リーマスがいてくれたおかげか、とりあえず死ぬ気はなくなったのかと、休職願いはそれまでとは打って変わってスムーズに受理された。
これで、しばらくは仕事に縛られない。引き継ぐべき仕事の割り振りは、いつ死んでもいいようにキチンと済ませてあった。後輩指導さえやり終えてしまえば、後は自由だ。
「確かに、お前は少しじっくりと休んだ方がいいのかもしれんな」
休職願いを受け取ったムーディ先生は、大きく顔を顰めていた。もっとも、この人の笑顔などぼくはお目に掛かったことはないのだが。
「ルーピンよ。こいつが妙なことをしでかさないかキチンと見張っていろよ」
そう言われたリーマスは、苦笑いをしていた。
自宅に帰り、闇祓いの制服を脱ぐと、なんだか随分気楽になった。思っていた以上に、この役職に縛られていたようだ。
てっきり部屋着で戻ってくると思っていたらしいリーマスは、きっちりジャケットを羽織って出てきたぼくに驚いたようだ。
「今度はどこに行くの?」
「ホグワーツさ」
閉館時間いっぱいまで粘って、役に立ちそうな資料を探した。その間リーマスは、お世話になった先生のところへ言って挨拶を済ませてきたらしい。ぼくも挨拶くらいしておけばよかったな、と思いながらも、司書のピンス女史に追い立てられるようにして図書室から追い出される。
久しぶりに歩いたホグワーツの廊下は、夕食どきだからか混み合っていた。制服姿でない大人なぼくらを、生徒たちは不躾な瞳で見ては大広間へと足を向けて行く。
ぼくだって、学生時代に先生じゃない見知らぬ大人が校内をうろついていたら、不審にも思うだろう。無理もないことだ。
「さて、理由を聞かせてもらおうか」
家の扉を閉めてすぐ、リーマスは腰に手を当てて目を眇めた。ぼくは大量の本が入ったカバンを肩に掛け直し、廊下を進む。
「そりゃあ君、闇祓いなんかの仕事をしてたら研究が進まない」
「闇祓いの休職の件はいいよ、分かるから。その後さ、ホグワーツの図書館で、一体君は何を探していたの」
答える代わりに、テーブルの上に借りてきた本をぶちまけた。数冊を手に取ったリーマスは、表紙を見て首を傾げる。
「どれも変身術関連の本みたいだけど……」
「正解さ、リーマス」
微笑みを浮かべた。
「まだ誰も到達していない、前代未踏の研究を始めるんだ。退行呪文、それもきっちり狙った分だけ。計り間違えちゃ、自分が消えちゃうからね。それに何年もその身体でいるんだ、例え成功したとしても、長期的な不具合が出ないかを確かめないといけない……失敗は許されない、何から何まで未知の領域さ……どうしたの、リーマス?」
クスクスと笑うリーマスに気がついた。いや、ごめんねとリーマスは片手を上げ、目を細める。
「なんだか、秋が……生き生きしているなって。忍びの地図を作っていたときも、確かこんな感じだった」
一瞬、思考が止まる。
あの懐かしい日々を思い出して、胸が痛んだ。それでもなんだか、嫌な痛み方ではなかった。
静かに微笑む。
「……そう、かな」
「……うん、そうだよ。君は実際のところ、闇祓いよりも研究開発に向いているんじゃないかな」
「そう? 考えたこともなかった」
「適性はあると思うよ」
そう言われれば、そんな気もしてくる。昔は闇祓い以外の選択肢なんて、考えることすら出来なかった。
「僕に手伝えることがあったら、なんでも言ってね」
「……じゃあ、遠慮なく」
笑顔で、ぼくは夕食を所望した。
久しぶりに他人と囲む食事は、随分と彩りが違って見えた。
◇ ◆ ◇
思わず息を呑んだ。
早朝であった。部屋の自分のスペースで、幣原直の書いた本──リドルが『デウス・エクス・マキナ』と称した本の解読作業をしていた折のことだ。
「……嘘だ」
呟いた言葉は、白々しかった。ノートに書き付けていた手が止まる。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ」
誤訳。きっとそうだ。誤訳に違いない。何か決定的な単語を間違えたんだ。
異国語は、一つの単語を誤訳するだけで意味が全く変わってくる。そのことを、ぼくはよくよく理解していた。
だって、かつて凄く大変だったんだ、英語を、授業についていけて、友人と楽しくお喋りが出来るほどのレベルに一息で引き上げるのは。
祈るような気持ちで、本を浚った。
どうか、杞憂でありますように。どうか、誤訳でありますように。
違う、お前の脳裏に浮かんだ解釈こそが、間違っているのだと言って。お願いだ、ぼくこそが間違っているのだと言って。
「……間違って、いなかっただろう?」
静かな声が聞こえた。ビクリと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げる。
トム・リドルが、ぼくの傍らに立っていた。ぼくの手元を、無表情で覗き込んでいる。
寒気がするほど綺麗な顔立ちは、無表情でいると精巧な作り物めいて見えた。
「……違う。ぼくは……」
生唾を飲み込んだ。震える声で、言葉を紡ぐ。
「ぼくは、こんな結末、認めない……」
「……ふぅん。そう」
リドルはぼくの反応を見ても、一切表情を変えなかった。全て予想していたかのような眼差しだった。
「別に……いいよ。君は、きっと気に入らないと思っていた。……どうだい、幣原秋。君は、気に入ってくれたかな?」
「止めてくれ……止めて、お願いだ……」
大きく首を振った。本を勢いよく閉じると、引き出しの中に突っ込む。
翻訳のメモとして使っていたノートも一緒に入れると、二重、三重、四重にも魔法で錠を掛ける。
「君の父親が、作り出したんだ。幣原直の、人生を賭けた魔法だよ。それを息子の君が、否定するのか?」
「父は、これを完成させても使わなかった! それが……っ、それが、答えだ!」
辞書を掻き集めると、カーテンを引き外へ出た。まだ早朝で、誰も起き出していない頃合いだからか、リドルもぼくの後をついてくる。
レイブンクロー寮を出て、まっすぐ図書館に向かい、まだ開いていない図書館の返却ポストに、持っていた全ての辞書を投函した。そこでやっと、息をつく。
「……認めてくれなくても、構わないよ」
投げやりな声だった。諦め切った眼差しだった。
「……リドル。君の言ったこと、頷くよ。これは確かに、デウス・エクス・マキナと呼ぶに相応しい」
「へぇ。君のお眼鏡に叶って、嬉しいよ」
「こんな無茶苦茶な……こんな、結末。受け入れられるかよ」
「……なんだっていいさ。でもね、これは僕にとって、最良の結末なんだ」
思わず、リドルを見た。しばらく押し黙って、ゆっくりと口を開く。
「……確かに、君にとっては、そう……なのかもしれない。でも……でも、ぼくは」
口の中が乾く。頭の中が真っ白になって、リドルに言うべき言葉が何も浮かばない。
そんなぼくの様子を見て、リドルはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「ぼくは……認めない」
「そう。それだけ」
「幣原も、あいつも……認めないだろう」
「そうかい。お気に召さなかった、そういうことか」
「お気に召す……はずが、ないじゃないか……」
きつく握り締めた拳が戦慄く。
リドルは目を細めてぼくを見ると、碌な言葉も残さず消えてしまった。
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