「今日は、お仕事はお休みなの?」
目の前に、暖かな紅茶がコトリと置かれた。
ハリーはベビーベッドの中で、空中に浮く金色の小さなボールに手を伸ばしては、きゃいきゃいと機嫌よく笑っていた。流石はジェームズの子だ、この子も将来、シーカーになりそうだな。
「あぁ、うん……多分、近々昇進するから。来れなくなる前に」
「凄いじゃない。おめでとう」
「……ありがとう」
昇進と言っても、上の席が空いたから、繰り上がりでぼくが収まることになるだけなのだ。
ぼくが所属する、闇祓い局の第一班。ぼくが入ってからずっと班長を勤めてくださっていたリスター先輩が殉職されたのは、つい三日前。繰り上がりで、エリス先輩が班長に、ぼくが副班長になることは明らかだった。
でも、そんな血生臭いことは、リリーの耳に入れる必要はない。
「秋が来るときは、いっつもジェームズがいないとき。見計らってるんでしょ」
「そんなことないよ……たまたま、だよ」
嘘だった。特に、今日は。
リリーに聞いて欲しい話が、あったから。
「……美味しい。リリー、腕上げたね」
お茶請けのケーキの味に、目を瞠った。へへん、とリリーは自慢げに胸を張る。
「でしょ! お料理、随分上手になったのよ! いつでも食べに来ていいんだからね!」
「うん、いつか、きっと」
柔らかく微笑んだ。
正面で、リリーがフォークを置く。
「……ね、秋。何か話したいことがあって、来たんでしょ?」
「……鋭いね。女の勘、ってやつ?」
「茶化さない」
「はいはい……」
カップの中の液体を、ぼんやりと見つめた。揺らめく琥珀の水面に、ぼくの顔が映っている。
「セブルスに、会ったんだ」
その名前に、場が緊張したのが手に取るように分かった。
「闇祓いの、任務でね……向かった先で、かち合った。勿論、想定してなかった訳じゃない……たとえ過去がどうであれ、普段通り動けるようにシミュレーションしていた、それなのに」
全く身体が動かなかった。
目の前で、簡単に取り逃がしてしまった。
「……秋」
静かに、リリーはぼくに問いかけた。
「セブは、誰かを殺した?」
その言葉に、思わず表情を変えた。変えてしまった。
ぼくの変化に、リリーが気がつかないはずがなかった。
「……それ、は」
言い淀む。
しかし、リリーの眼差しは強かった。
「ねぇ、前にも言ったわよね、私。あなたの暗闇に寄り添いたいって」
「……それは、でも、今は」
今は、違う。
「何が違うというの? 状況? あなたの立ち位置? 変に偽らないで。私を誤魔化そうとしないで。私はあなたの親友よ、そうでしょう?」
ぼくの震える手を、リリーは掴んだ。ぎゅっと、両手で握り締める。
「……ぼくは、君に聞かせたくない」
「じゃあ、秋が喋りたいことだけでいい。私の質問、答えられる?」
それは──それならば。
「……セブルスは、殺していないよ。その痕跡は見当たらなかった」
ぼくの後輩と、あの家の主人。二人を殺したのは、別の人間の杖だ。
そのことが分かって、随分とホッとしたことを、覚えている。
ホッとしてしまった自分に、激しく自己嫌悪した。
「そう……それは、良かった」
そう言って、リリーは目を細めた。
ぼくの手を、リリーは優しく撫でる。とても暖かくて、柔らかな手の平だった。
この手で触れられると、ぼくの罪が全て赦されるようで──赦されると勘違いしそうで、心が軋む。
昔ならともかく、今のぼくの暗闇に、リリーを巻き込むことはしちゃいけない。
この胸中を、この真っ黒な感情を、全てリリーにぶちまけたなら。リリーはきっと受け止める。受け止めてくれる。だからこそ、リリーは巻き込めない。
ぼくの罪を悟った上で、こうしているのだとしても。悟られるのと、自ら知らしめるのとじゃ、全然違うのだから。
リリーのことが、好きだった。だからこそ、区切りはつけなければいけない。
「変なこと、言ってもいい? 秋」
急に、リリーはそんなことを尋ねた。
そんなことを改めて聞くなんて。昔から君は、変なことをよく言う子だったじゃないか──そんな軽口は、今は叩けそうになかった。
「……どうしたの、リリー」
「あのね。今なら、セブルスを許せる気がするの」
「…………」
「どうしようもない、ことだけどね」
力無く、リリーは笑った。ぼくも、静かに息を吐く。
「……あぁ、本当に、どうしようもないね」
ぼくらが再び笑い合える未来。
そんなもの──幻想だ。
バタンと扉が開いた大きな音に、ぼくとリリーは飛び上がった。お互い瞬時に手を離す。
「リリー! リリー聞いてくれよ! ……おや、秋もいたのか。いらっしゃい」
「もう、ハリーがビックリするから大声を出さないで」
「はっはっは、それは済まなかった。ただいまハリー、パパでちゅよー! 同じ黒髪でも、パパは秋じゃないからな! パパは僕、ジェームズ・ポッター! そこんとこちゃんと覚えてよね、我が息子よ!」
「まだ歩けもしないハリーに何言ってんだか」
リリーが肩を竦めている。
ジェームズはハリーの元へとスキップ気味に駆け寄ると、ハリーを抱き上げようとして、金色の小さなボールに気付いたようだ。ぶんぶん飛び回るそれを、見事な反射神経でキャッチしては、しげしげと眺めている。
「これは秋の仕業かい? 僕らの息子の扱いに随分と手馴れたようだね」
「そんな恨めしそうな口調で言わないでってば。でも、ハリーはきっと、いいクィディッチ選手になりそうだ」
「そりゃあ僕の息子だからね! というかクィディッチに殆ど興味を示さなかった秋に『いいクィディッチ選手になりそうだ』とか言われたくないね!」
「全然似てないって」
下手な声真似に、苦笑が零れる。その時、ハリーが泣き出した。ジェームズが金のボールを取り上げたことがお気に召さなかったのか。つくづく、ジェームズの息子だ。
「あぁ、ごめんごめん! 君の遊び道具を取り上げるつもりはなかったんだぜ! ほらほらだからどうにか泣き止んでくれよ……」
オロオロとジェームズは、泣くハリーの周囲を右往左往しては助けを求めるようにリリーに視線を投げかける。
仕方ない、とリリーは息を吐いてハリーを抱き上げた。泣き喚くハリーをなだめすかしに入る。
「様ないね、『パパ』」
「うるさいね……君だって親になれば、この気持ちが分かるさ。パパはママには勝てないんだって」
「ぼくが子供を持つ日が来るとは思えないけれど」
戦死率の高さ故か、専門性の高い職だからか、闇祓いの殆どは独身だ。結婚している者なんて、ロングボトム先輩とプルウェット先輩くらい。プルウェット先輩は、既にもう『アリス・ロングボトム』なのだけれど、昔からの癖が抜けずに、未だに旧姓で呼んでしまう。「職場では旧姓で通すから、気にしないで」と笑っていたっけ。
そんな彼女は、今は産休に入っていてここ半年ほど姿を見ていない。いつか、子供とも会ってみたいものだ。 確か、もう産まれたはずだけど。それなら、ハリーと同い年になるのか。
その時暖炉から、ふわりと一通の手紙が飛んできた。ひらりひらりと舞う手紙を、ジェームズはキャッチすると「なんだろう?」と首を傾げながら開く。
目を通すうちに、その顔はだんだんと渋いものとなった。
「……ダンブルドアが来るよ」
「そうなの? なら、ぼくはちょっとお暇しようかな……」
「いや」
ジェームズは手紙から目を離すと、ぼくを見て言った。
「君もいてくれ、秋」
「……何かあったの?」
いつものおちゃらけた彼と、雰囲気が違った。ぼくが尋ねると「詳しいことは、ダンブルドアが話してくれるはずだ」と言葉少なに呟く。
やがて戸口に姿を現したダンブルドアは、ぼくがここに訪れていたことも全て承知していたようだった。
ダンブルドアが語る話を、ぼくらは固唾を飲んで聞いていた。
闇の帝王を打ち破る力を持った者が、七つ目の月が死ぬとき、闇の帝王に三度生き残った両親の元に生まれるという予言が為されたこと。
その者がジェームズとリリーの息子だと、ヴォルデモートが見当をつけたという情報が入ったこと。
「身を隠すのじゃ、ジェームズ、リリー。秋、手伝ってくれんかの?」
「……一つ、伺ってもいいですか?」
ダンブルドアの話に少し不可解な部分があって、ぼくは片手を上げた。
「予言は、シビル・トレローニーから、ダンブルドア、あなたに為されたものなんですよね? どうしてそれをヴォルデモートが知ることが出来たのです?」
「同じことを僕も思っていた。是非とも聞かせて頂きたい。ひょっとすると防音侵入者避け対策を怠った挙句に、闇側の人間に盗み聞きをされたのでは?」
ジェームズがぼくの言葉に、更に苛烈な援護射撃をする。援護射撃でも、射手の力量次第で致命傷を与えることにもなるらしい。ダンブルドアは両手を上げて降参の構えを取った。
「老いぼれが言い訳をさせてもらうなら、わしは予言を受け取りに行ったのではなく、新任の占い学の先生を面接するために向かったのじゃがのう」
「それでもこのご時世にそれを、しかも貴方がそれを怠ったのは怠慢であるとしか言いようがない」
さすがに予言の内容が自ら、そして愛すべき息子に関わり合いがあるものとなれば、ジェームズの怒りようも最もだろう。杜撰だお粗末だと彼の口が放り投げるのをしばらく鑑賞していてもいいが、しかし目の前にいるのは仮にも恩師であった。
「過ぎたことを言っても仕方がないですから、もうあなたの不手際をどうこう言うのは止めましょう。ジェームズもそれで抑えて」
ジェームズはハシバミ色の瞳にありありと『まだ責め足りない』という色を乗せていたが、それでも不承不承黙ってくれた。ぼくはダンブルドアに向き直ると、口を開く。
「で、どこの誰なんですかその死喰い人は。そいつを殲滅します」
「秋、対象者は一人なのだから、殲滅という表現は合わない」
「ならば虐殺します。せめて苦しんで死ね」
「清々しいばかりに表現を選ばなくなったね、秋」
僕は君のそういうところも好きだけどね、と晴れやかな笑顔で言うジェームズ。当然だ。ジェームズとリリー、それにハリー。ぼくの身内である彼らに手を出されたのなら、ぼくが黙っている訳もない。
「虐殺はして欲しくないのぅ。彼はこちらに寝返ることを決意して、スパイの役どころを了承してくれたのじゃ。貴重な手駒を無駄にはしとうない」
ダンブルドアは、そう飄々と言ってのけた。予想はしていた返答に、それでも肩透かしを食らう。
そういう返しをするのなら、ダンブルドアはぼくらにその死喰い人が誰なのかを教えたくはないのだろう。しかしそんな予想を立てた一瞬後、ダンブルドアは彼の名前を口にした。
因縁のある、その名前を。
「二重スパイをしてもらっている彼の名前は、セブルス・スネイプ。君たちもよく知っている名じゃろう」
知っている。
知っている──どころの騒ぎではない。
ジェームズはその名前を聞いた瞬間、物凄い表情をした。殺意を籠めた顔、とでも評すのだろうか。親の仇を見る目、いや、そんなのではまだ生ぬるい。般若のような顔だ。学生時代より凄みを増している、伴侶を持ち子供を持ち、親としての責任が備わったからか。ぼそりと彼の口から「昔叩き潰しておけばよかった」と零れたことは聞き間違いではないだろう。
その後、ジェームズはハッとした表情でぼくとリリーの表情を盗み見た。しかしジェームズがぼくを見るのは一拍遅かったので、表情を取り繕う時間は十分にあった。まぁ、リリーが今どんな表情をしているのかまでは、定かではない。
「……そうですか。彼が」
押し殺している訳でもなく、全く気負わずに平坦な声が出た。怒りを通り越したら、いっそ人は無表情になるというが、それは声にしたって同じことらしい。
「あなたの役に立つというのなら、この戦争の役に立つというのなら、虐殺はしないでおくことにしましょう」
「助かるの、秋」
「ポッター家の方々が身を隠すのを、手伝えばいいんですよね」
「そうじゃ。多少、複雑な手続きになるのは否めんが、彼らの安全のためじゃからの」
「いいですよ」
ぼくは一も二もなく引き受けた。
「彼らの命を守ることは、ぼくの意に反しませんから」
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