを持っているから、ちょいと厄介だね」
「そうだね。ところでアキ先輩、ちょいとご覧いただきたいものが」
「どうしたんだいニンファドーラ後輩」
名前で呼ばないで! とトンクスが拳を振り上げる。
避ける真似をして、少しホッとした。さっきよりは、元気になったようだ。女の子が暗く沈んでいるのを見るのは、おじさんには辛いものがある。
「ほら、あそこの窓だけブラインドが掛かってる。いかにも怪しくない?」
「……確かに」
トンクスが指差す方向を見ると、本当だ、一つのコンパートメントだけブラインドが掛かっていて、外から伺えないようになっている。
汽車にピョンと飛び乗ると、通路を走る。さっきまで生徒で溢れていた通路は、今はガラガラだ、当たり前だけれど。
走りながら杖を取り出し振ると、眼前に半透明の四角い物体が現れた。ぼくの走る速度に従って追随する。
「何、それ?」
ぼくの後ろを走るトンクスが尋ねた。ぼくは振り返らずに口を開く。
「サーモグラフィーって、知ってる?」
「サーモ……あぁ、そゆこと」
さすがは闇祓い、理解が早い。お父さんがマグル生まれだからか、マグルの文化にも明るいし。
常々いい人材だ、そりゃあマッドアイも可愛がるってもんだよ。
サーモグラフィー。黒体放射の概念を知っていれば、理解は容易だろう。
全ての物体は熱を持っていて、熱を持った物質は全て赤外線を発している。その赤外線を感知して、受光量により色分けしたものが、サーモグラフィーだ。
この箱を通して世界を見れば、温度が高いと赤色に、温度が低いと青色に映る。透明マントがどのくらい遮るかは分からないが、以前触れた限りじゃ、マント越しでも人の温もりは感じられたから、それを頼りにすることにする。
見つけた、ブラインドのあるコンパートメント。足を止めドアを開けると、画面を向ける。
座席の下に見えない熱源を発見したのを確かめ、手を伸ばすと、柔らかな布に触れた。サッと取っ払い、笑う。
「やぁ、ハリー」
トンクスが瞬時に『全身金縛り術』の反対呪文を唱える。その間にぼくは『エピスキー』と『テルジオ』を唱え、ハリーの鼻を治して血を拭き取ってやった。
しかし服についた血が拭えないのは、血自体に魔力があるからだろう。後で綺麗に染み抜きをしないとな、なんて主婦臭いことを考える。
「ありがとう……アキにトンクス、どうしてここに?」
「君を探しに来たんだよ、バカ」
笑って、ハリーに手を差し伸べた。ぼくの手を取ってハリーは立ち上がる。
ホグワーツ特急がガタンと音を立て、ゆるやかに滑り出した。慌ててぼくらは特急から飛び降りる。
トンクスが杖を振ると、杖先から霞型の守護霊が現れ、伝言を乗せて城まで飛んで行った。随分と大きなそれは、どこかで見たことがあるような……パッドフットより大きい今のは、もしかして狼か?
「……え」
いや、でも、一回りは年下だぞ?
でも、じゃあなんであの時、彼女はぼくに『リーマスを助けて』なんて……。
ハリーが目を瞠り、尋ねる。
「今のは『守護霊』だったの?」
「そう。君を保護したと城に伝言した。そうしないと皆が心配するからね。さ、行こう。ぐずぐずしてはいられない」
トンクスが急かす。
ぼくら三人は連れ立って、学校までの道を歩き始めた。
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