授業終了のチャイムに、アキ・ポッターは顔を上げた。パタンと教科書を閉じると、壇上から教室を見渡す。
「──はい。じゃあ、今日はここまで。月末なので課題を出すよ。
アキの告げた『課題』に、教室中からうわぁと声が湧き上がった。慣れ親しんだその反応に、アキも思わず笑ってしまう。
「君達ねぇ、今年はいもり試験があるんだってこと、忘れてないかい? 折角私の授業を受けてるんだ、クラスの全員がちゃんと受かってもらわないとね」
「いもり試験官でもあるアキ教授が、私達の点数をちょこーっと弄ってさえくれれば、全部丸ーく収まる話なんですけどね?」
ビクトワール・ウィーズリーの聞こえよがしな呟きに、クラスの皆はどっと笑う。やれやれと肩を竦めた。
「試験官の目を掻い潜って点数の改竄が出来る者がいれば、その時は私から闇祓いにでも呪い破りでも推薦してあげよう。さて、課題の期限は一週間後だよ。課題忘れはいつものように口述試験とするから、覚悟しておくように」
うっわぁ今週は地獄だぞ、なんて文句を呟きながら、生徒達は各々教室から立ち去って行く。
生徒を見送っていたアキは、一人の女生徒がまだ教室内に留まっていたことに気が付いた。
「おや。どうしたんだい、ナイト?」
レイブンクロー監督生兼首席であるナイト・フィスナーは、おずおずと壇上に歩み寄っては立ち止まる。
アリス・フィスナーの養女である彼女とは家族ぐるみで付き合いのある仲だ。アリスが仕事で忙しい分、アキの自宅で面倒を見ることもしょっちゅうだった。ソラも良く懐いていて、まるで姉妹のようだとアクアも微笑ましそうに零していたっけ。
「あの……アキ教授。ちょっと、その、相談が」
どことなく歯切れの悪い彼女に、悩み事の気配を感じ取る。
「……時間を取ろうか?」
「あっいえ! そこまでして頂かなくっても!」
ナイトは慌てて両手を振った。
気さくで遠慮のないように見えてこの子は案外気を遣う。周囲を良く観察して、相手が望む通りに振る舞ってしまう子だった。
アリスが彼女を孤児院から引き取った頃からそうだった。もう抜けぬ癖なのだろう。
──そんな彼女が『相談』か。
「じゃあ、荷物を部屋まで運ぶのを手伝ってくれるかな?」
そう微笑むと、ナイトは背筋を正して頷いた。
荷物と言っても大した量じゃない。特に、今の授業は最高学年向けのものだ。ふくろう試験を終えた六年生からはより専門的な授業に特化するため、教える生徒の数はぐっと減る。
普段は魔法で飛ばしてしまう荷物も、ナイトがいるから今日は手持ちだ。自寮の、それも監督生である彼女の前で横着するのは気が引けた。彼女は融通の効かない生真面目な子でもないし、多少のあれそれは見逃してくれるだろうが、そこはそれ、教師としての面目が勝つ。
「養父はやっぱり、あたしを後継にする気らしいんです」
廊下を歩きながら、ナイトはそう呟いた。
後継ということは、つまるところ『中立不可侵』フィスナーの後を継ぐ、ということだ。アリスは結婚していないし、彼の血を引く子もいない。アリスは兄弟もおらず一人っ子だから、ナイトにお鉢が回るのは妥当だろう。
元々アリスもそんな意図込みで彼女を引き取ったはずだ。彼女も薄々察してはいたのだろうが、こうして最高学年となった今、卒業後の進路について避けては通れぬ話となったか。
「君の養父は、何て?」
「……『お前がやりたくなければ断ってもいい』って」
ナイトは俯く。
「……ちょっと、ズルくないですか。あたしにそんな権限、渡されても困っちゃうっていうか。そもそも、あたしが決めていい話じゃないっていうか……。だってあたし、フィスナーの血を引いてないんですよ。養父の母方の親戚ってだけ。あたしは、ただのマグル生まれの小娘なのに」
「…………」
「『中立不可侵』フィスナーは、英国魔法界の要となる存在のはず。どこにも属さず、どこにも阿らず、何があっても屈しない。英国魔法界に秩序と安寧を齎す象徴、それが『中立不可侵』だって──理解は、しています。でも、だからこそ、ちゃんと血筋が伴った、名門の御子息じゃないとダメでしょう……象徴ならば、それこそ理由がないとダメでしょう……あたしなんかに、務まるはず、ないでしょう……」
ナイトの声が小さくなる。
彼女に見えないよう、アキはそっと頭を掻いた。
ナイトの悩みは難しい。簡単に解いてしまうには、フィスナーは英国魔法界と密接に絡み過ぎている。
(だから、あそこは激務なんだよなぁ……)
あらゆる業務を一手に引き受けすぎ、というか。
全ての責任を担う箇所、というか。
(他の名家を駆使してなんとか分担はなされているようだけど、それでも全責任はフィスナー直系の当主が預かることになる)
現当主アリス・フィスナーの首には、ひょっとすると魔法大臣よりも高い値が付きそうだ。
そんなことを考えて、思わず笑みが零れそうにもなった。ナイトの前だぞと慌てて自重し表情を引き締める。
「君の悩みに、短時間で答えてあげることは難しい……ごめんね、ナイト。これはきっと、アリスも含めてきちんと話をするのが賢明だと思う」
「……そう、ですよね……」
ナイトの瞳が静かに陰った。できる限り平静を保とうとしているものの、それでも表情には落胆の色が滲んでいる。
「だからね、ナイト。……ここからは君の教師じゃなく、アリス・フィスナーのしんゆ……悪友である、アキ・ポッターからの言葉なんだけど」
アキはナイトを見てにっこりと笑って見せた。ナイトはきょとんと目を瞬かせる。
「君の養父、アレで中々張り合いたがりなんだよね。勝負事には興味ありませんよって顔してるし、それはまぁ実際そうなんだけど、こと自分のテリトリーだと話は変わってくる。あいつはチェスが得意だけど、ロン・ウィーズリーはあいつより上だった。学生時代、見るたび二人は試合っていてね。普段は何にも拘りを見せなかったあいつにも、こんなにも執着するものがあるんだなぁって、私は随分ほのぼのしたものなんだぜ?」
良きライバル、と呼ぶべきか。
二人の世界にどっぷりと浸かったまま、無言で駒を戦わせている彼らを見ていると「──ぼくの方が先に二人と仲良くなったのに」なんて、ちょっとだけ嫉妬心めいたものを感じずにはいられなかったけれど。
「そして、ここからは私の想像──妄想にはなるんだけど」
アリスには内緒だよ? と片目を瞑ってナイトを見遣る。
「あいつのライバル心は、あいつの父親に対しても、ずっと向き続いているように思う」
アリスの父親──リィフ・フィスナー。
かつてアリスが敬慕し、同じ心で憎悪した、アリスのたった一人の肉親。
「先代当主であるリィフ・フィスナー、彼が成した中でも随一の功績と言えば何か、ナイト、君にはわかるかい?」
「えぇ? えっ……と、なんでしょう? リィフおじさまの功績ですか? マグル生まれ登録法の廃止? 魔法疾患患者の法労基改正? 非常事態に纏わる宣言令と、えぇとえぇと……」
指折り数え始めた彼女に「テストじゃないんだから」と笑って言う。
「答えはね。──アリス・フィスナーを『中立不可侵』の当主にしたこと」
「…………、あぁ」
ナイトは流石、察しが良い。
青い瞳をパチリと瞬かせた彼女は、その目をそっとアキへと向けた。
「現当主のアリス・フィスナーは、お母様がマグルの半純血。彼を英国魔法界の中核に据えたことこそ、これまで純血の名門を尊んできた世界へのカウンターとなる。……そういうことですか?」
「乱暴に言ってしまえば、そういうことになるのだろうね」
まぁ実際はそう簡単なものではなく。
マグルの女性を妻にしたリィフへのバッシングはそれは酷いものであったと聞くし、そんな名門に一人嫁いだ奥方もまた様々な悪意を浴びることとなった。奥方の死後は息子のアリスも荒れに荒れて実家を飛び出したし、恐らく当時のリィフとしては、次期当主を息子が継いでくれることなど、とんだ夢物語だと思っていたに違いない。
リィフとしてはただ、好きな女の子とずっと一緒にいたいと願っただけ。
「……それでも、半純血のアリスが『中立不可侵』を継いだことで、結果的に英国魔法界はより健全になり安定した。そのことを一番よくわかってるのはアリス本人だ。リィフ自身にそんな意図はなかったと言えど、アリスは、そして世界は、それを功績と判断する」
全く勝手なものだと思う。
ひとつの家族をめちゃくちゃにしておきながら、結果次第で世間は掌を返して褒めそやす。
(それが世間だと言ってしまえばその通りだけど)
でも、自分よりも百倍は堪忍袋の尾が短いアリスが黙っているのだ。自分が手を出すのも筋違いだろう。
「だからね、ナイト。アリスの父親は、半純血のアリスを当主に据えた。だからアリスは──」
「マグル生まれであるあたしを、後継にしようって……? ただ、父親に張り合いたいためだけに……?」
馬鹿みたい、とナイトは吐き捨てた。
「そんな、馬鹿みたいな感情で……? 名門フィスナーを、そして英国魔法界を潰してしまいたいんですか、あの人」
「そうだ、あいつは馬鹿だ」
足を止めナイトに向き直る。まさかアキに肯定されるとは思いもしなかっただろうナイトは、目を見開いてアキを見返した。
その瞳を見据えて口にする。
「だから、嫌なら断っていい。ただの養父に、君が恩義を感じる必要はない」
気が乗らない者に、アリスは押しつけることはない。
それでも彼女はきっと、アキの言葉に少し落ち込んでしまうだろうから。
「だからね、ナイト。今の君に必要なものは、お金と、そして時間だよ」
ナイトの目が丸くなる。歩きながらアキは言った。
「別に、今すぐ後継を準備する必要はないわけだしね。アリスはまだ三十代だし持病もない。数年待つことなんて、おっさんには大したことじゃない。……でも、おっさんには大したことじゃなくても、君にとっては違うはずだよ。その数年で、自分のためにお金を稼ぎなさい。フィスナーの家のものではなく、君一人が自由にできる金を手元に貯めなさい」
アキはにっこり笑ってみせる。
「フィスナーの仕事量は確かにえげつないけど、その分金払いは良い筈だ。そこで数年働く間、学校外で色んな人と出会って、色んなものを見聞きして、やりたいことが見つかれば、貯めた金持って出て行けばいい。……何にせよ、金さえあればどうとでもなる。まぁ気張れよ、若者よ。未来は案外自由だぜ?」
ありがとう、とナイトの手から荷物を受け取った。そこでナイトは初めて、アキの自室に到着していたことに気付いたようだ。慌てたように姿勢を正すと「……ありがとうございますっ!」と笑顔を見せる。
階段を降りていく後ろ姿を、アキはしばらく見送った。
「……ちょっと、喋り過ぎたかな」
お喋り好きの自覚はあるのだ。年寄り臭い説教親父と見做されてみろ、だいぶ悲しくもなってしまう。
自重自重と呟きながら研究室へ入ると、手に持っていた荷物を手放した。勝手に元の場所へ収納される荷物を気にも止めず、懐中時計を開いて時間を確かめる。
「十七時五十分。十分前か」
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