「……僕は」
──死ななければならない。
ハリーは服の上から心臓を抑えた。どくどくと耳の裏で鼓動が脈打つ。
先ほどのヴォルデモートの放送も、ついでに脳裏に蘇った。
校長室の『憂いの篩』。その中で見た記憶は、鮮明だ。
きっと、恐らく、永遠に。
アキに知らせてはならない。知らせれば、余計にあの少年を苦しめる。
ホグワーツをゆっくりと歩いた。およそ一年ぶりに訪れたホグワーツであるというのに、もう二度と足を踏み入れないことを知っているのは、何だか妙な気分だった。
ネビルの姿を見つけ、呼び止める。ヴォルデモートの近くにいる蛇、ナギニを殺すよう頼むと、ネビルは頷いたものの探るような眼差しを向けた。
「ハリー、捕まりに行くんじゃないだろうね?」
「違うよ」
静かに嘘をつき、微笑んだ。この表情を、そう言えばアキもよく浮かべていたっけ。
呼吸をするように、嘘をつく奴だった。
「僕が、アキを悲しませるようなことをする奴だと思うかい?」
そう言葉を並べてやれば、ネビルは押し黙った。それもそうか、と思ってくれたのだろう。
──これでいい。
「……あと、これも」
思い出した。これから死ぬのならば、このブレスレットは邪魔になる。
三大魔法学校対抗試合の折、アキが作ってくれたもの。手放すのは、なんだか少し惜しかった。
「きっと、君の身を守ってくれる。だから──」
「ハリー、それはいらないよ。アキは全校生徒全員に魔法具をばら撒いた。それはむしろ、君が持っておくべきものだ」
厳しい口調でネビルは押し戻した。まさか断られるとは思ってもおらず、少し途方に暮れる。
まぁ最悪、森のどこかで捨てればいいだろう──アキからもらったものを捨てるなど、心は痛むが。
ホグワーツ城の門で、ジニーを見つけた。傷だらけではあるが、元気そうだ。
一人だったため、後ろから声を掛けた。透明マントを脱いだハリーに、ジニーは目を見開いて少し笑った。
「……久しぶりね、ハリー」
「あぁ……久しぶり、ジニー」
そうだ、ジニー。少し前にビルやチャーリーを見た。きっと何処かで戦っているのだろう。少しでも、役に立てるのならばきっとそちらの方がいい。
「会いたかった……これを、君の兄の誰かに渡してくれ。きっと身を守ってくれるから」
それだけを早口で言うと、駆け出した。あまり長々と話していると、心が恐怖に屈して何もかもをジニーにぶちまけてしまいそうだった。
振り切ったと確信してから、足を緩める。気付けば、森に入っていた。
首から掛けた巾着から、スニッチを引っ張り出した。
『私は終わる時に開く』、その時は、今以外にどこにあるというのか。
「僕は、まもなく死ぬ」
スニッチを唇に押し当て、囁いた。
手の中に転がる、黒い石。『蘇りの石』──
目を瞑って三度、手の中で転がした。そして、目を開けるとぐるりと周囲を見渡す。
自身を囲む、四つの影。自身の父親と母親、そして──
「……アキの、ご両親?」
『せーいかい』
栗色の髪を持つ女性は、にっこりと微笑んだ。アキとよく似た笑顔だと、思った。
ジェームズとリリーも笑みを浮かべると『まさかこんなところでもご一緒するとは』『奇妙な縁ですねぇ』『ありがとうリリーちゃん、そうだ、この前頂いたケーキすっごく美味しかったよー』『アキナその話は少し止めてくれないかな、シリアスが崩れるから……!』などと霊体同士で好き勝手喋り始める。緊張感のないやり取りに呆気に取られるも、やがて笑った。
「あはは……元気そう。なんか、いろいろ……ホッとした」
本当は、死ぬことが怖かった。当然だ。
しかし死者とこうして触れ合った瞬間、不思議なことに今までの胸のわだかまりがすぅっと溶けていくのが分かった。心が軽くなる。
『今まで、秋を支えてくれてありがとうね』
秋の母親はハリーの両頬に手を触れた。感触はないものの、ほんのりと温かみを感じる。その隣で、秋の父親は険しい表情を浮かべていた。
『僕らの世代の間違いを、下の世代に押し付けた。それが申し訳なくって……』
『もう、秋のお父さんったら、心配しないで。私たちはちゃんと、幸せだったよ』
リリーが微笑み、ジェームズを見上げる。あぁ、とジェームズもしっかりと頷いた後、ハリーを優しい眼差しで見た。
『ハリー、死ぬことは恐ろしいことじゃない。いつか必ず、皆がここに訪れる』
「……うん」
しっかりと、頷いた。
「最期まで、一緒にいてね」
気がつけば、真っ白な世界でハリーは横になっていた。明るい靄の中だ。
「……やぁ。こんにちは、ハリー」
正面に、一人の少年が微笑んでいる。
少し身を屈めて、大きな黒い瞳をうっすらと細めて。長く艶やかな黒髪は、後ろで一つに括られている。
愛しい弟に、よく似た──
「幣原、秋」
差し伸べられた手に掴まり、立ち上がった。
立ち上がると、ハリーの方が背が高くなる。
「……君、さっきまで向こうに……アキと一緒に……」
途切れ途切れに言葉を発する。状況が、未だ飲み込めていなかった。
秋は悪戯っぽく微笑むと、軽く首を傾げる。
「だってこれ、君の夢なんだもの。夢ならなんだってアリ、なんだよ」
無邪気に、秋は笑った。そういうものなのかな、と首を傾げつつも、考えても詮無いことだ、と結論づける。
「……君の笑顔が、見たかった。君は今まで、僕の前で笑ってくれなかったから」
ハリーの言葉に、秋は眉尻を下げた。悲しげな笑顔だった。
「ハリー」
呼びかけに顔を向ける。ダンブルドアだった。左腕は萎びておらず、五体満足そのものだった。
「なんと素晴らしい子じゃ。なんと勇敢な男じゃ。さぁ、一緒に歩こうぞ」
呆然としたハリーの背中を、秋は軽く叩いて促す。
醜い子供を見つけ、思わずたじろいだ。小さく、傷ついた赤ん坊だ。息をひそめるようにしながらも、泣いている。
気にかけつつ、ハリーはダンブルドアに疑問をぶつけた。
ダンブルドアは、ハリーの死にどういう意味があるのかを滔々と語った。ハリーの血の意味、分霊箱の秘密、そして死の秘宝とは。
ダンブルドアはハリーの全ての疑問に完全に答えてみせた。ずっと、こうして疑問が氷解する日を待ち侘びていた。
秋は黙って二人の問答を聞いていたが、やがてふわりと立ち上がると、醜い子供をその両の手に抱き上げた。右手に赤ん坊を抱くと、左手に杖を握る。優しい眼差しを赤ん坊に落としながらも、歌うような柔らかな声音で『アバダ・ケダブラ』と告げた。
緑の閃光が一瞬弾け、光が消えた瞬間には、赤ん坊はもう泣くことはなくなっていた。
「……それが、君の慈悲か」
ダンブルドアが静かに呟く。
秋は息絶えた赤ん坊を腕に抱きながら、ダンブルドアを振り返り微笑んだ。
「違いますよ。慈悲なんて言葉は勿体ない。こんなの、ぼくのエゴに過ぎないんです」
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