どうして、リーマスがぼくの家の机上に置いていたはずの遺書を持っていたのか。その理由は、すぐに分かった。
家に帰り着いたぼくらを出迎えたのは、全てを見知った表情で微笑むダンブルドアだった。なるほど、なるほど。
元々自殺する予定だったから侵入者避け呪文は一通りしかしていなかったけれど、ダンブルドアならばぼくが脳みそを振り絞って呪文を重ねがけしたところで、綺麗にさっぱり全て解除しそうだ。
闇祓いには休みの連絡を入れたとにこやかに言われ、思わず頬が引きつる。
ぼくの家なのに、ダンブルドアがぼくとリーマスの前に紅茶を出した。
リーマスは、先ほどまでの状態から回復して、今は落ち着きを見せている。
自らの紅茶にティースプーン山盛りの砂糖を一杯、二杯。五杯を超えたあたりで、数えることを諦めた。
目を逸らすと、ダンブルドアに用件を尋ねる。
「何、おぬしに死なれるのは勿体無かったからの。捨てたいと願うならその命、一時ばかりわしに預けてはくれまいか」
『勿体ない』、そう表現されたことには、怒りを感じない。
もう随分と、才能を使われることに慣れてしまった。ダンブルドアの言い回しも、失言ではなく狙ったものだろう。
「……内容を、お聞きしましょう」
指先を合わせ直す。ダンブルドアは、僅かに微笑んだ。
そこでダンブルドアが語ったことは、とんでもないものだった。絵空事にしか、冗談にしか思えない。
『ハリー・ポッターを守る』
黒衣の天才、幣原秋としてではなく──全くの別人として人生を歩む。
ヴォルデモートは死んではおらず、まだ生きている。いつか昔の地位を願い、復活するだろう。その際即座にハリーを守ることが出来るように、自らの身体に退行魔法を掛け、ハリー・ポッターと同世代の少年として、彼のすぐ近くで成長を見守る。
ぼくであってぼくじゃない、第二の人格を作って、そいつを表に出したまま、ぼくはハリーの身に何か危険が及んだ時だけ交代する──どこまでも絵空事、どこまでも冗談。
それでも、ダンブルドアの声音は本気であって、こちらをおちょくる色は一切見られなかった。
「時間はある。君が考える価値もまた、十分にある空想じゃと思うぞ」
そう言って、ダンブルドアはぼくの返事を待たずに帰っていった。しばらくリーマスと同居するよう、ぼくに言葉を残して。
おそらくは監視のためだろう。随分と信用されていないものだ──信用されないようなことばかりしてきたからなぁ。
「断っても、いいんだよ」
おずおずと、リーマスはそう言った。
「ハリーを守る方法は、他にもある……何もこの方法にこだわらなくたって」
「いや……悪くはない。リリーが、自己犠牲の守護呪文をハリーに掛けたのだとしたら、リリーの血縁であるペチュニアの元へ預けて守護を継続させるべきだと思うし、そのハリーを一番近くで見守ることが出来るのは、こっちも幼くなって同年代としてハリーと一緒に暮らすことだと思う。ハリーを守るなら、ぼくが一番適任だろう……恋人も子供もいないし、やらなきゃいけないこともない訳だし、ハリーを守れるだけの力はある」
しかし、ならば。それならば。
いきなり立ち上がったぼくに、リーマスは驚きの声を上げた。
「ど、どうしたの?」
「そうと決まれば、あんまりグズグズ出来ないよ。いろいろやらなくちゃいけないことがある……リーマス、ついてきて」
「いいけど……どこに?」
決まっているだろう、と、ぼくは微笑んだ。
「闇祓い局だよ」
◇ ◆ ◇
物音に、医務室のベッドでウトウトとした眠りについていたドラコ・マルフォイは目を開けた。
辺りは真っ暗で、カーテンを開け見た空には、大きな満月が姿を現していた。
身体がじんわりと気怠い。身体に負った全ての傷が、それぞれに熱を持っている。それでも先ほどよりは随分と楽になった。傷による熱は、大分収まってきたようだ。
カツン、と、再び耳が物音を捉える。
夢と現の狭間でボンヤリしていた時はそう違和感を抱かなかったが、一体これは何の音だ? マダム・ポンフリーの靴音かと思ったが、彼女の靴はこんな音は立てない。
もう少し体重のある、そう、男の──
「……なぁんだ、起きてんのか」
声を上げそうになった。片手で慌てて口元を抑える。
カーテンを引き姿を現したのは、自らの幼馴染であるアリス・フィスナー。ドラコの様子を喉の奥でクツクツと笑ったアリスは、ドラコのベッドに腰を下ろした。ギシリとスプリングが軋む。
「……今、何時だ?」
「夜中の二時半、過ぎかな」
「何も、こんな時間に……」
「夜更かしは不良の特技の一つだ、知らねぇのか?」
「……初めて聞いたな」
「なら覚えとけ」
アリスは僅かに肩を震わせた。背を向けているため、ドラコから表情は伺えない。
「怪我の具合、どう」
唐突に投げられた言葉に、少し焦った。
「っ、あぁ……大丈夫だ」
「……そう」
そして流れる沈黙。居心地の悪さに身じろぎした。
幼馴染ではあるが、アクアほど距離は近くなかった。一時期は共に近寄りもしなかったことだってある。だからか、距離感が上手く掴めない。
「……なぁ、ドラコ。何か俺に言わないといけないこと、あるんじゃねぇの」
その言葉に、息を呑む。
言わないといけないこと。
『中立不可侵』フィスナー家長男、アリス・フィスナー。彼に、言わないといけないこと。
左の腕を押さえた。
「……何のことを言っているのか、さっぱり分からないな」
「分からないか? そうか」
ゆっくりとアリスは振り返る。
碧の瞳は、これまでに見たことがないほど鋭い光を湛えていた。
「お前は『死喰い人』になったのかと、聞いている」
血の気が引いた。
鋭い眼光に射竦められ、ドラコは動けない。その反応こそが、アリスには雄弁であっただろう。
慌てて『閉心術』を貼ったものの、果たしてアリスに対して有効なのかどうか。そもそも、アリスは『開心術』を使って無理矢理聞き出す奴ではない。ドラコ自身の言葉で、言わせるように仕向ける奴だ。
「ドラコ・マルフォイ。ここはホグワーツ、『中立不可侵』フィスナー家の管轄だ。ここでそういう騒ぎを起こすことは、俺が許さない」
「……フィス、いや、アリス……違う、違うよ。お前が考えていることは全て、的外れだ」
「へぇ、そうか?」
目を細めてアリスは笑うと、声音を一変させた。低い声で、鋭く言う。
「──左腕を出せ」
「……は」
「心配いらない。窃視と盗聴防止、人払いは一通り掛けている。ドラコ、何も心配いらない。全部、俺に任せてくれ」
そう言うアリスの瞳は、真剣だった。
久しく、こんな目を向けられていなかった。そこまで真剣に、自分のことを考えてくれる人間なんていなかった。自分を思ってくれる人間は、早々に拒絶してしまったから。
「マルフォイ家の長男として、お前が為さないといけないことなど何一つない。お前はお前だよ。昔から変わらない、俺の幼馴染のドラコ・マルフォイだ。俺なら、お前を助けられる。フィスナー家の俺なら、お前を守ることが出来る。──なぁ、ドラコ」
差し伸べられる手。夢にも見るほど、焦がれた。誰かが、いつか誰かが助けてくれるのではないかと。
でも、だからこそ躊躇した。この手を取ってしまえば、アリスまでもとばっちりを食うのではないか。
フィスナーの守護なんて、机上の空論だ。現にもう闇の勢力は、その手をじわじわと伸ばし、フィスナーの領域を侵食し始めている。フィスナーだから安全など、既にそんな段階は過ぎた。
平和な時代など、ない。
アリスは、じっとドラコの答えを待っている。左手を差し出したまま、まっすぐにドラコを見据えている。
「──僕は」
「うん」
「お前を……巻き込みたくない」
「俺が、巻き込まれてもいいと言っているんだ」
静かな声だった。何かを押し隠す、声音だった。
その隠されたものに気付かないまま、ドラコはアリスの手をそっと取った。
「……ありがとう」
アリスは項垂れると、ドラコの左手を掴む。捲る腕に、ドラコは抵抗しなかった。
ぎゅっとアリスの目元が細まる。口汚い言葉を声に出さず吐いた後、アリスはドラコの袖を元に戻した。丁寧ではあったが、指先は僅かに震えていた。
「……悪かったな」
「いや……僕の方こそ」
歪んだ袖元を弄りながら、ドラコも目を伏せた。
「……何をしでかすつもりだ」
「それは……言えない。絶対に」
「そうか……言えないか」
ミシリとベッドが軋む。アリスが重心を移したのだ。
「ドラコ。悪いな……」
アリスは笑っていた。いつにない、優しい表情だった。
右手がポケットの中に滑り落ちる。次に右手が姿を見せた時には、何かが握られていた。
パチン、と音を立て、鞘が落ちる。銀色に輝くそれに、頭よりも身体が素早く理解した。
「な……っ、何、アリス!?」
僅かに開いたカーテンから、銀色の月明かりが差し込んでいる。
銀色の光が、アリスの手元のナイフを輝かせた。ドラコは思わず後ずさると、ヘッドボードに背を付け、しがみつく。
「言えないか?」
アリスの声は、淡々としていた。この場にそぐわないほど淡白過ぎていた。
ドラコは声も出せず、その鋭い切っ先を見つめていた。
「お前が死喰い人として、マルフォイ家の長男として、何か為すべきことがあるというのなら。……俺にだってやらなければいけないことがある。ホグワーツを戦場にさせない義務が、俺にはある」
『中立不可侵』フィスナー家。
英国魔法界の、秩序と平和を統べる者として。
「ホグワーツに永遠の秩序と安寧を誓う者として、お前のやろうとしていることが何であれ、見過ごすことは出来ない」
アリスの指が、ナイフを握り直す。
「大丈夫……殺さない。死なないように努力する。聖マンゴは安全だ、そこで療養するといい。『中立不可侵』フィスナーの名に掛けて」
俺が、お前を守ってやる。
右手が、大きく振り上がる。煌めいた刃の先は、ずっとこちらを向いていた。
衝撃に備え、ドラコはぎゅっと息を止め──
──想定していた衝撃がいつまで経っても訪れないことに、おずおずと目を開けた。
「君はいつも唐突だ。行動力があるのは大いに結構だけれど、少し性急すぎる選択肢じゃないかい? 少なくとも、ぼくなら選ばないな」
聞こえるはずもない少年の声が、響く。声変わりしても尚、一般男性よりも高い声。
ナイフの刃は、ドラコに届く数センチのところで止まっていた。振り下ろした姿のままだったアリスは「……っ、あぁ、もう!」と叫んで身を起こす。
「そういうところで、お前は、いつもいつも……っ!」
「『いつも』? はてさて、一体何のことやら存じ上げませんなぁ」
ドラコがずっと横になっていたベッドの下から這い出てきたアキ・ポッターに、ドラコは仰天するほど驚いた。なんでそこに? 一体いつから? どこから聞いていたんだ?
当ても無い疑問がぐるぐると回る中、アリスは力が抜けたように座り込むと、金髪を乱暴にぐしゃぐしゃと掻いた。
「もう、何なんだよお前ホンット意味分かんない理解が出来ないししたくもないし行動がさっぱり読めないし一般人である俺の理解の範疇軽々飛び越えてくんの止めてくんねぇかなァアキ・ポッターくんよぉ!」
「何を言う、今更じゃないかアリス・フィスナーくん。ぼくと同室になって興味持たれちゃったのが運の尽きだったと思って諦めてね。……そんなに行動読めないかなぁ、そんなに一般人に理解不能な行動してるかなぁ、ぼく……」
むぅっと考え込む顔つきではあったが、アキはアリスの手から剥き身のナイフを取り上げると、鞘を拾い上げて嵌め、アリスに返す。……返すのかよ。アリスも受け取るとポケットにしまい込んだ。……お前も受け取るのかよ。
「んで、ドラコ。腕見せて」
そう言いながらも問答無用でアキはドラコの袖を捲ると、大きな黒い瞳を細めた。口から蛇が出ている髑髏の紋様に指を這わせる。
「痛みは?」
「時々……あの方は、仲間を呼ぶのにも使っていらっしゃるから、だからだろう」
「ふぅん……」
「アキこそ、一体いつから……というか、どうしてあんなところに!」
アキの髪に綿埃が付いていることに気付いて、手を伸ばして払った。ありがとう、とアキは目を細めて微笑む。
「アリスが何かしでかしそうなのは、読めてたからね。決行するなら今日だろうと思って、ずっと潜んでた」
「俺が来なかったらどうしてたんだ?」
「そりゃ、そのままそこで寝てたに決まってる」
頭が痛い、とばかりにアリスは大きく息を吐いて眉間を押さえた。
「『COLD STEEL』だけでバレるとはなぁ……」
「あのパッケージを見せたのは失敗だったね。まぁそれがなくっても、君は態度からぼくにヒントを与え過ぎた……でもアリス。君がやろうとしたことは間違っている」
その言葉に、アリスはアキを睨みつけた。
アキはしかし怯むことなく、全てを吸収する黒の瞳で、碧の瞳を見返す。
「……間違いはハナから承知だったよ」
「……へぇ」
「そりゃそうだろ、あんなの正攻法じゃねぇ、邪道だよ。お前は、邪道を好まないからな」
「邪道が嫌いな訳じゃない、血を見るのが嫌なだけさ」
「去年自分の腹刺したお前が、よく言うよ」
アキはハッキリと顔を顰めた。無意識にだろう、腹辺りの服を握り締めている。
「……人が傷つくのを見るのは、嫌なんだ。それだけ」
目を伏せた少年に「なぁ、アキ」と語り掛けた。黒の瞳を見たまま、ドラコは僅かに微笑んだ。
「他に方法を……探そうと思う。僕があの方に何を命じられたのか、それは言えない。言うことは出来ない。でも……」
言葉を切る。
アキは、開心術を掛けて来ない。嘘は、絶対に見破られない。その自信が、ドラコにはあった。アキは、そういう奴だ。
そこを、利用する。
既に計画は、止められない。止められる段階はとうに過ぎた。
アリスの暴挙で、一時はどうなるかと危惧したが──結局はアキが間違っていた。『邪道』と称したアリスの案こそを、アキは選ぶべきだったのに。あれが、最後の引き返せるタイミングだったのに。
「……でも。僕を止めてくれて、ありがとう」
二人の笑顔を見ていられなくって、ドラコは静かに視線を落とした。
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