ペチュニア──ペチュニア・ダーズリーとバーノン・ダーズリー、二人の前でぼくは手を付いた。土下座して頭を下げる。
二人は青褪めた表情で、ぼくとリーマスの話を聞いていた。
「お願い……っ、お願い、します……ハリーをぼくに守らせてください。そのために、ぼくをこの家の庇護下に置いてください。ぼくはあなた方の全てを守ります。ぼくの力の及ぶ限り、あなた方を守ると誓います。無理なことを、勝手なことを言っているのは承知です。ですが、お願いします……っ、リリーを守れなかったぼくが、何を言っても意味ないのかもしれない。でも、それでも……お願い、します」
少し離れたところで、子供の泣き声が聞こえた。ペチュニアは、ぼくを見据えて動こうとしない。どうしていいか戸惑う瞳で、バーノン・ダーズリーは子供をあやしに向かった。
「……幣原、秋。顔を上げてください」
それでもぼくが頭を上げずにいると、ペチュニアはぼくの前に屈み込んだ。
「秋」
「…………」
おずおずと、身体を起こした。
「私はあなたを、自らの子供として愛することは出来ません。私は、妹の子供を愛することが出来なかった。愛そうと努力した、でも無理だった。私は魔法界が憎いです。私から妹を奪った魔法界が大嫌いです。その、住人であるあなたも……大嫌いです」
「…………」
「ですので……約束してください。私と。私はあなたを信じます。あなたの言葉を信じます。あなたが私たちを守ると、そう誓った言葉は、本物と思うから……あなたがリリーに向けていたあの優しい視線は、真実だと思うから。だから、約束してください」
灰色の瞳。リリーとは全く違う瞳の色で、それでも何故だか、眼差しは凄くよく似ていた。
「私はあなたを愛せません。私はハリーを愛せません。そのことについて、どうか私を責めないでください。理不尽なことを、してしまうかと思います。傲慢な言葉だと、分かっています。何様のつもりだと言われても、甘んじて受け入れます。ですが秋、あなただけは私を責めないでください。保護者として至らぬ身ですが、そんな私で良いのなら──あなたを胸に抱き留めることは出来ません、そんな保護者でいいのなら……私はあなたの提案を受け入れます」
苦しげな声音だった。ぼくはしばらく黙って、そして「分かりました」と頷いた。
「ぼくだけは、ペチュニア、あなたを責めない。あなたはただ、ぼくとハリーを生かして、この家の中で眠りにつかせてくれるだけで構いません。ぼくを……アキ・ポッターを、この世界の片隅で呼吸することを、許してくれて……ありがとう」
ハリーを連れてくる、という彼女の言葉に、ぼくとリーマスはしばし待った。
「……後のことを頼んだよ、リーマス」
「分かっているよ」
返事はすぐに来た。ぼくは気付かれないくらい僅かに目を伏せる。
杖を預け、首元を開いた。ずっと首から下げていたロケットを外すと、リーマスに託す。
リーマスのことは、少し不安だが……任せるしかない。今のぼくは、既に死を偽ったぼくは、リーマスしか頼れる人がいないのだ。
やがて姿を見せたハリーは、記憶の中のハリーよりも随分と成長していた。しかし、あまり他者に興味を示さない虚ろな眼差しや、ダボダボの洋服から覗く細い手足から、どのように育てられて来たのかは簡単に予想がついた。
「……ハリー」
きっと君は、もう覚えていないのだろう。望まれ生まれてきたことも、最高の愛情を注がれ育ったことも、君の両親が、君を守るために死んだことも、何一つ、知らないのだろう。
名前を呼んだぼくを、ハリーは緩慢に見上げた。意志の篭らない眼差しだった。
「……だれ?」
微笑んで、ぼくはハリーに手を伸ばす。ハリーは警戒心剥き出しの瞳でぼくを見据えたが、構わず、優しく抱き締めた。
強張り震えていたハリーの細い肩から、徐々に力が抜けていく。冷たい身体が、ほんのりと温もりを帯びていく。
「……おにいさん、ないてるの?」
少し平坦な声ではあったが、それでもハリーは、ぼくを心配するかのような言葉を発した。
「どうしたの? どこか……いたいの?」
「……痛いんじゃないよ。嬉しいんだ」
ハリー、君に会えたことが。
「ぼくが誰かって、君は聞いたね。……ぼくはね」
涙を拭わぬまま、ぼくはにっこりと微笑んだ。
「ぼくは、君の弟だよ、ハリー」
朝の光に『アキ・ポッター』は目を開けた。
ぼんやりとしばらく世界を見ていたが、やがてふと手元に目を向ける。ハリーが、アキの手を握ったまま眠っていた。くらり、と視界が揺れる。アキが首を傾げたのだ。
「……だれ?」
なるほど。『アキ・ポッター』の中から見ると、このように見えるのか。
目に見えるもの、聞こえるものしか感じ取れない世界。アキ・ポッターが受け取ったものの、ほんのの一部しか感じ取れない世界。
なんだか、酷く安心した。だってぼくは、死にたかったから。ここでただ、こうしてアキの瞳で世界を見るのは、とても気楽だった。
アキの声に、ハリーが目を覚ました。アキの手を握っていない方の拳で目元を擦ると、ふとアキを見る。数度目を瞬かせ、ハリーは「……おはよう」と言った。
「だれ?」
アキはもう一度尋ねる。ぎこちない笑みを作ろうとしていたハリーの試みは、その一言で無念にも砕けたようだ。
「……ぼくは、ハリー。ハリー・ポッター」
「……は、りー?」
戸惑うように、アキは名前を繰り返した。そうだよ、とハリーは呟く。
「ぼくは……だれ?」
アキの声は、不安が滲み出ていた。心もとない、不安定な足場。その上に一人座り込むアキは、縋る誰かを求めようとする。
「きみは、アキ。アキ・ポッター。きのう、おにいさんがいってた……ぼくの、おとうと、なんだって」
今度こそ、ハリーは笑みを浮かべた。
「アキ……これからはずうっと、いっしょだよ」
アキの視界が滲む。瞬間、ポタポタと大粒の涙が滴った。「え、な、なんで」と、焦ったようなアキの声。
もう、いいだろう。そう思って、ぼくは目を閉じた。目を閉じたというのは言葉の綾で、今のぼくは目を瞑るための身体も持っていない。感覚を遮断した、というのが、一番近いか。
まるで眠りに落ちるような感覚。あぁ、ぼくはずっと、これを待っていた。
暗闇に抱かれ、ぼくは静かに息を止めた。
◇ ◆ ◇
ダンブルドアの葬儀中、ぼんやりとハリーは空を見上げていた。
前では、ダンブルドアの亡骸の前で誰かが口上を述べている。一切興味が湧かず、ただただ空を見上げた。
アキは、セブルス・スネイプと共に行ったまま帰って来なかった。ずっと待ち続けたし、ハリーとアキの間の連絡ツールである羊皮紙にも、永遠言葉を書き連ねた。それでも、一切返事は来なかった。
アキは行ってしまったのだ、と険しい声で呟いたのは、リーマス・ルーピンだった。
食い縛った歯の隙間から、漏れた言葉。リーマスは確かにこう言ったのだ。
『僕を裏切ったのか……秋』
そんなリーマスは、今はトンクスに寄り添われ、ダンブルドアの葬列のどこかにいる筈だ。がっくりと項垂れてしまったリーマス。トンクスは、そんなリーマスにずっと付いていた。
ずっと、幼い頃からずっと、アキと一緒だった。あの少年と、ずっとずっと一緒だった。
それでも、もっと話しておくべきだったと、ハリーは悔やんでいた。アキのことも、幣原秋のことも、全然知らない。
空を見ていた目を、参列者に戻した。
少し離れたレイブンクローの集団の中に、アリス・フィスナーの姿。ここのところずっと、アリスは荒れていた。ぐしゃぐしゃと乱雑に髪を掻き「全部自分のせいだ」と、押し殺した声で呟いていた。その真意は、押し計れなかった──碧の瞳は、アキと出会う以前のように他者を寄せ付けない光を放っていた。
スリザリン寮を伺った。一番動揺していたのは、グリフィンドールではなくスリザリンだった。落ち着く様子は、今もまるでない。
ドラコ・マルフォイが欠けたスリザリン、その中でぼんやりと立ち尽くす少女の姿を捉える。アクアマリン・ベルフェゴール。
慟哭し、恐慌一歩手前の状態に陥っていた彼女。後悔と懺悔の言葉を繰り返す彼女を、ハーマイオニーも泣きながら、彼女の小さな背中を撫でていた。途切れ途切れに聞いた言葉から、ハリーはアキの身に、あの日何が起こったのかを察した。
結局のところ、一体どうすれば良かったのだろう。
これから自分は、どうすればいいのだろう。
立ち竦んだときは、アキがいつも手を引いてくれた。初めて魔法界に触れたときも、初めてヴォルデモートと対決したときも、あの柔らかな微笑みで、ずっと一緒にいてくれた。
それなのに、どうして今、君はこの場にいないんだ。
幣原秋について、もっとちゃんと聞いておけばよかった。アキの瞳によぎる暗い影、それを見たくなくて、いつか幣原秋について問いかけるのを止めてしまった。
もう少し深く聞いておけば、アキの行動の理由も、五里霧中の今よりは読めていたのかもしれない──全てはもう、遅いけれど。
悲鳴に、緩慢に顔を向けた。ダンブルドアの亡骸が載った台が、眩く白く燃えている。炎は高く、天を燃え焦がす勢いで巻き上がると、一瞬ふわりと不思議な形を描き──ハリーにはそれが、不死鳥のようにも見えた──次の瞬間、何事もなかったかのように炎は消え去っていた。
今、目の前で何が起きたのか。
ざわつく人々の中、ハリーはジニーを見た。ジニーも、ハリーを見ていた。
全てを理解し、受け入れた眼差しだった。
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