「その指輪、どうしよう? お父さんとお母さんに聞いてみるべきかな」
「だとしたら、僕らもあの書斎に忍び込んだことを言わなきゃなんないぞ」
「その辺で拾ったことにしない? お庭に落ちてたの、みたいな」
「黙ってんのはともかく、父さんに嘘をつくのは即バレしそうでやだなぁ」
ヒカルが心底憂鬱そうに呟く。わたしだってやだよ。
わたし達がリドルさんと出会った翌日のこと。ヒカルは「ソラの体力増強に付き合ってくる」と言っては出て行った。行ってらっしゃいとわたしは読書を続行しようとしたものの、そうは行かないとヒカルに半ば引きずられる形で外へと連れ出された。納得いかぬ。
とは言え、ヒカルと話しておかなければならないことは、確かにある。じりじりと暑い日本の夏の日差しに焼かれながら、ヒカルと一緒に町を歩いた。
日本に滞在する期間は、実際のところあまり長くはない。せいぜいが一週間から十日ほど、移動時間も含めてちょうど二週間、といった感じ。
それでも、短いながらも毎年欠かさず訪れる場所ということで、町並みはもう見慣れたものだ。特に母とヒカルの銀髪は目立つから、町を歩けばよく声を掛けられている。ヒカルもよく聞き齧りの日本語で返せるものだ、わたしの分までコミュ力を吸っていったんじゃなかろうか。
……わたし? わたしはもちろん喋れないよ? 今だってめちゃめちゃ目深に麦わら帽子を被って道行く人と目を合わせないようにしてるからね?
「父さんに言うにせよ言わないにせよ、このままじゃいけないだろ。リドルさんはランプの精じゃないんだぜ。幣原家の書斎にずっと埋もれたままでいさせるのも忍びないしさ」
「うん……わたしも、リドルさんを目覚めさせてしまった責任は感じてるよ……」
しゅんと呟く。その時、背後から怜悧な声が掛けられた。
「なんだ、君達、僕の話をしてるのかい?」
「ひっ」
思わず飛び跳ね振り返れば、変わらず謎めいた笑みを浮かべたリドルさんが立っていた。
さんさんと太陽が照り付けている夏空なのに、その笑顔は汗ひとつなく涼しげだ。いや、リドルさんはこの世の人ではないので、わたし達のように暑さを感じてはいないのだろうけど。
「り、リドルさんっ! 一体どうして!?」
「君達が僕のことについて悩んでいるみたいだったから、責任を感じちゃって」
ひくりと頬を引き攣らせたヒカルは、わたしの手を掴むと早足で歩き始めた。その勢いに思わず転びそうになるも、なんとかヒカルにしがみついて踏ん張る。
背後から、リドルさんの楽しげな声が聞こえた。
「おやヒカル、そんなに心配しなくとも、君達以外の人に僕の姿は見えていないから大丈夫だよ。この町にいる魔力持ちは君達一家くらいなものだ」
「だとしても僕とソラの話し声は周りに聞こえてんだろ、気兼ねなく喋れるとこまで行くからちょっと黙ってろ!」
「ふむ、それは確かに」とリドルさんは呟いた後、ヒカルに言われた通り口を噤む。
すれ違う町の人達は、確かに、わたし達の後ろをついてくるリドルさんには気付いてはいないようだ。
ヒカルは町の人達に「妹さんと仲良しねぇ」と微笑ましく見られているのが堪え難いらしく、奥歯を食い縛っては顔を顰めている。そんな顔をするくらいなら手を離してちょうだいよ、いやダメだ、今手を離されたらそのまま座り込んで立てない自信がある。お兄様、頑張ってわたしを引っ張り続けてね!
ヒカルがわたし達を連れて行ったのは、寂れた神社の境内だった。生い茂った木々が織りなす木陰は、地上のものより何倍も涼やかだ。
はふぅとベンチとベンチに腰掛け──いや、倒れ込む。どうして神社ってこうも階段が長いのだろう。一週間分の運動をした気分だ。しばらくお外には出たくないね。
ぐったりしたわたしを見かねて、ヒカルはお水を買ってきてくれた。いつの間に。キャップを開ける力も無かったので、ヒカルに頼んで開けてもらった。うう、ヒカルの呆れ果てた目が辛い……でも、乾いた身体に水分が染み渡って生き返った気分だ。
ヒカルはポケットから取り出した指輪を手のひらに乗せると、わたしとリドルさんを見回した。
「さて。目下重要な課題は、リドルさんをどうするか、だ。僕らは来週にはこの幣原家を発つ。それまでに、父さん達に申し出てリドルさんを封じてもらうか、僕らでリドルさんを封じるか、どちらにするかを決めなきゃならない」
「あぁ、その件なんだけど。できれば第三の選択肢を取ってほしいな。つまり、僕を封じず、イギリスまで一緒に連れて行ってくれると嬉しいんだよね」
リドルさんの言葉に、わたしは呆気に取られてしまった。
ヒカルは渋い顔でリドルさんを見上げる。
「その提案、僕らの側にメリットってある? アンタが安全なものだって保証はない。その笑顔の裏で僕らを害そうとしているんじゃないか?」
「なるほど、なるほど。でもヒカル、君もわかってるんじゃない? そもそも君達を害する存在だったら、君達が身に付けている『お守り』が、僕との接触を許さないだろう?」
その言葉に、わたしは思わず「あっ」と声を上げた。無意識に手首のブレスレットを掴む。
わたし達の父親であり、現ホグワーツ魔法魔術学校呪文学教授、アキ・ポッター。恐らく──というか、わたし達の周囲の大人達が言うのを纏めるに──彼は今のイギリスで、最も優れた魔法使いらしい。他人の何倍、何十倍とも言える潤沢な魔力量と、闇世に針の穴を通すような精密な魔力制御は、他の追随を許さない──らしい。又聞きだけどね。
そんな父が、我が子のために手ずから作ったお守りは、そりゃもうそんじょそこらの武器など目ではないとのことで。
攻撃反射、敵影の自動追尾は当然のこと、精神攻撃も含めた絶対的防御。母はこれを指して「まるで歩く要塞ね」などと評していた。アリスおじさんも「過保護すぎかよ」と呆れていたので、きっと凄いものなのだろう。
今目の前にいるリドルさんが、万一父を上回る程の人だったら──その時はもう、わたし達だけでなく、誰もが敵いはしない。ヒカルもわたしと同じ結論に至ったのか、黙って口を引き結んでいる。
リドルさんは続けた。
「それに。今ヒカルはメリットと言ったね。僕が君達に差し出せるメリットも、無くはない──そう。例えば情報、例えば記憶、例えば思い出なんてどうだろう。そうだな……──君達のお父上と、幣原秋の関係性について話してあげる──とか」
咄嗟にヒカルの顔を見る。
ヒカルは僅かに表情を揺らしたが、瞬時にぐっと動揺を押し込めた。
「……そう。どうやらリドルさんは、随分父と親しかったようだ」
「そうだね。曲がりなりにも三年半あまり、彼と契約していたからね」
リドルさんは軽く右手を振った。その指には、今ヒカルの手のひらにある指輪と同じ、赤い指輪が嵌っている。
「……契約」
「魔法契約さ。今、ヒカルが持っている指輪は、元は君達のお父上──アキが持っていたものだ。『決して嘘をつかない』という魔法契約の下、彼は僕を傍に置いてくれた。疑うのなら、実際アキに訊いてみるかい?」
「じゃあ、リドルさんはお父さんのお友達だったんだね」
なんとなしに呟いたわたしの言葉に、何故かリドルさんは驚いたように目を瞠った。……あれ? どうしてそんなびっくりした顔をしているの?
ヒカルは「何、暢気なこと言ってんの」とわたしの額をぺしんと弾いた。痛い。しかし今のでヒカルはいつもの調子を取り戻したようだ。そのままリドルさんに向き直る。
「で? 父さんの過去なんて、父さん本人に聞けば本当のことくらいすぐわかる。リドルさんの交渉材料にはならないよ」
「……へぇ。君達は、本当にそう思っているのかい?」
リドルさんの声は、どこか冷ややかだった。
「……どうして、そんなこと言うの?」
「むしろ、どうしてそう無邪気に親の言葉を信じられるのかが知りたいね。親子とは『そういうもの』なのか? ……僕が断言してあげよう。アキ・ポッターの秘密はね、そんな生半可なものじゃない。君達が彼の実子だからと言って、彼が秘密を全て詳らかにするとは、僕には到底思えないな」
リドルさんの深紅の瞳に、わたし達の姿が映っている。
じっと覗き込むように見つめられ、わたし達の目に映るリドルさんまでもが見えてしまうようだった。
「僕はアキの罪を知っている。彼の願いと祈りを、この世界の誰よりもよく知っている。彼の兄も、彼の妻も知らぬ彼のことを、僕は知っている。僕は、彼の理解者だった。共犯者で、あったんだ」
──呑み込まれて、しまいそうで。
「……父さんの、罪って、何」
そう尋ねるヒカルの声も、どこか震えていた。
「……君達のお父上は、その昔」
リドルさんは囁いた。
「世界を、滅ぼそうとしたんだ」
──瞬間。
あれほど喧しかったセミが、ぴたりと一斉に鳴き止んだ。
数秒後、セミは何事もなかったように、再びジリジリと鳴き始める。
思わず身震いをした。
「……すまない。怖がらせる気は……なかったと言うと、嘘になってしまうけれど」
呟いたリドルさんは、息を吐いて首を振った。額に指を当てると目を閉じる。
「どうにも……似過ぎているせいなのか……実子というのは、何ともこう、混乱すると言うか……。気を悪くさせたのなら、すまなかった」
「あ……ううん」
ヒカルは焦った顔で首を振る。わたしもぶんぶんと頭を振ると、リドルさんはニコリと微笑んだ。それでも、霊体のようなリドルさんには適さない表現なのかもしれないが、リドルさんの顔色は、どこか良くないように見える。
少しの間口元に手を当て考え込んでいたヒカルは「……よし」と呟き顔を上げた。
「ソラ。お前が決めろ」
「……うん?」
「リドルさんを信用できるかどうか、お前の判断に従うことにする。お前の予感は当たるからな」
「えぇっ!? わたしが!?」
ヒカルが決めてよ! お兄ちゃんでしょ!? と、いつも兄貴ヅラされるのはムカつくのに、こういうときだけ都合良く兄妹を引っ張り出してみたりする。
「むぅ……」
正直──わたしの目から見ても、リドルさんは怖い人だと思う。ううん、多分、きっと、間違いなく、怖い人だ。
人を操り利用することができる人。周囲を扇動し自分の望みを叶える先導者タイプ。カリスマ性のある教祖様。
信用に足る人かは、わからない。
でも────。
旗色が悪いのを悟ったかのように、リドルさんは「ほんの一年程度でいいんだ。君達が来年、またここに戻ってくるまでで」と少し慌てた様子で付け加えた。
「ご飯も散歩も要らないよ。自分で言うのも何だけど、僕は結構有能でね。力仕事は無理だけど、頭脳労働なら何でもござれだ。計算翻訳調べ物、
……リドルさん、喋れば喋るほどなんだか胡散臭くなるね。稀有な人だよ。
はぁと小さくため息をついて、わたしはリドルさんに向き直った。
「ねぇ、リドルさん。ひとつ聞かせて?」
「なんだい? ……あ、僕の話を聞く前に契約しておいた方が君達も安心じゃないかな? 僕の話が嘘かもしれないと疑わなくても良くなるし……」
……リドルさん、見た目は自信家っぽいのに、中身はどうしてだか卑屈だなぁ?
自分のことを真正面から信じてくれる人はいないと、本気で思っているようだ。
「リドルさんはどうして、イギリスに行きたいの?」
『蘇ってしまった』と、リドルさんは昨日そう言った。
わたしが指輪に触ったせいでリドルさんの眠りを覚ますことになったのならば、責任はわたしにあるはずだ。リドルさんの望みが『イギリスに行きたい』なら、叶えてあげたいとも思う。
「リドルさんが何者なのか。どうしてイギリスに行きたいのか。リドルさんは『契約』とか『メリット』とか、いちいち取引めいたことを言うけどさ。そうじゃなくって、普通でいいよ、普通で。リドルさんに望みがあるなら、わたし達はその望みを叶えてあげたいと思うよ。ねぇヒカル?」
「このお気楽娘は……」とヒカルは顰めっ面をするも「……ま、僕もソラと大体同意見ではある」と頷いた。
「もちろん、リドルさんが僕らに害意を持ってないのが大前提ではあるけどさ。それは父さんのお守りのおかげで証明されているんだし、リドルさんの望みが真っ当なものなら、協力するのもやぶさかではない」
リドルさんの目が見開かれる。しばらく困惑した顔でわたしとヒカルを見つめたリドルさんは、やがて掠れるほどの小さな声で「……理解できない」と呟いた。
「……何故、損得無しに他人と関わろうとする? 今の僕には君達に与えられるものなど何もない。配る利も、分ける富も、見せる幻想も、何一つとして持っていないんだ。ただの霊体、ううん、霞に過ぎない。確かに少しばかり悪知恵は働くだろうが、この世界で僕がやれることは何もない。ここは僕が
……何故だ? それとも理解していないのか? 君達、僕に搾取されようとしているんだぞ!? そんな無防備に手を差し伸べるなんて、それでも本当にアキの子か!?」
「……リドルさんが本当にわたし達を騙そうとしていたのなら、『搾取』なんて言葉は出てこないよ」
ニコリと微笑む。
「ねぇ、教えて? リドルさんが何者なのか。リドルさんがどんな望みを持っているのか、素直なリドルさんの言葉が聞きたいな」
リドルさんの手を取った。
温度はないが、僅かに握った感触はある。肌の境はあわく発光していて、リドルさんがこの世の住人でないことを如実に理解してしまう。
やがて俯いたリドルさんは、肩を震わせ微かに苦笑した。
「……素直な言葉、なんて、いつ以来かな……」
──────ソラ、と。
吐き出された言葉は、何故だろう、声が空気に触れる寸前に、変更されたようにも聞こえた。
「どうせ調べればすぐにわかってしまうことだ。僕の罪ではないと『彼』は言ったけれど、あれだって僕の一面に変わりはない。──英国魔法界を混乱と恐慌に陥れた大悪党、トム・マールヴォロ・リドル。
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