「結局、アリスって名前になったんだ。男の子なのに」
「うるさいよ……いいじゃないか、これはこれで、しっくり来ちゃってんだ。何よりも、うちの奥さんが変える気がない」
リィフは少しヤケになったように、カップに入った紅茶を飲み干した。
たまの休みが取れた、四月末。ぼくはリィフの家にお邪魔していた。八ヶ月を過ぎたという、リィフの息子を見に来ないかと誘われたのが発端だ。
しかしまさか……
「『アリス』なんてねぇ……」
将来やさぐれたりしないだろうか。それだけが気がかりだ。
しかしまぁ、今は「アリス」という名が似合うくらい可愛らしい盛りなのだが。今もほら、ぼくの呟きにも『名前が呼ばれた?』と、大きな瞳を瞬かせて、はいはいでぼくの足元へと歩み寄ってきた。うぅん、可愛い。目鼻立ちはリィフによく似て整った顔をしているし、これは将来格好良くなるぞ。
サラサラの金髪に、リィフより少し濃い色合いの碧の瞳。目の色は、お母さんから受け継いだのかな。綺麗な海、深海の色だ。軽く頭を撫でると、何だか妙な顔をして、身体の向きを変えてよそへとはいはいして行ってしまった。
「まー、うちの奥さんがそう言うんだから、仕方ないよねぇ」
「デレデレだなぁ」
肩を竦めた。
リィフは優しくはあったけど、誰にでも平等に厳しかった。それが彼女──というか、お嫁さんか──相手だと、何でも許せてしまうようだ。恋は人を変えるというが、信じられないな。好きな女の子のやることだったら何でも許せちゃう、なんて──来世のぼくでも考えられない。
「さぁ、それはどうだろう」
「どういう意味だ」
「案外来世の君なら、彼女にデレデレかもしれないよ」
「あり得ないな、それ、本当にぼく?」
信じられない仮定の話だった。
「しっかし……一体いつまで、この戦争が続くんだか」
リィフは目を細め、物憂げに呟いた。
『中立不可侵』フィスナー家当主、リィフ・フィスナー。彼がこの戦争の最中、陰で陽で動き回っていることをぼくは知っている。国の働きを止めてしまわぬよう、走り回っていることも。『騎士団』と『死喰い人』間の調整役なんて、ぼくなら頼まれたってやりたくない仕事だ。
「……いつまで、だろうね」
小さな声でそう答えた。
死喰い人側はよく分からないが、ぼくら『騎士団』側は、少なくとも相当に疲弊していた。人手不足が困窮している。戦力にならない者を入れたとしても、ものの足しにはならないし──先行きが暗いのは否めなかった。
「騎士団側も死喰い人側も、もう少し柔軟になればいいんだ──落とし所を見つけられれば、少しは前進するのに」
「そういうわけには……いかないんだ」
反論した。ヴォルデモートが目指す世界など、受け入れられるはずがない。あちら側との折り合いなんて付けられない。こちらから見たら、明らかに間違っているのはあちら側なのだ。
「じゃあどうする。向こうが全滅するまでやるのか?」
その言葉に、思わず詰まった。
何も、返せなかった。
「得られるものなんて何もない。殲滅戦の果てに残るものなんて、疲弊した兵士と荒れ果てた焦土だけだ。くだらない」
くだらない、と──リィフは吐き捨てた。
「君だってレイブンクロー生だったんだ、見えるだろ、分かるだろ。戦争は悪いことばかりじゃない。技術を促進させ文明を発達させる面があることは、誰にも否定出来ない。……だけど、この戦争は何だ? 一体何が得られるって言うんだ? どうすれば、この戦争は終わるって言うんだ?」
険しい瞳で、リィフはぼくを見た。
「一体何のために、君は戦っているんだ?」
ぼくはその言葉を受け、静かに目を閉じた。両手の指を合わせる。
「ぼくが戦う理由はね」
目を開けた。にっこりと微笑む。
「復讐のためだよ」
ぼくの声に、リィフは小さく息を呑んだ。
「たとえこの戦争に、何も意味がなくっても。何も意義がなくっても。得るものがあるから、戦争をしているんじゃないんだ」
まっすぐに、リィフの目を見てぼくは言う。
「君の言うことはとてもよく分かるよ。誰もがこんな世の中間違ってるって思ってる。でも今更止められない。ぼくに歩みを止めることは許されていない。君の言葉は立派だ。立派な──綺麗事だ」
自然、笑みを浮かべていた。
「リィフ。ぼくは君とは違う。ぼくの手は、誰かを守るようには出来ていない。ぼくは──誰も守れない」
ぼくは、ヒーローにはなれない。
ヒーローだったら──きっとぼくはあの時、レギュラスの手を掴めたはずだ。セブルスが死喰い人になるのを、説得でもなんでもして、食い止められたはずだ。両親が死ぬことは、なかったはずだ。
この手は、人を傷つけるしか、能がない。
「君だって一度、ぼくのせいで怪我をしただろう?」
一年の頃、魔力を暴走させてしまった折。リィフはしばらく考えて、思い出したようだ。「そんな昔のことを……」と咎める口調で呟く。
「何年経とうが、忘れられるものじゃないよ。忘れてはいけないことなんだ。ぼくは人を傷付けることしか出来ない。新しい命を育める、君たちのような人間じゃない」
この手は、幾人の血に塗れているし。
この杖は、幾許の命を奪っている。
変えられない。過ぎた時間は、戻らない。
誰も裁いてくれないぼくの罪は、赦されることがない。
「守れないならせめて、大切なものがまた壊されてしまわないように。壊されるよりも先に、壊す相手を殺すんだ。これが、幸せな未来に繋がるって信じて」
「……本当に? 本当にそれが、幸せな未来に繋がっていると信じられるの? ……秋、君が言う『幸せな未来』に、君はいるの?」
答えず、ぼくは静かに笑った。
◇ ◆ ◇
クリスマスの昼食時、思いも寄らぬ人物が『隠れ穴』を訪れた。今年新しく英国魔法省の魔法大臣となったルーファス・スクリムジョールと、ウィーズリー家三男、パーシー・ウィーズリーだ。
庭の案内にハリーを指名したスクリムジョールに、残っていたスープを一息で飲み干すと、ぼくも立ち上がった。
「ぼくも行くよ」
リーマスが、ハリーが、そしてスクリムジョールが、三者三様の視線をぼくに向ける。
「オッケー、アキ、行こうか」
ハリーが微笑んで、ぼくに手を差し伸べた。
三人で、庭をぐるりと巡った。スクリムジョールが僅かに足を引きずっていることに、ぼくは気がつく。彼は元闇祓い、それも局長の椅子についていた人だ。会話したことはないが、幣原とも面識がある。幣原のことも覚えているはずだ。
「随分前から、ハリー……君に会いたかった。知っていたかね?」
「いいえ」
ハリーは険しい表情のまま首を振った。
「実はそうなのだよ。しかし、ダンブルドアが君をしっかり保護していてね。勿論当然だ。君はこれまで色々な目に遭ってきたし、特に魔法省での出来事の後、だ」
そこでスクリムジョールはハリーをちらりと見たが、ハリーが口を開く様子がないので、話を続けた。
「大臣職に就いて以来ずっと、君と話をする機会を望んでいたのだが、ダンブルドアがそれを妨げていた。様々な噂が飛び交っている……当然、こういう話には尾ひれがつくものだということは知っている。予言の囁きだとか、君が『選ばれし者』だとか。……ダンブルドアはこういうことについて、君と話し合ったのだろうね?」
ハリーは躊躇うようにぼくに目を遣ったが、やがて腹が決まったらしい。はっきりとした口調で言った。
「えぇ、話し合いました」
「……そうか。それで、ハリー、ダンブルドアは君に何を話したのかね?」
「すみませんが、それは二人だけの秘密です……アキに聞いても無駄ですよ」
牽制するかのようにそんな言葉を放ったハリーに、スクリムジョールも快活に返事をした。
「もちろん、秘密なら君に明かして欲しいとは思わないよ。それにいずれにせよ、君が『選ばれし者』であろうとなかろうと、大した問題ではない」
ハリーは訝しげに目を細めた。答えを返すように、スクリムジョールは笑ってみせる。
「勿論君にとっては大した問題だろう。しかし魔法省全体にとっては、全て認識の問題なのだよ。重要なのは、人々が何を信じるかだ。人々は、君が本当に『選ばれし者』だと信じている──君こそが英雄だと思っている。それはその通りだ。一体君は何度『名前を言ってはいけないあの人』と対決しただろう?
要するに君は多くの人にとって希望の象徴なのだ。『名前を言ってはいけないあの人』を破滅させることが出来るかもしれない誰かが、そう運命づけられているかもしれない誰かがいるということが、人々を元気づける。君が一旦そのことに気付けば、魔法省と協力して人々の気持ちを高揚させることが、君の、そう、ほとんど義務だと考えるようになるだろう、私はそう思わざるを得ない」
ハリーは随分と長く黙り込んでいた。
次に口を開いたハリーは、激情を理性で押し込む声音だった。
「それではあなたは、僕に『偶像の英雄になれ』と言いたいんですね──幣原秋のように」
ぴくん、と、スクリムジョールの肩が動いた。ハリーは口元を緩めたが、目には激しい色が渦巻いていた。
「残念です、闇祓いの局長であったと聞いたから、少しは期待していたんですが。幣原秋のことから何も学んでいないようですね。バーティミウス・クラウチと全く同じだ、いつもやり方を間違える。一人矢面に突き出して、魔法省はちゃんと仕事をしていますと言い張って、使えなくなったら捨てるんですよね? 幣原秋をそうしたように、僕のことも。
……馬鹿にするのもいい加減にしてくださいよ。今あなた方がやるべきことは、こうして僕を偶像の英雄に仕立て上げることでも、無関係な人をアズカバンに送ることでもない。本当の死喰い人こそを監獄へぶち込み、きちんとした偏りのない正しい情報を流し、たとえ魔法省がヴォルデモートから攻撃を受けたとしても、それに耐え得るだけの基盤を作ることだ。そうじゃないんですか? アキ、僕は何か間違っているかい?」
燃える炎を瞳に宿し、ハリーはぼくに同意を求めた。
「いいや、何も間違っていない」
ハリーの成長に、思わず目を細めていた。そこまでもう、自分の考えを組み立てることが出来るようになっていたのか。
「……大臣。ぼくはね、幣原秋を『黒衣の天才』として打ち出したあの策、言うほどの悪手じゃなかったと、そう思うんですよ」
そんなことをいきなり口にしたぼくに、スクリムジョールは不審な眼差しを送った。
ぼくは静かに微笑む。
「幣原秋一人が抱え込むことで、他の皆の負担が軽くなるのなら、あいつは喜んでその身を差し出します。あの時代に、あいつはぴったりの人材だった、英雄視するためのね。
……でも、ハリーは幣原秋とは違う。それこそ悪手を打ちましたね、大臣」
「……君は」
「申し遅れました、アキ・ポッターです。それなりに、存じていらっしゃることでしょう」
目をしっかと開け、相対する。
「ハリーは、ハリーだ。誰の道具にもさせやしない。ハリーに手を出すというのなら」
不敵に、微笑んだ。
「全力でもって、お相手致しましょう」
「……なるほど、なるほど」
スクリムジョールはしばらくぼくの目を見つめていたが、やがて目を離した。
「ダンブルドアは何を企んでいる? ホグワーツを留守にして、どこに出かけている?」
「知りません」
「知っていても私には言わないだろう。違うかね?」
「えぇ、言わないでしょうね」
ハリーも静かに答える。
「ダンブルドアと幣原秋が、君を上手く仕込んだということがはっきりと分かった。骨の髄まで忠実なようだ、ハリー・ポッター」
「えぇ、その通りです」
一陣の風が、ぼくらの間を吹き抜けた。こちらとあちら、明確に区切りをつけるかのような風だった。
ハリーがスクリムジョールに背を向け、歩き出す。
新しい魔法大臣から目を切り、ぼくもハリーの後ろに続いた。
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