エリス先輩に散々「大丈夫だ」と言ったのだが、大丈夫ではなかったようだ。
 気つけ呪文に閉心術、その他ありとあらゆる精神感応系統の呪文を自らに掛けてはいたのだが、さすがにこのちっぽけな肉体では、精神的疲労と肉体的疲労のダブルパンチを受けると軽々と沈んでしまうらしい。
 無理矢理にでも帰宅を命じられ、良かった、と思うべきか。
 玄関の扉を閉めたそこに座り込み眠っていた――というか、意識を落としていたため、最悪な目覚めであった。
 全く寝た気もしないし、一切合切疲れは取れていないし、呪文を重ね掛けしていた副作用か頭は無茶苦茶ガンガンするし吐き気と眩暈は律儀にも交互に間断なくやってくる。
 いっそのこと、死んでしまった方が楽なのではないかとまで思った。
 よろよろと洗面所まで這うように進むと、顔を洗う。
 鏡を見て、我ながら酷い顔だ、と笑った。鏡の中の人物は、笑みともつかぬ醜悪な歪んだ表情を虚ろに浮かべた。
 大きく息を吐き、洗面台に両手を掛けたまま、崩れるように床に膝をついた。頭を伏せ、目を瞑る。
 もう、無理だ。
 そう一言、呟いた。
 一切合切、もう無理だ。
 もう、何も背負いたくない。
 もう、何もしたくない。
 誰も殺したくないし、誰かが殺される様も見たくない。
『黒衣の天才』なんてクソな渾名で呼ばれたくない。
 闇祓いになって、初めて今、立ち止まった。
 一度立ち止まってしまうと、次再起動するときには多大なエネルギーを必要とする。
 今のぼくにそんなエネルギーがあるかと問われれば、答えよう、否だ。
 エネルギー切れ。
 ぼくはさ、十分頑張ったよ。
 頑張った結果が――このザマだよ。
 ならもう、頑張ってもこんなどうしようもない未来しか訪れないというのなら、さぁ。
 もう頑張らなくても、いいだろう? 
「…………ダメ、だ」
 まだ、数多くの死喰い人はのうのうと生き延びている。主人を失って動揺しているだろうが、そこを畳み掛けておかないと、彼らは懲りない。
 時代は変わった。
 ヴォルデモートは、闇の陣営は、負けた。
 不死鳥の騎士団や闇祓い、ぼくらが勝ったのだ。
 敗残兵が余計なことをする前に、一掃しておかないと。
 それはきっと、ぼくにしか出来ないことだ――まともな人の手を煩わせちゃいけないことだ。
 まともな人は、きっとこれからの未来を作るのに必要な人たちだから。
「……あー……」
 頭が全然回っていない。
 とりあえず、まだぼくは生きていなきゃいけないということは分かった。それだけでも、収穫だ。さもないと、風呂場で突発的に溺死しようとしていたかもしれない。
 今の自分が何をしでかすのか、正直予想が付かない。しかも、色んな気力が根こそぎになっているから、きっとぼくが何しようが、意識はぼんやりと眺めているだけなのだ。
 それは、さすがに頂けない。
 ガン、と、強く頭を洗面所の流しに打ち付けた。大きな音がした割に、そうそう痛みは感じない。
 とりあえず、寝よう。見る夢は、ほとんど確実に悪夢の類だろうけど。
 悪夢を見たくないのなら、依存気味の薬に手を出して、無理矢理にでも眠ろう。
 明日も、ぼくは生きていく。
 大切な人が随分と減った世界で、のうのうと。
 
  ◇  ◆  ◇
 
「ロンが愛の妙薬を飲んだ?」
 三月一日、ホグズミード行きがとうとう中止になった、ロンの誕生日。
 朝食に向かう途中に、フラフラと夢見がちな歩調のロンと、しかめっ面をして右耳を抑えている親愛なる我が兄ハリー・ポッターと出会ったぼくは、事の顛末を聞いて思わず苦笑した。
「笑い事じゃないよ、アキ」
「いやいや、分かってるんだけど……っく、ふふ……どうして早めに捨てなかったの」
「バカ、『愛の妙薬』はそのままダストボックスにゴールインすることは出来ないこと、知ってるだろ。いつかどうにかしようと思っていたんだよ」
 そのとき、ロンの瞳がぼくを向いた。奇妙に満面の笑顔で近付いてくるロンに、思わず寒気が走ってたじろいだ。
「やぁアキ……君も凄い綺麗な黒髪だね、でもまぁ、ロミルダの方がもっと美しいけどね……」
 熱に浮かされたようにぼくの髪を掴もうとするロンから慌てて飛び退く。同時にハリーがロンの腕をがっしりホールドして、ぼくから引き離してくれた。
「ほら、ロミルダ・ベインに会いにスラグホーンのところに行くんだろ」
「そうだった! 早く行かないと!」
 隙あらばピョイッと飛んでいってしまいそうなロンを、苦労して捕まえながらもスラグホーン先生の私室へと向かう。
 なんとか正気を取り戻したロンに、ぼくらは揃って微笑みを向けた。
「……死にたい」
「滅多なことを言うな。気付け薬を出してあげよう。バタービールがあるし、ワインもある。オーク樽熟成の蜂蜜酒……ダンブルドアに送るつもりだったのだけれど、構わんだろう。ミスター・ウイーズリーの誕生祝いと洒落込もうじゃないか。失恋の痛手を追い払うには、上等の酒に勝るものなし」
 スラグホーン先生はクスクス笑いながら、ぼくらにグラスを握らせた。軽く掲げる。
「さぁ、誕生日おめでとう、ラルフ――」
「ロンです」
 ハリーが訂正する。
 しかしロンは、スラグホーン先生の音頭を聞いちゃいなかったように蜂蜜酒を一気に飲み干した。
 一瞬の出来事だった。
「ロン!」
 ハリーが叫ぶ。ロンの手からグラスが滑り落ち、石造りの床に当たって砕けた。
 手足を痙攣させ、口から泡を吹いて目を回しているロンにハリーは瞬時に駆け寄ると「先生! 何とかしてください!」と叫ぶ。慌ててぼくもロンに近付いた。
 今ロンが口にしたのは蜂蜜酒だ。もしかして、これに何か毒が? 
 と、ハリーがパッと駆け出した。スラグホーンの魔法薬キットに飛びつくと、中身を引っ張り出し、やがて小さな小石――ベゾワール石を持って戻ってくる。察してロンの口を開けさせると、ハリーは焦る瞳のままその口にベゾワール石を捩じ込んだ。
 ロンはビクリと身体を跳ねさせると、やがてぐったりと息を吐き出す。
「早く、医務室に!」
 ハリーの怒号が、冷たい空気を震わせた。
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