「アキ、や、もう止めて……」
『叫びの屋敷』は、先ほどの戦いで既にほぼ更地となっていた。その中に横たわるセブルス・スネイプの前で、懸命に浄化の魔法を籠めるアキ──否、幣原秋。
さて、二話前を思い出してもらいたい。幣原秋の杖がどうなったかを。
三十年ほど一人の主人に仕え続けた献身的なあの杖は、先ほど幣原秋の魔力に耐え切れずに砕け散った。構わず彼は、杖なしで膨大な魔力を注ぎ込み続けている。杖腕である左手を、セブルス・スネイプの傷口に押し当て、魔力を籠め続けている。
後、左腕が、杖と同じ末路を辿るであろうことは、簡単に予測出来ることだろう。
現に、ローブから覗く手は真っ赤だった。床の血だまりは、セブルス・スネイプのものと幣原秋のもの、区別がつかない。ローブにまで血は滲んで来てはいないものの、その下のシャツは真っ赤に染まっているだろう。
秋の集中が、ふと揺らいだ。チラリとアクアを見「触らない方がいい。感電するよ」と静かに告げる。秋の背に伸ばしかけた手を、慌てて引っ込めた。
「これがぼくの選択だ……アクアマリン、黙って見ていて」
そこで秋は頭を振った。眉間に右手を当て「うるさいなぁ……」と呟く。
「そんなに厳しい言葉を投げかけたつもりはないよ。あー、うるさい、集中切らす気か。喚くなって。代われ? バカか君は、じゃあ君はこの術式組み立て……は、見てたか。でも魔力の保有量が違うだろ。いいからぼくに任せとけよ……ん?」
浄化の魔法は止めぬまましばらく一人でぶつぶつ言っていた秋だったが、やがてアクアを振り向いた。思わず凍りつくアクアに構わぬまま、アクアを上から下まで眺めると、口を開く。
「……アキから、伝言。『怖い目に合わせてごめん』ってさ。あと『怪我がなくて良かった』って。ちゃんと伝えたからな」
「……後で、自分の口で言えばいいのに」
思わず、思ったことが零れた。
秋は一瞬目を瞠ると、やがてくすりと微笑む。その笑顔に、思わず目を奪われた。想像していたよりも随分と柔らかな笑みだったから。
「本当、その通りだよ」
そう言って再び、研ぎ澄まされた集中が周囲に漂った。手出しも出来ぬまま、アクアはただ秋の隣で、事の様子を見守った。
血溜まりが、じわじわと広がって行く。跪いた秋の制服はおろか、アクアの革靴も、ローブの裾も浸して行く。それをただ見るだけしか出来ないのは、辛かった。
血液を失ったからか、それとも魔力の使い過ぎか、あるいはその両方か、どんどん秋から血の気が引いてゆく。それでも、秋は決してその手を止めようとはしなかった。
やがて──ふ、と糸が切れたように、秋がふらりと倒れ込んだ。彼の身体が血の海に落ちる前に、反射的に身を支える。そう言えば先ほど『感電するよ』とか言われたのだっけ、などと遅れて思い返すも、触れた感触は柔らかな人体のものだった──もっとも、随分と冷え切っていたが。
「……っ、う……」
荒い息で崩折れた彼は、ぎゅっと強く目を瞑っていたが、やがてハッとしたように目を開けた。黒い瞳がこちらを向く。アキだ、と直感した。
瞬間、信じられないほど強い力で抱き締められた。血に濡れた地面に転がりながら、アクアを右腕一本で抱き締めている。
「ひと、まず……なんとか……よかっ、よかった……」
荒い息の狭間で聞こえた声に、身を震わせた。ホッとアクアも安堵する。
「……って、あなたも!」
慌てて身を起こすと、アキのローブに手を掛けた。そのまま左肩を引きずり出すと、シャツのボタンも開け放つ。左肩から下の惨状に、息を呑んだ。
惨状──その表現がピッタリだった。《《ずたずた》》であった。アキは右手でアクアを押し止めたが、本当に微かな力だった。先ほどアクアを抱き締めたのが、きっと最後の力だったのかもしれない。
震える手で、自身の杖を抜いた。実家にあった本からかつて得た、解剖学の薄い知識を引っ張り出し、大きい血管から順に繋いで行く。
しかしその最中、異変は起きた。左の指先から、すうっと色が変わって行く。色は段々濃くなり、最後は漆黒へと変わって行った。指先だけではない、その変化は手首を、上腕を、肘上を這い上がり、左肩の手前でようやく色の侵食は止まった。
「な、何……?」
アクアの声に、アキは首を回した。左手を見ると目を細め、恐る恐る右手で触れる。感触を確かめるようにした後「何だろうねぇ」と普段通りの口調で首を傾げた。
「い……痛く、ないの……?」
血の気はないものの、顔を顰めたりといった苦痛の表情をしていないアキに尋ねる。んー、とアキは微かに笑った後、諦めたように首を振った。
「……あはは。言ったら怒られるかなーなんて思っちゃって……うん。あのね、実は痛くない。痛覚トんでるのかそれとも痛い!」
躊躇なくアキの頬を叩いた。こちらの痛みは感じるようだから、脳の神経回路の問題だろう。そう思っていたのだが、アキの考えは少し違ったようだ。
「……幣原が肩代わりしてくれているのかも。まぁもしくは、この腕の痛覚がもう役目を果たしてないんだ……しかし初めて見るケースだなぁ、ぼくは魔法医学にはあんまり明るくないんだけど、面白い障害を引き起こすこともあるんだね。一体何なんだろ魔法って……」
「……全く、あなたって人は……」
思わず苦笑した。どうしてそこでそういう方向に頭が行くのか。本当に信じられない。
動かない左腕を隠すように、アキはローブを纏った。血に染まり切ったレイブンクローのローブは、裏地が紫色に変化している。
そして再びセブルスに駆け寄った。セブルスも顔色は悪いものの、傷口は塞がれ、呼吸も安定しているようだ。アキは大きく安堵の息を吐いた。
その時だった。魔法で拡大された声が鳴り響く。弾かれたように、アキが顔を上げた。
『ハリー・ポッターは死んだ! 『生き残った男の子』は完全に敗北した。戦いは終わりだ。抵抗する者は全員虐殺する。城を捨てよ、俺様の前に跪け。さすれば命だけは助けてやろう』
──人が、ここまで絶望した表情を浮かべる様を見るのは、初めてだった。
愕然とした表情で一度身を震わせたアキは、やがてよろよろと立ち上がった。
「……嘘。嘘だ……」
虚ろな足取りで、アキはふらふらと出口へと歩みを進める。その口から、譫言のように言葉が零れた。
「ハリー、ハリー、ハリーハリーハリー……」
見て、いられなかった。痛ましすぎる。
アキの右側に潜り込むと、無事な方の腕を取り、肩を貸す。ハッとした瞳でアキはアクアを見ると、目を伏せ「……ありがとう」と呟いた。
通路を潜り、動かない暴れ柳の隣を抜け、校庭へと出た。学校の玄関側に、黒衣を纏った集団──死喰い人の集団。
その集団の中心に立つヴォルデモートが、アキに目を向けた。隣には震えながらもハリーの亡骸を捧げ持つハグリッドの姿がある。ギリ、と奥歯を噛み締めた。感傷が胸中で荒れるも、今はそれどころではない。
ヴォルデモートは楽しげに、アキとアクアに軽い足取りで歩み寄った。両手を広げるパフォーマンスをしてみせる。
「アキよ、一歩遅かったなぁ? 貴様が守りたいと思っていた存在は、既に死んだ。貴様を大切に思う奴は、誰もが死ぬ。思い返せ、幣原秋。貴様が築いた屍の山を」
アキの、元々不安定だった呼吸が更に揺らいだ。衝動に任せヴォルデモートに歩み寄ろうとするアキを、慌てて引き止める。今この状態で、アキがヴォルデモートに敵うとは思えない。
ヴォルデモートは愉悦を瞳に滾らせ、アキに言葉を叩きつけた。
「貴様は何一つ守れない」
「ぼくは……なにひとつ、まもれない……」
弾みにアキを取り落とした。アキはそのまま座り込むと、肩を落として項垂れる。
そのアキに、ヴォルデモートは杖を向けた。やがてその瞳が、更なる悦びに見開かれる。
「やめなさい、アクア、何をしている!!」
聞き慣れた声が黒衣の集団から聞こえた。焦ってヴォルデモートの一歩後ろに並びこちらを見ているのは、自身の両親、アンバー・ベルフェゴールと、エメラルド・ベルフェゴールであった。
「……あら、父様に母様。来られていたんですか、連絡くらいくださればよかったのに」
「……そうすれば、もっと早く私たちの来襲に気付けたのに、という腹積もりか?」
「えぇ」
チラリと後ろのアキを振り返ったが、アキは心ここにあらずの虚ろな眼差しで、目は開いているが何処にも焦点が合っていないのが一目で分かった。
今までアキに散々守られてきた。私だって、アキを守りたい。
足も、腕も、身体も、全身が震えていた。死への恐怖に怯え竦んでいた。
それでも、アクアは前を向く。昔、前を向かせてくれた少年のために。
「……我が君。あなた様に刃向かった不届きものは、我らの娘です。どうか、我らにこの娘を処断させてはくださいませんか」
「……いいだろう」
「有り難き幸せ……」
ヴォルデモートの瞳が、新たな見世物の存在に煌めいた。親が子を殺す様を、酷く滑稽だと思っているに違いない。
父が、杖を取り出した。ひたりとアクアを見据えるその瞳には、娘に対する慈悲も容赦も見受けられない。母も、父を止める様子はなく、ただ不出来な娘を冷ややかな眼差しで見つめていた。
その姿を見て、アクアは息を吐く。
「……そう。父様も母様も、そうとしか生きられないの。私たちと一緒に生きては、くださらないの」
「出来損ないの娘に用はない」
杖がアクアに向いた。一拍のち、振りかぶられる。
死の呪文が、父の口から零れた。恐怖で思わず目を閉じ、衝撃に備え身構える。
──しかし予想していた衝撃は、訪れなかった。
「……君と、アキに助けられた命だ」
静かな声が、目の前で響く。アクアは恐る恐る、目を開けた。
セドリック・ディゴリーが、目の前に土壁を『出現』させ、立っていた。『死の呪文』の衝撃で、土壁は数拍後砕け散る。
「受けた恩は必ず返す。ハッフルパフ生として」
「姉上、下がっていてください」
セドリックの隣に並ぶ小柄な少年。銀髪の、アクアとよく似た顔の少年、ユークレース・ベルフェゴールは、アクアを振り返りニッと笑った。
城からわらわらと生徒や『騎士団』の面々が溢れ出る。それぞれ強い眼差しで杖を構え、死喰い人の集団を見据えている。
進み出たのは、ネビルだった。不死鳥を肩に乗せ、組み分け帽子を手にしている。組み分け帽子を払った先、その右手にはルビー輝く銀の剣──グリフィンドールの剣が握られていた。
銀の剣が、何者よりも早く振り落とされる。切っ先は過たず、大蛇の首を跳ね飛ばした。首は宙を舞い、大蛇の身体はドウと校庭に倒れ伏す。
それをきっかけに、互いに乱戦が始まった。
「アキ!」
予想もしていなかった声に、アクアは思わず目を向けた。驚愕に目を見開く。
死んだと言われたハリー・ポッターが、確かに二本の足で立って、目の前に立っていた。
ハリーはアキの姿を目にすると、アキに歩み寄り、座り込んだアキの身体を強く抱きしめた。
虚ろに濁っていたアキの目が、徐々に光を取り戻して行く。
「……ハリー?」
「そう、僕だよ。アキ」
アキの顔が、くしゃりと歪んだ。大きな瞳から涙が溢れ、頬を伝う。
右手をハリーの背に回すと、確かめるようにぎゅっと掴んだ。
「……この、気持ちが、たとえ幣原秋に埋め込まれた偽物の想いなのだとしても……ぼくは、君が」
「言わなくても分かっているよ、アキ」
その様子を眺めていたアクアに、ユークは呟いた。
「……アキって、姉上よりもハリーのことが好きですよね」
「それは言っちゃいけない約束だよ、ユーク」
セドリックは肩を竦め、アクアを見る。なによ、と思わずむくれた。
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