ぼんやりとした意識が覚醒する。あぁ、またやったのか。目覚めた時にこうフワフワとした感覚に包まれるのは、決まって何かしらの自殺めいたことをやらかしたときだ。
頭に残る最後の記憶を辿ると、摩天楼の屋上がヒットした。成る程、そう言えば飛び降りたんだった。どうせ死ねないのに。死ねないと分かっているのに高いところから飛び降りたがるのは、どういう心理が働いてのことだろう。
半ば発作的に飛び降りるのが癖になっているのかもしれない。うわぁ、なんだそれは。我ながらドン引きする。
死ねないのなら、大人しくしていればいいのに。もしくは完全に狂ってしまえばいいのに。自己の中で肥大化した自意識はしかし、狂人に見られるのを嫌がるのだ。狂いたいのに、狂っていると人から見られることを厭う。
本当に馬鹿だなぁと我ながら思う。ここまで来て、ここまでのことをしておいて、今更人の目を気にするのか。大量殺人犯と見られるのは構わないが、狂人だと思われるのは嫌らしい。
いや、しかし。ちょっと待てよ。
徐々に意識が浮上し、それと同時に四肢の感覚も明瞭になってくる。
この暖かい感覚は何だ? 大体飛び降りた後は決まって、何処ぞの路地裏かよく分からない場所にぶっ倒れているものなのだが──
「……っ」
慌てて起き上がった。
身体はふかふかのベッドに寝かせられており、暖かい毛布が胸から下を覆っている。周囲を見回すと、よくあるアパートメントで見られるようなベッドルームだった。クリーム色の壁に、ベッドサイドには焦げ茶の小さなテーブル。テーブルの上は
「起きたか」
声を掛けられ、ハッと小さく息を呑んだ。
声の主は、そんなぼくを身じろぎもせずに見下ろしている。
「……っ、どういうことだ」
厳しい声音で問いかけた。杖を抜こうとするも、マグルに発見されてもいいようにいつも杖は家に置いているのだということを思い出す。
それでも、目の前の『彼』は、ぼくが杖なしでも魔法が使えるということを知っているはずだ。その身を持って。
目の前の彼──セブルス・スネイプならば。
学生時代より少し老け込んだようだ。目の下に隈が見える。しかしそれ以外は、殆ど変わっていなかった。もっともぼくらが別れたのは青年期であるため、互いに容姿がそう変わらないのは年齢のせいだろう。
「どういうことも、何も」
セブルスは眉を寄せたまま、棘のある口調で吐き捨てた。
「……路地裏に人が倒れているのを見つけた。だから家まで運んで医者を呼んで手当てをした、それだけだ」
音が鳴るほど、奥の歯を食い縛る。
セブルスはぼくを見、冷笑を零した。
「君だから助けたとでも言うと思ったのか?」
毛布の上に投げ出した自分の拳は強く握り締められ、震えていた。寒さではない、怒りでだ。誤魔化しようのない怒りが、目の前の男に対して渦を巻く。
「助けなくってよかったんだ。だってぼくは、死ぬつもりだったんだから」
死のうとして死に切れず、いつまでもふらふらしている死に損ないだけれど。
しかしぼくの言葉に、セブルスは少なからず動揺したようだ。表情が強張り、言葉が止まる。そんな彼をせせら笑った。
「で? 闇祓いのぼくを助けたってことは、今からぼくは何をされるのかな? もう君たちの主はいないけど、君たちの中にはぼくに恨みを持つ者だって少なくないだろうね。拷問した後、見せしめの処刑? どうぞ、好きにしなよ」
敵からの罵詈雑言を浴びるのも、悪くはないだろう。もしかしたら殺してくれるかもしれない、ぼくが思い浮かびもしなかった方法で。もしくは本当に気が触れるほどに拷問してくれるかもしれない。
ダンブルドアは、セブルスは既に騎士団側についてスパイの役目をしてくれていたと言っていたが、それでもぼくを突き出せば、セブルスの地位も上がりスパイはしやすくなるだろう。もっとも、スパイの役目ももう必要ないだろうが。
もう、何もかもどうでもいい。
しかしそんなぼくの態度が、セブルスは気に食わなかったみたいだった。ツカツカと歩み寄ると、右手を伸ばしてぼくの胸倉を掴み上げる。
「僕を見ろ」
食い縛った歯の隙間から漏れた言葉に、目を向けた。
「どうして、あんなところにいた」
「……十七階建てのビルの屋上から飛び降りた。飛び降りに失敗したのは、これで三度目だ……三度飛び降りて、三回とも失敗した。この憎たらしい魔力が、ぼくの身を守っている。万が一、億が一にも死んじゃわないかなって試しているんだけど、今回もまた駄目だったようだ」
セブルスは歯噛みした。憎しみの光が灯った淀んだ瞳で、ぼくを睨む。
「今更──今更、死を選ぶのか。その手で何人殺したと……何人……!」
「ぼくの罪を、君が裁くのか」
胸倉を掴むセブルスの腕を、反対に掴んだ。
「君に裁かれる謂れはない。君に裁かれたくもない。これは、ぼくの十字架だ。ぼくが背負うべきものだ。……リリーを殺した君に……っ、そういうことは言われたくないっ!!」
そうだ。リリーとジェームズをヴォルデモートに売ったのは。二人が死ぬ元凶となったのは。
他でもない、この男だ。
リリーの名前を聞いた瞬間、セブルスも犬歯を剥き出してぼくを睨んだ。殺意の籠った、激しい眼差しだった。
「君がその名を口にするな!」
「リリーの名前を聞いて激昂するのか? いいご身分だ、君がリリーを殺した癖に。君がリリーとジェームズを売ったんだ」
嘲笑した。目の前の男を、どこまでも嘲笑ってやりたい、そんな荒んだ気分だった。
「どうしてリリーを殺した。あの子が一体何をしたって言うんだ。そんなにジェームズと結婚したのが気に入らなかったの。そんなに、君の思想を否定したことが気に食わなかったの。……いくら君が闇に落ちても、リリーだけは守ってくれるって思ってたのに」
学生時代、セブルスがリリーに向けていたあの眼差しだけは、本物だと。
ぼくらの間の友情が粉々に砕け散っても、それだけは事実だと、そう思っていたかったのに。
「リリーだけは、いくら仲違いしても、リリーだけは守ってくれると思っていた。リリーにだけは手を出さないと、信じていた。ジェームズと、君が大嫌いな男と結ばれたとしても、それでも君の愛は変わらないと……そう盲目的だった自分を、ぶん殴ってやりたいよ。どうして……、どうしてリリーを殺したんだ……! どうしてっ、どうして……!! どうして学生時代に、ヴォルデモートが間違ってるって分かってくれなかったんだ……ぼくらが言う言葉に、どうして耳を貸してくれなかったんだよ……!!」
奥歯を噛み締め、項垂れた。
「遅いんだよ、気付くのが……!」
いくら泣いても、悔やんでも。
彼女は既に、墓の下だ。
ぼくら三人が共にいて、笑い合っていたあの頃には、決して戻らない。
ぼくの胸倉を掴むセブルスの腕が、ふと弱まった。
と思うと、今までよりも強い力で肩を掴まれ、揺さぶられる。
「お前にだって、僕を断罪する権利はない!!」
悲痛な声だった。ハッと顔を上げると、泣き出しそうな表情の彼と目が合った。
きっとセブルスは、今自分がどんな顔をしているのか、よく理解していないに違いない。
「僕がどれほどの思いで『黒衣の天才』の話を聞いていたと思っている!? 僕だって言いたいよ、何で殺した、何で殺した、何で! どうして闇祓いなんかになったんだ、どうして!! 友人も、先輩も、後輩も、皆がお前に殺された!! 何人殺したんだよ、お前は、その手で!!」
「…………っ」
ぼくがついさっき、セブルスを言葉のナイフで思いっきり傷つけたように。
セブルスも、ぼくを本気で傷つけてくることに、どうして思い至らなかった。
「お前が殺したんだ、お前が!! お前は、君は、僕は君にそんなことをして欲しかった訳じゃないのに!! エイブリーも、マルシベールも──レギュラスだって!!」
レギュラスの名前を聞いて、自分でも驚くほどにスッと激情が収まった。
「レギュラスだけは、見逃してくれると思っていた。レギュラスが君に殺されたと報告を受けたことを、信じられないと思った。全ての足取りを辿り、君しかいないと知って絶望した。……どうして? どうして殺した……」
ぼくの両肩を掴む男の手を、無感情に振り払う。
「そうだ。ぼくが殺した」
自分の口から零れた言葉のはずなのに、どこか他人の声のように聞こえた。
「どうしてかって? 敵だからだ。それ以外に理由なんてない。君だって、そうだろう。リリーが敵だったから、殺したんだ。ヴォルデモートに逆らう者は、皆敵なんだろ、そう思っていたから、ジェームズとリリーを売ったんだろ」
乱れたシャツの襟元を整えると、服の上から首元のロケットに触れる。両親の形見のロケット。これだけは、いつだって手放したことがない。
「だから……言っただろう。あの日に。『ぼくを許さないで』って。……ぼくは君を許さない。リリーを売った君を、絶対に許さない。だから君も、ぼくを許すな。絶対に、ぼくを許すな。君の仲間を大量に殺したぼくを、絶対に許すな」
ベッドから抜け出て立ち上がると、靴を履きながら辺りを見回した。ついっと左の人差し指を振ると、椅子の背に掛けられていたコートが飛んでくる。それに腕を通した。
「……どこに行くんだ」
「帰る。今何時かは知らないけれど、仕事に行かないといけない」
「死のうとしたと言うのにか」
「あの職場は、ぼくが丹精込めた辞表を粉微塵にして吹き飛ばすことにやり甲斐を感じているらしいから」
彼の横をすり抜けようとした瞬間、男の手がぼくを引き止める。
少しばかり焦った表情で、男はぼくを見た。先ほどから色んな感情を見せる奴だ、疲れないのかな。
「……何?」
微笑して、手を振り払った。それだけの仕草に、酷く傷ついたような瞳で彼はぼくを見る。
「……君にあの仕事は向いていない」
「そう。人には『天職だ』と言われるけれど」
「それが皮肉だと、君が気付いていない訳がないのにか」
「何でもいいよ。今はあそこが、ぼくの居るべき場所だ」
「もう君は、世界に求められていないのに!」
その声に、思わず顔を歪めた。
「……そんなこと、言われなくても分かり切っているよ」
呟いて、脇目もふらずに走って家を飛び出した。
『姿くらまし』を数回繰り返し、自宅付近の公園へと辿り着く。日は思っていたよりも高く、時刻はきっと正午前後だろう。家に帰ったら、着替えて職場に行って頭を下げて始末書を書かなくては。考えるだけで気が重い。そろそろ減給処分を食らうだろう。
昼間の公園は、サッカーを蹴り合っている数人の子供しかいなかった。ふらつく足取りでブランコへと歩み寄ると、腰掛ける。
震える手で髪を引っ張ろうとし──結ばれていない髪に、空中で手が止まる。
リリーから、十六の誕生日に貰った黒の髪紐。解いた記憶はない──飛び降りるときも、髪は括ったままだった。ならば落ちる時に解けたか──もしくは。
セブルスがぼくを寝かせるときに、髪を解いたか。
「…………」
自分の黒髪を一房掴むと、大きく息をついた。顔を両手で覆うと、目を閉じる。
全てのことに、嫌気が差していた。セブルスも、何もかも嫌だったし、自分のことは、それ以上に一番大嫌いだった。
「秋!!」
名前を呼ばれて、驚いて顔を上げた。サッカーに興じていた子供たちも、揃って目を向けている。
「……リーマス?」
慌ててブランコから立ち上がった。
リーマスは随分と悲壮な顔をしていた。切羽詰まった表情でぼくに駆け寄ると、その勢いのままぼくに抱きついてくる。驚きに数歩よろめいた。
「ど……どうしたの」
子供たちがポカンと口を開けたまま、ぼくらを見つめている。なんだか恥ずかしい。
「探した……すっごく、探した。見つからなくって……僕こそ、死ぬかと思った」
ぼくを抱きしめるリーマスの身体は、細かく震えていた。腕の力は加減がなく、少し痛いほどだった。
その右手に、一枚の封筒がぐしゃぐしゃに握られていることに気がつく。ぼくの遺書だということに思い至ったのは、すぐだった。
「心配した……心配した、心配した、心配した! 君まで僕を残していくつもりか! 一人は嫌だ、一人は嫌だ! 皆いなくなったこの世界で、唯一縋れるものが君なのに、君さえも僕を置いていくつもりなのか……!」
更に、強く抱きしめられる。首筋を掠めた吐息は、熱を帯びていた。
「死なないで、秋、頼むよお願いだ……もう、生きる理由がないと言うのなら、僕のために生きてくれ。これ以上……周りで人が死ぬのは、もう見たくない……!!」
リーマスの震える背に、恐る恐る手を伸ばした。
「……ごめん……ごめん、リーマス」
一人ぼっちだったリーマスのことに、思いが回らないなんて。ぼくも随分と目の前のことしか見えていなかったのか。
「死なないで、自ら命を絶とうとしないで。一緒に、一緒に生きて。この世界は、残酷で、救いがなくって、すごく辛くて苦しいけれど! 僕のために、ハリーのために、生きてくれ……」
痛いほどにぼくを抱きしめていた腕の力が抜け、やがて縋るようにぼくの両腕を掴んだ。
代わりに、今度はぼくから強く抱きしめる。もう消えないからと、ぼくはちゃんとここにいるよと、安心させるように。
「うん……ごめん。もう、絶対に君を置いていかないから……ごめん、ごめんね……」
春の風が、吹き抜ける。気付けば、季節が変わっていた。
そんなことに、今更気がついた。
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