「結局──それで、よかったの」
真っ白な部屋だった。どこを見渡しても真っ白の世界。
声を掛けられた
「──秋」
ぼくとまるっきり同じ顔。少し向こうの方が大人びて見えるのは、彼がぼくより幾つか歳上の外見をしているから。それ以外は、何一つ変わらない。
だって、ぼくは彼なのだ。そして、彼はぼくなのだ。
「……ごめんね、秋。ぼくが、全部決めちゃった」
ぼくは笑った。秋は笑わず、沈鬱な表情を浮かべてぼくを見る。
「なんで、謝るの」
「……そりゃあね、謝りたくもなるよ。だって本当はさ、ぼくの人生って、ぼくの生きてきた日々って、君の未来を上書きしていたようなもんなんだよ……人、一人の人生食い潰して、生きてたんだよ」
「…………っ」
秋は刹那に、瞳を揺らせた。
「あ……謝らなくちゃいけないのは、ぼくの方だよ。ぼくこそ、君に謝って……今までありがとう、ぼくの代わりに生きてくれてありがとうって、そう……言わなくちゃ、いけないのに。ぼくは死んでしまいたかった。死ぬことすら世界に否定されて、最後の悪足掻きとして君を造り出した。……君に恨まれるべき人間だ。君に、蔑まれるべき人間なのに。……どうして! そんな顔でぼくを見るの?」
「……何、言ってんの」
息を吐いて、微笑んだ。
「ぼくを造ってくれてありがとう、秋。君がいなかったら、ぼくもここにはいないんだよ。とっても……人として生きるのは、楽しかったよ。たとえ偽物だとしても、君というオリジナルから作られたレプリカだとしても、使命を埋め込まれた人形だとしても……それでも、嬉しかった」
秋。君は。
ぼくの、全てだ。
秋の手を取る。冷たい手は、僅かに震えていた。あぁ、これは全て、夢なのだ。
「ねぇ、秋。きっとね、あともう少しだ。先はそう長くない。ダンブルドアは死んだけれど、ハリーにやるべきことを残してから逝ったはずだ。言い換えれば、ダンブルドアは自分が逝ってもどうにかなるだろうと思って逝った──ならば、あともう少しで、全部の決着が付くはずなんだ」
秋のような、純粋な笑顔は浮かべられない。けれど、せめて精一杯の笑顔を、ぼくは浮かべてみせた。
「だから、ぼくのワガママを聞いて。アキ・ポッターが必要とされなくなるまで──ぼくで、いさせて。ぼくの好きに、振る舞わせて」
秋の表情が、くしゃりと歪んだ。目を伏せ、痛みを堪える顔つきになる。
しばらくそのままでいたが、やがて秋は顔を上げ、ぼくの両目をしっかりと見据えた。
「分かった」
「……ありがとう、秋」
──『この状況』を設定したのは、闇の帝王本人だった。貼り付けた無表情の下、セブルス・スネイプは密やかに苦いものを飲み込んだ。
信じられないほど重苦しい空気。身じろぎすらも出来ない、物音一つ立てられない、呼吸音ですらも押さえるほどの──殺気。
自分に向けられていなくとも、ただこの場にいるだけでこんなにも痛いのだ。それなのに、自身に向いた殺意の全てを一身に背負っている目の前の少年は、普段と変わらぬ余裕げな笑みを浮かべていた。
「初めましての方も。そうでない方も。初めまして、幣原秋です。以後お見知り置きを」
「……アンタを見知り置け、と?」
言葉を発したのはベラトリクス・レストレンジだ。凄絶な笑みを面に貼り付けている。この場に数多いる死喰い人の中でも、強烈な殺気を少年へと向けていた。
「アンタと? あたしらをアズカバンへと突っ込んだアンタと、一体これからどうやってお手手繋いで一蓮托生して行こうって言うんだ? 一体何人がアンタにブチ殺され何人がアズカバンにブチ込まれたと思ってる!」
「別にここに居る人たち皆、一蓮托生ではないと思うよ」
涼やかな声だったが、僅かな冷ややかさも伴っていた。
少し顎を上げ、少年はぐるりと卓を囲む人を見渡す。その視線に、大多数は顔を伏せた。
「勘違いしないでよ。ぼくは闇の帝王に誓えど、アンタらに従う訳じゃない。──身の程を知りなよ」
──本当に豪胆だ。これがかつての友、幣原秋の姿だろうか。引っ込み思案で人見知りな、幣原秋と──
否。そうでないことをセブルスは知っている。ここにいるのは、こうして『幣原秋』として喋っているのは、幣原秋に『造られた』存在、アキ・ポッター。
アキは左の袖を捲ると、細い前腕を晒した。そこに『闇の印』が刻まれていることに、何人かは息を呑み、何人かは目を逸らす。
「──伊達や酔狂でここに立っている訳じゃない」
淡々とした、声だった。
この印をアキが刻み付けたときのことを、セブルスは思い返していた。
大人の男でも悶え苦しみ吐き出す悲鳴を、アキは理性で飲み込んだ。砕けるほどに奥歯を噛み締め、右の拳を震えが見て取れるほどに強くつよく握り締めながらも、瞳の光を失わせることも、瞳を揺らがせることすらもしなかった。
──きっと、秋は願ったのだ。
自らの魂の欠片に。強く在れ、と。前を向け、と。
目の前のアキは、瞳を煌めかせ口を開いた。
「忘れんなよ。ぼくは『黒衣の天才』幣原秋だ。前線から退いて長いけれど、いざとなりゃこの家の結界全て粉々にぶち壊した挙句アンタら全員殺して逃走することだって出来るんだぜ」
その言葉に、静かに場が震撼した。言葉を放ったのが、自分の子供ほどの年齢の少年だからと言って、囲む大人に侮る色は一切見られない。
かつて敵だったからこそ──徹底的に理解していた。
「秋よ。あまり脅しつけるでない──ある程度の寛容は必要だ。目下の者に対する慈悲とでも呼ぼうか」
そう言って、闇の帝王はアキの肩に手を置いた。そして、自身の隣の席へ座るよう誘導する。
「さて、話を再開しようぞ」
その言葉を皮切りに、中断されていた会議が始まったが、しかし雰囲気が明らかに変化したのは否めなかった。
誰もが、少年を伺っていた。それに闇の帝王が気付いていない訳でもあるまいに──いや、態と、そうさせているのか。
ドラコ・マルフォイは、凍りついた表情でアキから目を逸らせずにいた。視線に気付いたアキは、しかし一切興味関心を向けぬ瞳のままに目を逸らす。全く、役者だ。
「世界全体でも……純血のみの世になるまで、我々を蝕む病根を切り取るのだ」
闇の帝王は、ルシウス・マルフォイの杖を上げると、テーブルの上で宙吊りになっている魔女を狙い杖を振った。息を吹き返した魔女は呻きながら、拘束を外そうと足掻く。
「セブルス、客人が誰だかわかるか?」
闇の帝王が尋ねる。顔を上げた魔女と、目が合った。
「セブルス! 助けて!」
怯え切った悲痛な声だ。
奥歯で舌を噛む。余計な感情を出さぬように。余計な言葉を吐かぬように。
「なるほど。お前はどうだ? ドラコ」
ドラコは肩を震わせ、パッと首を横に振る。顔くらいは見たことがあるだろうが、知らないのは事実だろう。
「お前がこの女の授業を取るはずはなかったな。それではお前はどうだ? ──秋」
アキは感情を読まさぬ瞳でじっと魔女を見据えていたが、静かに口を開いた。
「ホグワーツ魔法魔術学校マグル学教授、チャリティ・バーベッジ女史」
「アキ……アキなの? どうしてこんなところにいるのっ、お願い、助けて!」
「いい子だ、秋。そう。バーベッジ教授は魔法使いの子弟にマグルのことを教えておいでだった。何でも? 奴らが我々魔法族とそれほど違わないとか……」
アキの頭を愛おしむように撫でながら、闇の帝王は嗤った。ここは笑うべきところなのだ、と察し、死喰い人らも笑い声を漏らす。しかしアキは、ピクリとも表情を変えなかった。
「アキ、お願いよ……あなたなら助けられるでしょう、私はあなたのことを知っているわ……優しくって、賢くて気が利いて……助けて、お願い……」
「黙れ」
軽やかな一言と杖の一振りで、闇の帝王は魔女を黙らせた。
「可哀想になぁ、秋。この女のくだらぬ授業なぞを受けなければならぬ羽目になるとは。生徒は教師を選べない、ホグワーツでは。さて、魔法族の子弟の精神を汚辱するだけでは飽き足らず、バーベッジ教授は先週『日刊預言者新聞』に穢れた血を擁護する熱烈な一文をお書きになった。我々の知識や魔法を盗む奴らを受け入れなければならぬ、と宣うた。純血が徐々に減ってきているのは、バーベッジ教授によれば最も望ましい状況にあるとのことだ。我々全員をマグルと交わらせるおつもりよ。もしくは、勿論狼人間とだな……」
怒りと軽蔑が篭った声だった。底冷えのする激情に触れ、今度は誰一人として笑い声を立てはしない。
「最期の慈悲だ。一言だけ、喋らせてやろう」
魔女に杖を向け、闇の帝王は言う。口が自由になった魔女は、涙に濡れた顔を向け、アキを見た。
「信じて、いたのに……」
「アバダ・ケダブラ」
緑の閃光に、アキは目を瞑った。魔女の身体はテーブルの上に落ち、死喰い人の何人かは息を呑んで飛び退いた。
「眩しかったかな? 秋」
「……次は予告してくれると助かるなぁ」
「それは済まなかった。見慣れた閃光であると思っていたのだがな。最期は自らの生徒に対し恨み言とは、全く見上げた教師だ。秋……お前もそう思うだろう?」
紅い瞳が、アキを見る。
「あぁ、その通りだよ」
──漆黒の瞳は、一体何を想っているのだろう。
「ナギニ、夕餉だ」
優しい声は、冷え切っていた。
いいねを押すと一言あとがきが読めます