届いたハロウィーンのメッセージカードに、目を瞬かせた。ジェームズとリリーからの、ハロウィーンパーティーの招待状。
「……なかなか、ねぇ」
生憎と、仕事漬けの毎日だった。徒歩三十秒の自宅に帰る暇もない生活。彼女なんて作る暇もない──作る気も全くないけれど。
行けない旨をしたため、手紙を送った。
1981年の、十月三十日のことだった。
今頃、ポッター家では楽しくやっているだろうか。騎士団の仕事がなかったら、シリウスとリーマスは絶対いるだろうな、ピーターはどうだろう。
リリーの手料理に舌鼓を打って、可愛い盛りのハリーに大の大人がデレデレになって……。
そんなことを始めは考えていたが、仕事に取り掛かるとあっという間にそんな雑念は飛んでいってしまった。机の上にある書類の山を崩すことに専念する。
ここ数日任務続きで外に出ていたから、溜まってしまって仕方がない。任務の報告書、これからの任務資料、それに大量の始末書。
闇祓いにいくら「許されざる呪文」の行使が許可されようと、誰も無尽蔵に使っていいはずがない。使用許諾をしかるべき場所にいちいち取らなきゃいけないのだ。少々煩わしいが、これもお役所仕事、踏まなければならない手続きなのだろう。
日時と場所、対象者。淡々と綴られる人物名に、感じる心は既に麻痺している。
魔法省闇祓い局の中は、平和なものだった。
漂うコーヒーの香り。少し遠くで、ラジオが今日のニュースを流している。
机の数に比して、今いる人の数は三割ほど。省内便の紙飛行機も、今日は普段より数が少ない。
その中で、闇祓い訓練生での同期、マーク・ヴィッガーの姿を見つけて、少しだけ嬉しくなった。見ていると、向こうもこちらに気付いたようだ。やれやれと大袈裟に頭を振っている。彼も、変わらないな。
ザワザワともうるさくなく、絶好の書類片付け日和だった。
昼過ぎに、アリス・プルウェット先輩──じゃなかった、アリス・ロングボトム先輩が、子供を連れて局に顔を出してくれた。キョロキョロと辺りを見回していたが、ぼくを見るとパァッと顔を明るくする。
「幣原くん!」
「お久しぶりです、プルウェット先輩──じゃ、なくって」
頭では分かっているのに、口から零れるのはどうしても旧姓の方だった。
彼女はくすくすと笑う。
「別にいいよ。全く、でも一度くらいは顔を見せてくれてもいいんじゃない?」
「あ……はは」
何と答えていいか分からず、苦笑いで返した。
先輩との距離の取り方は、苦手なのだ。当然ながら、後輩とも。
今も、ぼくと言葉を交わしているプルウェット先輩を、局にいる人は遠巻きに眺めるだけだ。まぁいい、遠巻きにされることには慣れている。
「エリスくんは、元気?」
「元気──なんじゃないですかね」
利き腕を怪我していたことを思い出したが、しかしそんなことは言う必要のないことだろう。
ぼく以外にも何人か仲が良かった人と言葉を交わして、プルウェット先輩は息子のネビル君を連れて帰って行った。
書類を片付け終わって、ぐ、と大きく伸びをした。時間を確認すると、もう夜の九時を過ぎている。
最終確認の印を頂くものの仕分けをしていたら、人影に気がついた。
顔を上げると、ヴィッガーが気の無い素振りでぼくを見下ろしていた。
「そろそろ終わりですか? 幣原」
「うん。君も?」
ヴィッガーはこくりと頷く。
「なら、ご飯でも食べに行こうか。久しぶりだね……」
そう言いつつ、立ち上がった瞬間。
ゾクリと背筋に悪寒が走った。
思わず目を見開く。
動きを止めたぼくに、ヴィッガーは小さく首を傾げた。
「どうしたんです?」
答えず、慌てて首元のボタンを開けると、水晶を引っ張り出した。
透明な水晶の内側に、大きくヒビが入っている。ヒビ割れた部分から、黒いものがジワジワと侵食していき、透明だった水晶はやがて黒に変色して行った。
「……ごめん、ヴィッガー」
「え? ……ちょっと、幣原!」
説明している時間も、惜しかった。
その場から勢いよく駆け出す。机の狭い隙間を縫って、闇祓い局を飛び出した。
エレベーターに辿り着くと、ボタンを連打する。どうしてこんな時ばかり、エレベーターは遅いんだ。やっと来たエレベーターに駆け込むと、ぼくを見て人々は驚いた顔をして、僅かにぼくから距離を取った。そんないつものことも、今日は煩わしい。
エントランスを、人の目なんて構ってられない、全力で走った。
何事かとこちらを振り返った人々が、小さな悲鳴を上げてぼくの前から引いていく。
魔法省から出てすぐさま「姿くらまし」した。風景が溶け、再構築される。
閑静な住宅が立ち並ぶ、ゴドリックの谷。
ジェームズとリリーとハリーが住む家は、大きく半分が崩れていた。
ぼくの、このぼくの保護呪文を打ち破れる者なんて──そんな。
そんな人物、一人しかいない。
玄関の扉を開けた。鍵は、掛かっていなかった。
中の電気は点いていたが、物音一つしなかった。
入ってすぐに、ジェームズが倒れていた。
「……ジェームズ」
拳を強く、握り締める。
死体なんて、見慣れていた、はずなのに。
敵の死体も、味方の死体も。初めて見たのは、両親の死体だ。
記憶に残る両親の死に顔は安らかだったが、ジェームズの見開かれた瞳には、強い強い驚愕が映っていた。
ジェームズから目を離して、周囲を見回した。一階を一通り見て回るが、リリーの姿は見当たらない。となると、二階か。
階段を踏みしめ、二階に向かう。扉に手を掛ける自分の手が震えているのを、どこか人ごとのようにも感じていた。
そして、ぼくは対面する。
「あぁ……」
ベビーベッドのすぐ脇に倒れている、赤毛の女性。
そっと手を伸ばした。
「リリー……」
顔に掛かる髪を、そっと払う。恐怖に慄く表情が露わになって、ぼくは思わず顔を歪めた。
二度と、彼女は目を開けない。
彼女の深い緑の瞳に射竦められることは、決してない。
『ねぇ、秋?』
もうぼくの名前を呼ぶことも。
ちょっと得意げに笑みを浮かべることも。
ぼくの手を握ることも、ない。
「……っ、う……」
嗚咽を、奥歯を食い縛ることで噛み殺す。
息を止め、身体を折り曲げた。
小さな衝撃を頭に感じて、ぼくはゆるゆると顔を上げた。
そこで、ハリーと目が合った。
思わず青ざめて、声を漏らす。
「どう、して……」
どうして、なんで。
どうして、ハリーが生きている。
ジェームズもリリーも死んでしまったのに、どうして、一体、どうして。
「あー?」
頭に感じた衝撃は、ハリーの手のようだった。ベビーベッドの柵の隙間から手を伸ばしたハリーが、ぼくの頭に触れたのだ。
ハリーは、さっき起きた惨状など何も知らないまま、笑顔を浮かべた。
リリーと全く同じ瞳で、緑色の瞳で、 ジェームズとそっくりの顔立ちで、純粋無垢な笑顔をぼくに向ける。
幼児ゆえの、状況なんて理解しようもないからこそ、そして見知ったぼくの存在を知覚し、項垂れたぼくを励まそうとしたのだと──落ち着いた後のぼくなら、きっと分かった。
でもあの当時のぼくは、あの惨状の中なお無邪気に微笑むハリーが、底知れぬほど怖く、恐ろしく感じたのだった。
「どうして……どうして! どうして、お前が生きているんだ!!」
妙に覚めた脳内が、恐ろしい妄想を弾き出す。
「ジェームズも、リリーも死んだのに、どうして……お前だけ、生き残っているんだ!?」
きっとそれは、ぼくが死の呪文を日常的に操ってきたからこその言葉だったのだろう。
ハリーに、死の呪文を受けてなお生き残っているハリーに、底知れぬ恐ろしさを感じた。
死の呪文に、反対呪文は存在しない。それなのに、こうして生き残っているということは、ぼくの知らない闇の魔術が働いたのではないか。
この小さな少年こそが、災厄なのではないか。
この辺りは、自分の行動であるはずなのに、なんだか現実味が薄く、ふわふわとしていた。
ぼくの怒号を受けて、ハリーの表情が驚いたものに変わると、やがてくしゃりと歪んだ。大きな声で泣き出す。
「やめてくれ……やめてくれ! 泣きたいのはぼくの方だ!」
現実を受け止め切れなくて、頭を抱えた。赤ん坊の泣き声を聞きたくなくて、両手で耳を塞ぐ。目も閉じた。暗闇が視界を支配する。
「なんで……なんでお前が、ハリー、お前が泣くんだよ……!! リリーとジェームズが死んだのはっ、お前のせいじゃないか!!!!」
元はと言えば、あの予言のせいだ。
あの、ハリーに関する予言さえなかったら。
ハリーさえ、生まれていなければ。
リリーとジェームズは、死ななかった。
リリートジェームズハ、シナナカッタ?
「やめろ……やめろ!!」
狂った空間だった。
いや、狂っているのはぼくだけだ。邪気の欠片もない赤ん坊に喚き散らすぼくだけが、絶望的に狂っている。
「ごめん……ごめんなさい、ごめんなさい……」
ハリーは何も悪くない。
ハリーは何も悪くない。
ハリーは何も悪くない。
いつだって、いつだって、間違っているのはぼくの方。
そんなことに、いつも、間違ってから、気がつくんだ。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
守れなかった。
今回もぼくは、何も守れなかった。
大切な人、だったのに。
とても、大切な人だったのに。
大切な人さえ、守れない。
ぼくは誰一人として、救うことは出来ない。
こんな力を持っているのに、殺すか壊すかしか能がない。
ぼくの譫言のような懺悔と、ハリーの火が付いたような泣き声。二人の生体、二人の死体で満ちた、崩れた家。
狂気で満ちた、この空間。
いっそ、狂ってしまえればいいのに。
狂ってしまえたなら、楽なのに。
完全に狂ってしまえれば、ただの狂人と化して永遠ここで罪もないハリーに向かって喚いていられれば、それはそれで幸せだったのに。
数少ないながらも残った理性が、現状を無慈悲に伝えてくる。いつまでも膝をついている場合じゃないんだと、ヒタヒタと責め立ててくる。
目を伏せるな、幣原秋。
狂ったらそこで終わりだ。
立ち止まったら、ぼくはそこから一歩たりとも歩き出せなくなる。
今まで何人、顧みず進んできた。
今まで何人も、殺された人を見て、殺した人を見てきたんだ。今更二人くらい増えたって、どうってことあるものか。
心を殺せ。
お前の得意なことだろう?
お前がやらなければいけないことに、お前の私的な感情は不必要だ。
「……そう、だよな」
よろよろと立ち上がった。
「『黒衣の天才』は、立ち止まったらいけないんだ」
ぼくはまだ、求められている。
ぼくはまだ、世界に存在を認められている。
「エクスペクト・パトローナム」
目を瞑った。
幸せなことを思い浮かべる? 今までに幸せなことなんて、一つだってあっただろうか。それでも、ぼくのこの無茶苦茶な魔力は、大抵のぼくの願いは叶えてくれるんだ。
リリーとジェームズの死と、ハリーの生の伝言を乗せた銀の霞は、崩れた家の隙間から消えていった。『騎士団』に向け送ったものだ。いずれ何らかのアクションが来るだろう──もっとも、ぼくがポッター家の異常に感づいたのだから、同じ術者であるダンブルドアが気付いていてもおかしくない。ならばあの、異様なほどに手を打つのが早いあの人は、もう既に動いているかもしれない。
どうしてハリーが生きているのか。ヴォルデモートはハリーをこそ殺しに来たのに、どうしてこの場にヴォルデモートはいないのか。泣き叫ぶハリーに申し訳ないと思いながらも『失神』させると、彼の小さな身体を検分する。
呪文の痕跡は、すぐさま見つかった。額の稲妻型の傷。となると、何らかの原因で死の呪文が跳ね返った、と捉えるべきか。
死の呪文が跳ね返ったならば、ヴォルデモートは死んだか──いや、死んだのなら死体がないのはおかしい。なら、きっと儚い生にしがみついているだけの、霊魂に過ぎないのだろう。
戦争は、終わったのだ。
あまりにも、呆気なく。
「……あれ?」
すぐに、妙なことに気がついた。ぼくが渡した水晶のお守り、あれがない。
どうして、何で?
リリーの首元をまさぐるも、やっぱりというか、あのお守りは見つからなかった。リリーがまさか、ぼくがあれほど念を押したお守りを手放すとは思えない。
「……あ」
気付いた。やっと、というべきか、案外早かった、と思うべきか。
この家の守護呪文、中でももっとも力が強い『忠誠の呪文』の存在に。
目を見開いて、虚空を見つめた。
「……まさか、裏切ったのか」
シリウス。
君が?
──まさか。
「嘘だろ……?」
でも、そうでないと。ならば──シリウスならば。
今日はここで、ハロウィーンパーティがあっていた。きっとシリウスは、ここに来たのだろう。その際、言葉巧みにポッター家の三人から水晶のお守りを回収したのだ、恐らく。三人ともか、は分からない──でも恐らく、リリーとハリーの水晶は、そこで取り上げた。
きっと多分「秋が、このお守りの不備に気がついたんだ。俺が渡しておいてやるよ」とかなんとか言って──
「……あぁ……」
なら。
捕まえないといけない。
シリウス・ブラックを──あの裏切り者を。
ぼくはゆっくりとリリーの前に膝をつくと、動かない彼女を引き寄せた。
「……リリー」
激しい感情が、渦を巻く。後悔の念と、自責の念。
こんなぼくが──どうしようもないぼくが願うこともお粗末だけれど。
でもぼくは、君に。
生きていて、欲しかった。
「…………」
涙が零れるかと思ったが、予想外にも、眼球は潤うどころか乾いていた。頭ほどには、心は事実を受け止め切れていないらしい。
大好きだった。
本当に、心から、幸せになって欲しい人だった。
この世で一番、大切にしたい人だった。
それなのに。
「……なんとも、はぁ……秋! どこだ、秋!」
「……ハグリッド」
大きな物音と共に、ハグリッドの声が聞こえた。『不死鳥の騎士団』団員で、ホグワーツでは鍵と領地の番人をしている、ルビウス・ハグリッド。彼が、来たのか。
「ここにおったか……ここは危ねぇ、いつ崩れるか分からん」
そうだろう。ハグリッドが二階に来てからというもの、不吉な音が建物から響いているのだ。元々半壊して脆かったものが、重たいものを載せていよいよ軋み出したか。
「一体何が起こったんだ?」
「……ぼくにもよく分からないけれど、ヴォルデモートがジェームズとリリーを襲ったんだ。ハリーも殺そうとしたのだろうけど、何故か呪いが跳ね返ってハリーには効かなかった。今のヴォルデモートは、影か霞のような存在だろう」
強いて淡々と言葉を紡いだ。ぼくの「ヴォルデモート」という言葉に、ハグリッドはギクリとする。ついでに右手が扉に当たり、蝶番ごと吹き飛んでいった。
「ちゅーと、何だ……つまり『例のあの人』は敗れたと?」
「……そういうことに、なるのだろうね」
リリーを元通り床に横たえると、腰を上げる。
「ダンブルドア先生の元に、俺がハリーを連れていく……お前さんは、何だ、これから忙しいだろう?」
「あぁ……ハリーのこと、よろしく頼んでも?」
「任せとけ」
ハグリッドはそう胸を張りながらも、大きく鼻を啜った。真っ黒な瞳はキラキラと潤んでいて、あぁ、きっとこの人は、人の死を素直に悼むことが出来る人なんだなぁと感じた。
悼むことは、もう一踏ん張りしてからだ。
麗しい友情だと思っていたものを、粉々に壊してからだ。
壊すことしか知らないぼくならば、きっと簡単なことだろう。
「秋!」
『姿くらまし』しようと、崩れ掛けた瓦礫を乗り越え夜風に吹かれたぼくを、ハグリッドが呼び止めた。振り返る。
「妙なこと、考えるんじゃないぞ!?」
その言葉に、思わず苦笑した。
妙なことなんて、考える訳がないだろう。
ぼくにとって『死にたい』と願う気持ちは、妙なことでも気の迷いでもなんでもない、極めて普通のことだと言うのに。
いいねを押すと一言あとがきが読めます