ヴォルデモートはとりあえずハリーを捕まえ損ねたようだった。ぼくにとっては救われる知らせだ。
羊皮紙はヴォルデモート自身の手で灰になったため、もうぼくがハリーを害することはきっとない。それだけの事実に、心の底からホッとした。
地下牢に再びぶち込まれることはなく、ぼくは大手を振ってホグワーツを歩くことを許された。自分のベッドで眠りたいのは山々だったが、まずはスネイプ教授に会わなくては。
在室しているかどうかは賭けだったが、その賭けには見事勝ったようだ。もっとも、いなかったところでソファに身体を沈めておこうとは思っていた。
ぼくを迎えた教授は、瞳を揺らして安堵の声を漏らした。
「無事、だったのか……」
「あっはは……心配掛けたね、ごめん」
せめて元気そうに笑ってみせる。心は屈していないのだと証明するように。
「君に累が及ぶことがなくって、本当に良かった。大丈夫だった?」
「あぁ……少々痛めつけられたくらいだ。これからの計画に関わるようなことは一切吐いていない」
「本当に?」
冷たく厳しく声を発した。教授はぼくを見、口元を吊り上げる。
「『開心』させても構わない。カウンターでこちらも覗かせてもらうが」
「……じゃあそうしよう。『レジリメンス』」
やすやすと相手の心に入り込んだ。同時にこちらの心にも踏み込まれている。
互いにそう荒らす気はない。直近の記憶数日分を矯めつ眇めつ見やると、問題ないと判断した時点で手を引いた。
「オッケィ、信頼しよう」
「そうして貰わないと困る」
ぼくらのどちらかが暖色寮所属なら、きっと今の申し出は断っただろう。ただしぼくらはそれぞれレイブンクロー生とスリザリン生だ。盲目的に、他者は信じていない。
信じるためには確固たる、揺らがぬ証拠が必要だったし、それさえあれば、ぼくらは再び背を預け合うことが出来る。
これから先のことについて二人でしばらく密談を交わした後「飲んでおけ」と薬を手渡された。気付け薬とか、恐らくはその類だろう。
今のところは必要ない──心はまだしゃんとしている。お守りとして取っておこう。
レイブンクロー寮の談話室は、ずいぶんと静かだった。見渡しても誰一人としていない。そういえば、もうクリスマス休暇に入っていたのだ。色んな感覚を失っていた。きっと今日は、静かに眠れることだろう。
ゆっくりした足取りで、男子寮の階段を上がった。眠ってもいいが、それよりも風呂に入りたい。
劣悪な環境下、魔法によって身体自体は清潔なのだが、それでも一通り身を清めたかった。
「あ」
「え」
レイブンクロー男子寮の風呂場を開けると、そこには驚いたことに先客がいた。
いやまぁそれは構わない。問題なのはその人物だ。
ネクタイを外しシャツを脱ぎ、その下の黒のインナーを今にも脱ごうとしている彼、アリス・フィスナーもまた、ぼくと同じように目を瞠った。
「……よっす」
「お、おぉ……」
多分ここで会ったんじゃなかったら、もう少しまともな挨拶が出来たのだと思う。
一週間と少しぶりの再会にしては、何ともまぁ気の抜けるようなタイミングだった。
「……大丈夫か」
「うん」
「嘘つきが」
くつくつと笑いながら、アリスは黒のインナーを脱ぎ切った。割れた腹筋に、いいなぁと羨望の目を向ける。
アリスはそのまま、今度は脱いだはずのローブを探ると、やがて一枚の羊皮紙を引っ張り出した。ぼくにホイッと投げ渡す。慌てて受け取った。
「え、これ……」
ダンブルドアとの約束『全校生徒の願いを叶えろ』という、あの羊皮紙だった。ぼくが最後に見たときよりも、随分と残った名前が減っている。
「……や、え、やっておいて、くれたの?」
「お前がとっとと帰ってくりゃあ、俺の手間も省けたはずなんだがな」
聞き慣れた憎まれ口に、何だかホッとした。
「
呟くぼくを尻目に、アリスは風呂場へ向かってしまった。羊皮紙を畳むと、ぼくも手早く服を脱ぎ、髪を解く。
身体を濯ぐと、アリスは既に湯船に浸かっていた。髪を纏めタオルに包むと、そろそろと足先から湯に入る。細かい傷が湯に晒されて痛むが、それでも心地よさが勝った。
「傷増えたなぁ、お前」
アリスがぼくを見ながら言う。そうかなぁ、そうかもなぁとこちらも返して、湯の中に身を沈めた。
「普段は、腹の傷も腕の印も手の甲の傷も全部目くらまし呪文で隠してんのに、今日はしねぇんだ」
「アリスしかいないし構わないかなって。それに今、杖を人に貸し出しているんだ」
「へぇ、誰」
「セドリック・ディゴリー」
アリスは思いっきり湯を飲んでしまったようだった。ゲホゲホと苦しげに咳き込む。
「マジかよ……」
「大マジさ」
首の後ろが痛む。どうしたかなぁと擦っていると「アキ、ちょっと来い」と手招きされた。
近寄ると、身体を反転させられる。今触れていた首の後ろをじっと見て「なんか刺さってんな」とアリスは呟いた。
「あー、多分ガラス片だ」
「なんでだよ」
「酒瓶で殴られた」
「お前は、ったく……抜くか?」
「お願い」
ビッと皮膚が裂ける感覚。痛いが声を上げるほどじゃない。
何度かの痛みに耐えた後「終わったぞ」と声を掛けられた。指を鳴らして治癒呪文を傷口に施す。
「ありがとう、助かったよ。自分じゃ見えないし」
「普段髪に隠れるところだしな。礼を言われるようなことじゃねぇ。本当にお前死ななくってよかったなぁ、頸動脈切ってたらさすがに死んでんじゃねぇの」
「ふふ……運が良かったんだ」
バカ言ってんじゃねぇよ、とアリスは力ない声で呟いた。
しばらくぼんやりと黙り込んでいたが、やがてアリスは口を開く。
「……なぁ、アキ。俺を使え。お前の心のままに、動いてやるよ」
「……一体どうしたの、急に」
「急じゃない。ずっと考えていたことだ……」
アリスは視線を虚空に彷徨わせ、静かに言った。
「お前の描こうとしている未来は、確かに俺が望むものと一致してんだよ。だから、俺はお前に協力したい。そういうことだ、それでいい」
「……ねぇアリス。覚えてる? むかーし昔にさぁ、フレッドとジョージの双子が、ぼくと君のことを『アキ殿下とフィスナー卿』って呼んでたの」
にやりと笑う。アリスも笑みを返した。
「呼ばれたいのか? 殿下様よ」
「……っふふ、何様のつもりだい? フィスナー卿」
ぼくら二人の笑い声が、浴室に木霊した。何だか、すごくホッとした。
「お前はとんでもない嘘つきだよ。平気で嘘つくわ誤魔化すわ、しかもそれに対する罪悪感が欠片もない。そうだろ? 現にさっき俺が『大丈夫か?』と聞いて、淀みなく頷いた。天性の嘘つきだ」
碧の瞳が、まっすぐにこちらを向いている。
否定は、出来なかった。
「……ごめん」
チャプン、と水音が響く。
なんの気なしに左腕を見つめた。忌まわしい『闇の印』。両親の死体の上に浮かんでいたあの印を、これを見るたびに思い起こす。
「でもさ……でも」
ぼくを見るアリスの眼差しは、それでも優しかった。
「それでも皆がお前を信じてんのは、お前は絶対、人を裏切るような嘘はつかないって知ってっからなんだよ。お前の嘘は、全部人を思っての嘘だって、分かってんだよ」
──あぁ、アリスは気付いているのか?
その言葉一つで、どれだけぼくが救われるのか。
勢いよく、両手で自分の顔に水を掛ける。アリスはその勢いに驚いたようだった。
「びっくりした……なんだ、いきなり」
「何でもないよ!」
涙は見せない。ただ前だけを向いて、歩み続けよう。
それが、ぼくに付いてきてくれる人に対する、ぼくが出来るたった一つのことなのだと、信じよう。
少し、頭がボウッとするようだ。湯あたりしたのかもしれない。
湯船から立ち上がり掛け──そこで、意識が飛んだ。
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