「毎回さぁ、お前探すの面倒なんだけど」
聖マンゴ図書館の片隅で、本を浮かせて読書している少年、アキ・ポッターに対し、アリス・フィスナーはそう言った。
靴を脱いで遊ぶ子供用のちょっとしたスペースに、大の字に寝転がっては、両手を使わずに本を読んでいる。まぁ周囲に誰も人がいないから、寝転がっていても差し支えはないか。
アキは本を脇に移動させると、アリスを見た。黒の瞳を細めたまま、にっと笑う。
「だってさぁ、妙なところに行かないと一人になれないんだ。現にこうしていても、人が来る」
「お前は人付き合いが好きな奴だと思っていたんだがな、俺は」
「嫌いじゃないよ。でも、一人も嫌いじゃない。それに、どうせぼくに用がある人は、ぼくがどこにいたところでやって来るんだ。君もその口でしょ、アリス。やれやれ、人気者は辛いねぇ」
「お嬢サマを泣かせたな」
アリスの言葉に、アキは軽口を叩くのを止めた。
しばらく黙ってから「……やっぱりアクア、泣いちゃったか」とぽつりと呟く。
「ぼくの前では、涙は見せなかった」
「おぉそうか。俺んトコ来てずっと泣いてたから、もしかしちゃあお前より俺の方が信頼されてんのかもな」
アリスの軽口に、アキは乗らなかった。ただジッとアリスを見つめている。
調子狂うな、とアリスは舌打ちをした。
「……ねぇ、アリス」
「断る」
何を言い出すのかは読めていた。アキは、まだ何も言わずに断られたことについて、僅かに不満そうな顔をした。
「親友の彼女寝取る趣味ねーよ」
「……君から初めて『親友』なんて言われた気がする」
「ん? 俺今そんな単語吐いてねーぞ、聞き間違いじゃねぇの」
「あっそ、じゃあそういうことにしておいてあげる」
くすくすとアキは笑ったが、すぐに止んだ。
「……もう彼女じゃない。ぼくとあの子は他人だよ。あの子も、理解してくれたはずだ。……そういう頭のいい子だって、ぼくは知ってる。何年、好きで見てきたって思ってる」
アキは右手で顔を覆った。
アリスは身を屈めると、その手首を掴み引っ張り起こす。
「……なぁ、アキ」
声に、アキは顔を上げた。
「お前さ、本当は消えたくなんてないんだろ?」
アキはうんざりしたような表情をした。きっと誰もに、同じようなことを聞かれ、その都度答えてきたのだろう。
アリス、君も同じことを聞くのか。君はそんな凡庸とは違うと思っていた見込み違いだったようだと失望を目に乗せながらも、アキは口を開く。
「そんなことないよ。ぼくは消えるべきだ。ぼくは幣原に生きて欲しいって願ってる、心の底から」
「消えるべきだとしても、消えたくないと考えている」
アキは苛立ちを隠そうともせず、眉を寄せてアリスを見た。
「勝手に人の思考を独断で結論付けないでくれないか。そういうところ、本当迷惑。腹が立つ」
「おー、そっか。イラつかせたんなら悪ぃな。だがよ、聞くところによれば? 幣原の方は、お前に生きて欲しいと願っているらしいじゃねぇか」
はっ、とアキは鼻で笑った。
「あんな臆病者の言葉に聞く価値があるとでも? 自分が世界と対面することを恐れる弱虫さ、幣原なんて。……元々あいつの人生だ、あいつに返して何が悪い! あいつを待ってた人がいるんだよ、一心に、十五年も。十五年だ、一人の人間に対してさ、あんまりだよ……もう、あいつは逃さない。楽な方に行かせはしない。辛くっても苦しくっても目を開けて前を見させる。ぼくなんていない方が正しいんだ。造られた、偽物のぼくなんて」
「……なるほどな。十五年か、そら長いわ。お前のそれは、本心なんだろうよ」
「……信じてくれて、嬉しいよ。何もかも疑ってかかる愚か者が、この世には多過ぎる」
宙に浮かせていた本を手元に呼び寄せると、アキは立ち上がった。背を向ける。
その後ろ姿に、声を掛けた。
「本当に貰っていいのなら、俺がお嬢サマ貰うぜ。恋人と別れた直後の女は落としやすいからな。それに何も手ェ出してねぇんだって? ラッキィ、ファーストキスも処女も頂いてく。据え膳食わぬは男の恥だしなぁ、お前も下手な男よりは俺の方が安心だろ? 安心しろよ、一生可愛がってやるから。ずーっと手元に置いておいてやるよ。性格はともかく顔は極上だからな、屋敷の奥の奥に閉じ込めて、可愛らしい服着せて、永遠人形のように扱ってやる。あの真っ白な純粋さを汚すのは俺だけでいい、外界に汚させやしねぇよ。気持ちいいだろうなぁ、あのお嬢様然とした無表情がさ、俺に組み敷かれて歪むサマ見んの。無邪気な信頼踏み付けるのは、さぞや快感だろうなぁ。それだけですげぇ優越感に浸れるぜ。オマケに……」
至近距離で本を投げられた。避けられたが、敢えて食らった。
容赦なく、迷いすらなく顔面を狙ってきたな、と、痛む眉下に手を触れ思う。
怒りに染まった目でアキはアリスに歩み寄ると、足を上げ思いっきりアリスの腹を蹴った。そのまま片腕で胸倉を掴むと、引き倒す。アリスのシャツを掴む右手は、戦慄き震えていた。
「ふざけるなよ……」
低い声でそう言うと、アキはアリスを睨みつける。その顔にせせら笑った。
「なんだ、元はお前が出そうとした提案だろうが。呑んでやるって言ってんだよ。お嬢サマのことなんざ別に好きでもなんでもねぇけど、あの顔はそそられるって話だ。胸はねぇけどな、あいつ。そこは残念だけど、まぁ抱けるだろ」
「この……っ」
「どうしてキレてんだ? お前がいなくなった世界なんざどうだっていいだろ、偽物くんよぉ。どうでもいいって思ってっから、好きな子遺して逝けんだろ。お前いなくなって悲しむ奴ら放って逝くんだろ!」
アキの右手首を掴んだ。
「消えたくねぇんだろ、ならそう言えよ、嫌だって叫べよ! 変に理屈で塗り固めんなよっ、一人で何でもかんでも決めてんじゃねぇぞ、本心聞かせろ大バカ野郎が!!」
「……っ、そんなこと言えるわけないだろ!」
売り言葉に、買い言葉だったのだろう。
脳で言葉を吟味せぬまま、アキは声帯を震わせた。
「消えたくないなんて……っ、今更そんなこと言える訳ないだろ!! 絶対に言うものかっ、口が裂けても生きたいなんて言うものかッッ!!」
「……本当、バカだよな、お前」
その言葉こそ、雄弁なのに。
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