プリベット通り四番地。今までは二人で使っていた寝室は、今となってはハリー一人。本来なら一人部屋であり、適正なサイズであるはずのそれは、いつもいたはずの少年が一人いないだけで、随分と空々しい。
「アキが裏切った、か……」
新聞を手に取り、ベッドに横たわると広げた。
日刊預言者新聞は連日沸き立っていた。アルバス・ダンブルドアの悲報と、あと──『黒衣の天才』幣原秋、彼のことで。
七月三日。イギリス魔法界随一のラジオ『ロンドン・マジック・タイムス』がジャックされ、また同時にあらゆる魔法界の重要ポイントにてモニターが出現した。
短い二分間、その間に語った少年の言は、すぐさまイギリス全土を席巻した。少年の言を、たまたま録音していた人物がいた。その者が日刊預言者新聞に録音テープを回したらしい。いまや少年の言葉を知らぬ者はいなかった。
中面に、デカデカと広告が載っていた。『アルバス・ダンブルドアの真っ白な人生と真っ赤な嘘』広告のすぐ隣だった。
「『リータ・スキーター女史、次回作は《黒衣の天才》の過去をすっぱ抜く! 八月下旬発売予定!』……」
読み上げ、気分が悪くなった。身を起こす。
『黒衣の天才』幣原秋の──アキの、記事。
「…………」
欲しいなぁ、と思ってしまうことが、腹立たしかった。
自分が一番、アキのことについて知っているはずなのに。ずっとずっと、アキと一緒だったのに。真実か嘘かもあやふやなリータの本を、欲しいと考えてしまうなんて。
──でも、アキが教えてくれなかったんだ。
ハリーが聞こうとしなかったからじゃないのか?
「うるさい……やめろ」
頭を振ると、新聞を閉じ、ベッドに叩きつけた。部屋を出る。
居間には、ダーズリー家の三人が勢揃いしていた。バーノン・ダーズリーはハリーを睨むと、唸るように告げる。
「気が変わった。わしらは行かん」
「そりゃ、驚いた」
「お前の言うことなど一言も信じるものか。わしらはここに残る。……お前が言うには、わしらが狙われとるとか。相手は──」
「『僕たちの仲間』、そうだよ」
愛想尽かしながらも呟いた。
「わしは信じないぞ。これはお前の、家を乗っ取る罠だろう!」
「家? どの家」
「この家、わしらの家だ! このあたりは住宅の価値がうなぎ上りだ、邪魔なわしらを追い出して、あっという間に権利証はお前の名前になって──」
「おじさん気は確か? 顔ばかりか頭までおかしくなっちゃったの? 僕にはもう家がある、名付け親が遺してくれた家だよ。それなのにどうして僕がこの家を欲しがるって訳? 楽しい思い出がいっぱいだから?」
──まぁ、アキと過ごした日々は、悪くはなかった。
二人で手を繋いで、自分たちが魔法使いとも知らないままに、ただただ二人で守り合い生きてきた。
苦いものを飲み込んだ。アキは今、ここにはいない。
「……全部説明したはずだ。僕が十七歳になれば、僕の安全を保ってきた守りの呪文が破れる。そうしたら、おじさんたちも僕も危険に晒される。騎士団は、ヴォルデモートが必ずおじさんたちを狙うと見ている。僕の居場所を見つけ出そうとして拷問するためか、さもなければ、おじさんたちを人質に取れば僕が助けにくるだろうと考えてのことだ」
バーノンはしばらく黙りこんだ。
その時ヒュイッと風を切る音と共に、一通の手紙が舞い込んでくる。手紙は優雅に滑ると、ペチュニア・ダーズリーの元に過たず届いた。ペチュニアは青褪めた顔のまま手紙を震える手で開く。
数秒経って、彼女は毅然とした眼差しで夫のバーノンを見た。
「この家を出ましょう、バーノン」
「しかし、ペチュニアや……」
「ダドリー、準備は終わった?」
ペチュニアはバーノンの言葉を無視して息子のダドリーに声を掛ける。ハリーはペチュニアの手元に握られた手紙を見、尋ねた。
「一体誰からなの?」
マグルの郵便ではないことは確かだ。マグルの手紙は飛んではこない。
となると、魔法使いからの手紙だろう。しかしそれにしては、随分と落ち着いているのが気になった。魔法嫌いのペチュニアなら、一体誰からであれ驚愕しそうなものだが……。
ペチュニアはハリーの質問には一切答えず、自らも最後の支度をするため背を向けた。
鈍い音が、部屋に響いた。激情を瞳に迸らせながら、アキ・ポッターは石造りの壁を手加減なしに殴りつける。一度たらず、二度、三度。指の骨がイカレるぞ、そう思い慌ててセブルスは手を伸ばすも「触るな!」と低い声で凄まれる。弾けた殺気に手を引いた。
数度殴って少しは満足したのか、肩を震わせながらアキは深く、深く息を吐いた。目を閉じ、石壁にゆっくりと凭れかかる。
「……守れなかった、ことが、腹立たしいだけだから。大丈夫、ぼくは……」
「その顔でよく、大丈夫だと抜かせるものだ。……守れなかったのはお前だけではない。私もだ」
「だから何、気にするなって? 考えるなって? 残念だけれどぼくはそういう風には出来ていない。幣原はそういう風にぼくを造ってはいないんだ」
前髪を引っ張りながら、虚空を睨みアキは呟いた。危なっかしい色の瞳だった。
「目の前で、仲間が死んだ時……一人になって、部屋で荒れていた幣原を見ててさ……そんなになる程のものか? って、正直思っていた。あぁ、でも、これはダメだ……ダメ、だよ……」
アキの、血が滲んでいる左手を掴んだ。そのまま部屋へと連れて行く。椅子に座らせると、治癒呪文を唱えた。
「……どうしてあそこで、目を瞑った?」
尋ねる。
そこが、疑問だった。この少年は、自らの眼前で行われた殺人を、目を逸らすよりもむしろはっきりと目を見開くような人間だと、勝手にそう考えていたから。
「幣原に気を遣った」
答える声は、淡々としていた。
「あいつは、幣原は……人が死ぬ様から、目を逸らさないから。あいつは決して忘れない。どんな凄惨な死に様からも、あいつは決して目を逸らさない。それが、自分に与えられた罰だとでも言うように受け止める。……バカなんだ。忘れることは、苦手なのに」
そこで言葉を切って、アキはゆっくりと首を振った。息を吐き、項垂れる。
「ぼくが守ってあげないといけないんだ。不安定なあいつの全てを知って、支えてあげられるのはぼくだけだ……ぼくはあいつの全てを知っている。あいつの弱さも、脆さも……」
ぎゅ、と眉が寄せられた。両の拳が握られる。
もし、目の前にいる少年がアキでなく、幣原秋であったなら。自分は躊躇なく、震えるその手に手を重ねられたのだろうか。
そんなどうしようもないことを、考えた。
「……アキ」
カタン、という物音に、振り返る。瞬間だった。
黒い風が隣を駆ける。気付いた時には、アキはワームテール──ピーター・ペティグリューの喉元を押さえ、壁に押し付けていた。
「……いいかピーター」
押し殺した声だった。
二人の背丈は、あまり変わらない。アキはワームテールの襟首を掴むと揺さぶった。必死な瞳だった。
「ぼくはお前を許さない……っ、ジェームズとリリーを裏切って、シリウスと幣原秋をも陥れたお前を許さない! だがひとつ教えてくれ、どうしてお前はぼくに、あそこで電話を掛けてきた? どうして電話で『ハリーを守って』なんて──どういう意図でそんな言葉を吐いたんだよ! 答えろよピーター・ペティグリュー!!」
ワームテールは苦しげに呻いた。止めようとセブルスは立ち上がる。
その時だった。ワームテールの銀色の腕が持ち上がる。その腕は人体の可動域を超越して、ワームテールの首に手を掛けた。ハッとアキは息を呑むと、ワームテールから手を離し、代わりに杖を抜き一文字に横薙ぐ。
銀の腕に魔法陣が一瞬浮かび上がると、やがて光の粒子となって掻き消え、銀の腕は力なく重力に従い垂れた。
「……なるほど、呪いか。ヴォルデモートから貰った腕だよね……どういう条件で発動するんだろう……」
アキは呟いていたが、我に返ったように頭を振った。
ワームテールは蹲り、恐怖に喘いでいたが、やがて大粒の涙をぽろぽろと零し始めた。アキの前に両手を付くと、頭を下げる。
「ごめん……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……!! 何度謝ってもどう謝ってもどうしようもない、本当にどうしようもないことをしたのは分かってるんだ、僕が全部壊してしまった、僕が、僕が……!!」
それは命乞いであるのか、それともかつての友情の残滓であるのか、セブルスには判断が付かなかった。アキ・ポッター──幣原秋という強烈な才を持つ者、彼の不興を買わぬよう媚び諂っているのか、それとも純粋に謝罪しているのか、判別が出来なかった。
しかしアキは、後者と取ることにしたようだ。アキは、そういう人間だ。セブルスはそのことを、よく知っていた。
「……ねぇ、ピーター」
外聞もなく這いつくばる男を見下ろし、アキは声を掛けた。
「どうしてあの時、幣原秋に『ハリーを守って』なんて言ったの?」
ぶるりと、ワームテールは大きく背中を震わせた。くぐもった声が、低い場所から漏れる。
「……ジェームズが、最後にそう、言ったんだ……」
「……そう」
アキは目を閉じた。両手で顔を覆うと、深いため息を吐く。
両手を下ろした後には、普段通り強い意志を宿した瞳があった。
「ぼくに協力して、ピーター・ペティグリュー」
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