カツン、と、高らかに靴音が響く。闇の帝王は鷹揚に音の出先を見──真紅の瞳に激情を走らせた。
一人の少年だった。少女のように長く艶やかな黒髪を、後ろで一つに括っている。夜の闇色の、全てを吸い込んでしまうような双眸。小柄な体躯、それに見合わない、暴力的なまでに膨大な魔力。口元には、心底楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「……っ、なるほど……セブルスめ、数十年越しに、任務を遂行したと、そういう訳か」
「あぁ、そうだよ」
軽やかな声。無礼にも、両の手を制服のローブの中に突っ込んだまま──彼は一歩、二歩と歩み寄る。挑むように、挑発するように、彼は上目遣いで闇の帝王を見上げた。
「こうして会うのは、初めてだね──改めて、名乗りを上げましょう」
朗々と。よく通る、澄んだ声で。
「元闇祓い幹部、元不死鳥の騎士団団員──幣原秋、もとい──アキ・ポッター」
そして、優雅に一礼を。
「以後、お見知り置きを」
誰もいないホグワーツは、驚くほどに静まり返っていた。静けさが、逆に耳に痛い。
湖の音は、こんなにも大きかったのか。鳥の鳴き声は、ふくろうの羽ばたきは、こんなにもうるさかったのか。
レイブンクロー塔へと、歩みを進めた。何度も何度も、歩き慣れた道だった。
レイブンクロー寮の扉の前に立ち、鷲のノッカーに手を伸ばした。一度、軽く打ち付ける。途端、鷲の嘴から歌うような声が零れた。
『生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答えは?』
「ちょっと、なんで知ってんの。読んだの? 君の脳の在り処を突き止めたいよ。脳というか、知識の源をさ」
苦笑するぼくに、鷲は楽しげに答えた。
『ロウェナ・レイブンクローの叡智の前じゃ、君も赤ん坊と同じであるということよ』
「あっはは……違いない」
答えを告げる。
開いた扉の先に進んだ。人気のない談話室を抜け、男子寮の階段を上る。部屋の扉を押し開いた。
綺麗さっぱり片付いた部屋の中、ぼくのスペースだけが、手付かずで残っていた。
机の上に、一枚の紙が置いてある。羊皮紙に殴り書きされた文字だ。署名はなかったが、乱雑ではあるものの育ちの良さが現れた小綺麗な文字に、思わず苦笑する。手を触れずに、目を離した。
ベッド脇の机、上から二番目の引き出し。指を鳴らして解錠すると、引き出しを開けた。手を伸ばす。
一年の、クリスマスに送られてきたロケット。幣原秋の両親の、形見。
首の後ろで、チェーンを止めた。下げたロケットを、左手でぎゅっと握り締める。
顔を、上げた。
七月三日、
ちょうど同時刻、魔法省、聖マンゴ、魔法警察局、グリンゴッツ、漏れ鍋、三本の箒──その他名所およそ五十ほど──に、突如モニターが出現した。耳に、あるいは目にした魔法使いや魔女の総数は、五万を下らないであろう統計が、既に報告されている。
『……あ、あー。これ大丈夫? ちゃんと聞こえてるかな? 見えてるかな? えー、コホン』
映し出されたのは、一人の少年。長い黒髪を一つで括った、楽しげな笑みを浮かべた少年だった。
『ご存知の方も、初めましての方も。こんばんはー、ちょうど今はお夕飯時かな? ご飯食べる手はそのままでいいよ、お仕事中の方も耳だけ傾けてくれりゃあいいから。んー、なっかなかねぇ、ぼくの顔は知られていないから。あ、ラジオもジャックしてんだっけ。なんだよそれじゃあぼくの顔見えないじゃん早く言ってよ!
……はてさて。ぼくの名前は幣原秋。もう皆、平和な時代にボケすぎて忘れちゃった? かつて『黒衣の天才』と呼ばれ、日刊預言者新聞で虚像の英雄やってた存在、忘れちゃったかな?
……忘れたのならば思い出せ。初めて聞いたのなら、そのシワが見当たらない脳みそに刻んどけ! よくそんな間抜け面晒せるもんだ。見えてないだろうって? ぼくくらいになると見ずとも分かるのさ。
いいかいよくよく聞いてくれ。今から大事な話をするからね。君たちの命にダイレクトに関わる大事な話さ。はい、全国のパパさん、姿勢正したかな? 話半分に聞いても構わないよ、その場合命の保証はしかねるけどね! 皆々さん準備は出来た? じゃあ言うよ、『黒衣の天才はヴォルデモートと手を組んだ』! もう一度言っておこう、『黒衣の天才はヴォルデモートと手を組んだ』! ヴォルデモートって言葉が嫌なら、例のあの人でも闇の帝王でも構わんさ。
いいかい、この意味が分かるかい? かつての闇の時代を知っている人間には、この悪夢が理解出来るだろう。闇の時代を歩んだ者は、ぼくの言っている言葉の意味が分かるだろう。戦争? 違うよ。これは統治だ。アルバス・ダンブルドアはもう死んだ。ぼくらを止められる者がいるならば、ぼくらの前に立ち塞がる物好きがいるならば』
そこで少年は言葉を切り、不敵な笑みを深くした。
高らかに。声を限りに、張り上げる。
『いくらでも掛かってくるがいい!』
──午後六時四十四分ちょうど。イギリスのあらゆるところに出現したモニターは、現れたときと同様に唐突に掻き消え、『ロンドン・マジック・タイムス』は、先ほどの二分間が夢だったように、変わらぬ音楽を流し続けていた。
しかし、今の二分間が夢でも幻でも幻聴でも幻覚でもないことは、確かに私が、私こそが、ルーファス・スクリムジョールが! 確かに理解した、理解した、理解した!
至急会議を開く。この先どう振る舞うかを決定付けねばならない。
あんな無茶苦茶な放送を、まさか魔法大臣が信じるのかって?
信じるに決まっている。
幣原秋の恐ろしさを、私はよく知っている。かつての部下として、幣原秋をよく見知っている。あれの異常さを、異質さを、とんでもなさを、あの、切れ味を!
幣原秋の弔辞を読んだのは、私なのだぞ!
──ルーファス・スクリムジョールの手記より抜粋
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