「リーマスは、俺がスパイかもしれないって疑ってるんだろ」
シリウスの口からそんな言葉が零れたことに、ぼくは少なからず驚いた。
その言葉に、何と返せば良いのか。黙り込んだぼくに、むしろシリウスは慌てたように両手を振った。
「君が気にすることじゃない──なんて言っても空虚だな。はは、は……」
笑い声は、途中で掻き消えた。ぼくは夜空を見上げる。
ホグワーツは郊外にあるため、星が驚くほど良く見えた。そのことに気付いたのはしかし、そんなホグワーツを卒業してからだった。ロンドンじゃ、霧と公害が酷くて星なんて見えもしない。『騎士団』の任務、それに闇祓いの任務は深夜帯が多く、ぼくも時折空を見上げては、重苦しい雲に息を吐いていた、そんな折。
「乗ってかね?」
ぼくにヘルメットを投げ渡したシリウスは、大きな黒いバイクの前で、にかっと笑った。
「息抜き、しよーぜ」
シリウスのバイクの後ろに乗せられ、空の旅を一時間弱。山の山頂近くの原っぱでヘルメットを取ると、星空に圧倒された。
「どうだ……すげぇだろ」
なんでシリウスが自慢げに言うのだ、とは思ったがしかし、その通りだった。
原っぱに寝転がり、星空を眺める。星が多すぎて、星座線もロクに繋げやしない。天文学は苦手じゃなかったんだけど。
しかし、さすがはシリウスだ。おおいぬ座の一等星の名前を持つだけはある。オリオン座から始まり、冬の大三角、そして冬のダイヤモンド。贅沢な自然プラネタリウムの解説に、ぼくは静かに耳を傾けた。
語り終わって、シリウスは手を下ろすと息を吐いた。白い息がふわりと浮かび、すぐに掻き消える。
「俺は、俺がスパイじゃないって知ってる──けど、人がはたしてどう思うのかまでは、どうこうすることは出来ない。……しかし、リーマスに疑われてるっつーのは、ちとキツイもんがあるよな……お互い様、なんだけど」
ぼくは黙って、シリウスの言葉を聞いていた。
「こないだ、ジェームズと話していてな……スパイうんぬんが紛れてる、って話。ジェームズは言葉少なだったけれど、一言だけはっきりと言ったんだ──『秋だけは、スパイじゃない』と。ジェームズは、根拠のないことは絶対に言わない。ジェームズがそう断定するのなら、君はスパイじゃないんだろう。ホッとすると同時に、何だか羨ましかった。断定してもらえる、君が」
「…………」
「ジェームズは、君を『可哀想な奴』だと言っていた……英雄に祭り上げられた『黒衣の天才』が、哀れだと」
「……それが、ぼくが選んだ道だから」
「はは……そうだな」
しばらく、ぼくらは口を開かずに空を見上げていた。
「……話半分に聞いてくれ。笑い飛ばしてもいい──秋。俺は、リーマスこそがスパイなんじゃないかと考えている」
笑い飛ばせるはずも、なかった。
シリウスは、ぼくに同意や意見を求めているわけではないことは、分かっていた。ただ自分の考えを整理するためだけに、ぼくに話して聞かせているのだ。
「……理由を、聞いても?」
リーマスにしたのと全く同じ質問を、ぼくはシリウスにもした。
「……リーマスは、本心を隠すのが上手いから」
少し予想外の言葉が返ってきて、ぼくは僅かに目を瞠った。
「長々と、学生の時からずっと一緒だけどさ……リーマスの考えてることは、今でもそんなに読めないんだ。誰かに隠し立てをすることは、リーマスにとっては、息をすることと同じだから──人狼だということを、誰もに隠して生きてきたように。だからこそ──ここまで露骨にスパイがいると分かっていても、断定が出来ないほど身を隠すことが上手い奴は、リーマスが一番適任なんじゃないかって」
「……なるほど」
そういう、理屈なのか。
「……リーマスと板挟みになるようなことを言って、悪かった」
「いや……ぼくはただ、聞いているだけだから。どっちつかずに……誰も疑いたくないから、なんてそんな綺麗な言葉で、その実、ただ考えることを放棄した、思考を停止させちゃった、そんなどうしようもない奴だから……」
本当に、我ながらどうしようもない。
どうしようもない、クズだ。
「確かに君は、優柔不断なとこがあるからな。……でも」
「でも?」
シリウスは、灰色の瞳に星を映しながら、僅かに微笑んだ。
「その、どっちつかずの決め切れなさが……きっと、レギュラスが最後に君の元に向かった所以、なんだと思うぞ」
「……優柔不断が評価されたってこと?」
「さぁて、どうだろう」
よく分からなくて、眉を寄せた。シリウスは喉の奥でくつくつと笑う。
「グリフィンドールもスリザリンも、どちらも黒は黒、白は白だとしか見られない奴らだ──でもさ、君なら。グリフィンドールでもスリザリンでもない、君ならば。黒と白の間の、何千、何万とある色から、ちょうどいい色を見つけることが出来るんだと、俺はそう思いたいよ」
◇ ◆ ◇
クリスマス休暇は、いつものように『隱れ穴』、ウィーズリー家で過ごすことになっている。モリーおばさんのお手伝いをちゃっちゃと済ませた後、ぼくはフレッドとジョージの部屋で一人、リドルが『デウス・エクス・マキナ』と称したあの本の解読に勤しんでいた。
学校が始まれば、また依頼にと校内を駆け回ることは間違いないのだ。なら、時間があるうちに進められるだけ進めておくべきだ。そうだろう?
「何やってんの、アキ?」
「うぉあ!?」
いきなり後ろから肩を叩かれ、飛び上がらんばかりに驚いた。
解読作業に集中していて、全く気がつかなかった……。
「リーマス! 久しぶり」
「うん、久しぶりだね、アキ」
そう言ってリーマスはにっこりと微笑んだ後、ぼくの手元を覗き込み、机の上に散らばる紙の中から一枚を引き抜いた。
「なんだい、これ? 何をしているの?」
「解読作業さ。幣原の……幣原秋の父親が書き記したものでね、見ての通り、いろんな言語がごちゃ混ぜの闇鍋状態なんだ」
「なーるほど。これを解読するのは至難の技だね」
僅かに本を浮かしてリーマスに見せると、リーマスは頷きながらページに目を走らせた。
ふむ、と僅かに首を傾げると、柔らかな口調で「手伝おうか?」と口にする。
「いや、いいよ。君だって忙しいでしょ。ちゃんと寝ているかい?」
リーマスの頬に手を伸ばし、目の下に刻まれた隈を親指で軽くなぞる。ハッとしたように、リーマスの瞳が揺れた。
「……大丈夫、だよ」
「昔はもう少し嘘が得意だったのに、随分と下手になったものだ。それだけ今の君が追い詰められていて、取り繕うことが出来なくなっていることに気付きなよ」
そっと手を滑らせ、やがてぷに、とリーマスのほっぺを人差し指で突いた。
やめてくれよ、とリーマスは眉を顰めながらも苦笑し、ぼくの手首を掴む。そして静かに顔を伏せた。
「追い詰められているのか、僕は」
「……そうだね、そう見える」
白髪が随分と混じった髪を見ながら、ぼくは呟いた。リーマスは大きく息を吐く。
「……取り繕って無理をしている君を責める言葉を、ぼくは持っていないんだ」
リーマスはゆるりと顔を上げた。ぼくは薄っすらと微笑む。
「『生ける屍の水薬』を睡眠導入として常飲する幣原を、ぼくはずっと見てきた。眠れない夜を恐れるように、薬で無理矢理眠りにつくあいつを、ぼくはずっと見てきた。眠れないのなら、何に縋ったって構わない。君が苦しみから逃れられないというのなら、ぼくは何だって手を貸そう。どんな薬も作ってあげるよ、どんな魔法でも掛けてあげよう。夢でいいのなら、君が望むものをなんでもあげる。──でも、君はそれを望まない。そうでしょう? リーマス」
君の苦しみを完全に共有することは、ぼくには出来ない。
する必要も、ないのだろう。
ぼくと君は、違う人間なのだから。
「……君は、どうして」
ぽつりと、リーマスは呟いた。
「どうして君は────じゃないんだ」
囁かれた言葉に。
息を、呑んだ。
リーマスの瞳が、痛みを堪えるかのようにぎゅっと細まる。手加減なしの力で、手首を掴まれた。強い光が、双眸に灯る。怒り、憎しみ、執着、苦しみ、様々な強い感情が入り混じった光だと、思った。
「…………っ」
皮膚がぞくりと粟立つ。
息を止めて、ぼくはその光をただただ見返していた。
「……すまないね、アキ。君と話して、少し心が軽くなった気がするよ」
強い光を瞳の奥の奥に押し込めて、リーマスは微笑んだ。
ぼくの手首を離すと「そろそろ夕食だ、君も降りておいで」と、普段通りの口調でにこやかに言い、部屋を出て行く。
残されたぼくは、手首を擦りながらじっとリーマスが出ていった扉を見つめていた。
「──そんなこと」
思ってもいない癖に。
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