「ジェームズ! おい、起きろって! おい!!」
ハロウィンの日。僕、ヒカル・ポッターは、朝っぱらから同寮同室の従兄弟、ジェームズ・シリウス・ポッターを叩き起こすのに苦心していた。
父に似て、僕はすこぶる朝に強い。反対に、ジェームズはすこぶる寝起きが悪かった。
もうこの芋虫は放置して、自分だけ先に朝食を食べに行こうかな。頭の片隅でそう考えるものの、しかしジェームズは起こさなかったらそれはそれで「何で起こしてくれなかったんだよ!」とその日一日喚くため、なんとかこうして起こそうと試みている次第だ。
「起きろ! ロングボトム教授から、グリフィンドールの男子は全員集合って言われてたの忘れたのかよ! おばけカボチャくり抜きに行くんだろ! おい、ジェームズ!!」
それでもジェームズはまだ起きない。寝ぼけた声を上げながら寝返りを打つばかりだ。その耳を思いっきり引っ張った。
「……あいっでででででっ!? 千切れるっ! 千切れるってばぁ!!」
「今日はハロウィンだろうが! 『大手を振って悪戯が出来るこの日に、我らが率先して騒がずしてどうする!』って昨日のたまってたのはお前だろ!」
「ごめんごめんごめんごめんってば! 起きるよ、起きりゃいいんでしょ!」
その言葉に、よしと手を離してやる。ジェームズは赤くなった耳をさすりながら、情けない顔で僕から距離を取った。全く。
やっとこさ服を着替えたジェームズと共に、大広間へ向かう階段を降りる。いつまでも生欠伸をしているジェームズに「早く寝ないから朝起きられないんだぞ」と肩を竦めた。
「だってヒカルが先に寝ちゃうから……ハロウィンの悪戯の予定もまだ固まってないのにさ……だから、僕だけでも考えとこうって思って……ふぁぁ、う」
「朝の方が寮生も寝てるし、密談には丁度いいっていっつも言ってるだろ」
「人には向き不向きがあるの! ヒカルにある早起きの才能ってやつが僕には無いの!」
何言ってんだかと肩を竦める。
その時、大広間の前で何やら人だかりが出来ているのを発見した。何事だろう? とジェームズと顔を見合わせる。
大きなざわめきは、集まっていた生徒たちが僕らを──僕を見た瞬間、ピタリと止んだ。
さぁっと人垣が分かれ、自然と僕の前に道が出来る。一体なんだと戸惑いながらも、出来た道を踏みしめ──広がる光景に、僕は目を見開いた。
『アキ・ポッターはひとごろしだ』
教科書の見開きほどの紙に、そんな言葉が印刷されている。一枚や二枚じゃない、数百枚はあるだろう。
大量の紙は、大広間前の壁に、床に、天井に、まさしく
「何……っ!?」
その迫力に、思わず息を呑む。
悪意。
それは、紛れもない悪意だった。
「一体、誰が……」
気圧され、一歩後ずさる。と、そこで僕の肩に誰かが手を置いた。
「誰の仕業だろうね」
「ひっ……父さん!?」
思わず目を剥く僕に対し、父は「おはよう、ヒカル」とにっこり笑いかける。
混乱のあまり一瞬言葉を見失った。かろうじて、眼前の貼り紙を指し示す。
「と、父さん、あの……あれ、剥がさないの……?」
「あぁ、そうだったね」
右手を僕の肩に置いたまま、父は左手を前に出す。父が一度指を鳴らすと貼り紙は全て剥がれ落ちた。一陣の旋風が吹いた後、大量の紙はその場から『消失』する。
辺りをぐるりと見渡し、父は笑顔で口を開いた。
「はい、皆、朝食に遅れないようにね」
父の声に導かれ、生徒はそそくさと大広間の中に入っていく。あっという間に、この場に残っているのは僕と父、それにジェームズだけになった。
「……何、今の」
ジェームズは眉をぎゅっと寄せている。不愉快だと、顔にはありありと書いてあった。
父の左腕を掴む。その感触は硬く、義手であることを改めて思い知らされた。
父をおずおずと見上げ、僕は尋ねる。
「……父さん……その……誰かに恨まれた心当たりとか、あったりする?」
父は朗らかに言った。
「うーん、ありすぎてよくわかんないなぁ」
「…………」
そうですか。
「それより、ヒカル、ジェームズ。君たちも早く行かないと、朝ごはん食いっぱぐれちゃうぜ? 今日はグリフィンドールの男子生徒を連れてカボチャを収穫するんだって、ネビルが大層楽しげだったんだから。腹に何か詰めとかないと、昼まで保たないよ」
そう言って父は僕らを大広間へと促す。背中を押され、ようやく僕らは歩き出した。
振り返れば、父はまだ大広間前に立ち尽くしたまま、何かを考え込んでいる様子だった。
「なんか、気が削がれちゃったな……」
ジェームズが呟く。
「悪戯の?」
「あんな、度が過ぎたのを朝っぱらから見せられちゃあね。こんな空気じゃ、夕食中に『ウィーズリーの暴れバンバン花火』を飛ばしたところで白けた空気が流れるだけだ」
「はっは……同感」
それにしてもと考える。
先日の写真の件といい、最近のホグワーツは悪意が蔓延しているようだ。空気がどことなく重く、澱んでいる。こんな雰囲気では、誰かが怪我をしてもおかしくない。
「……嫌な空気だ」
僕は静かに呟いた。
ハロウィンの朝に貼り出された、父を誹謗中傷する貼り紙は、噂好きのホグワーツ生の中で一気に広まった。
やだなぁとわたしは思う。いろんな種類の視線が、アキ・ポッターの子供であるわたしやヒカルにも向いている。
ヒカルは「気にするなよ」と言っていた。
「あんなものを真に受けるのは真性の馬鹿だ。わざわざ噂を持ち出す輩は、そのツラに『私は噂話をそっくりそのまま飲み込んでしまう、自分で考えられる脳味噌のない大馬鹿野郎です』って書いてあるようなもんだからな」と。
「でも、そう言ったって、無理だよう……」
わたしは教科書に顔を埋めた。
呪文学の授業中。机と机の間を歩きながら、父は教科書片手に講義をしている。
呪文の練習の時間でもない限り、父の講義で私語をする人は滅多にいない。それでも今日は、そわそわする空気がそこかしこで流れていた。つい耳を塞いで逃げ出してしまいたくなるような、そんなざわめきで満ちている。
首筋に刺さる好奇の視線に、思わず身を縮こまらせた。そんなわたしの背中を、ローズがそっと撫でてくれる。
「ソラ、大丈夫だからね」
「うん……」
恐らく、きっと、父が『本当に』人を殺したなどと考えている人はいないだろう。それでも火のないところに煙は立たない。
ホグワーツ副校長にして、呪文学教授のアキ・ポッターに対し、こんなに明確な悪意をぶつけたのは誰なのか。
生徒の好奇心の対象は、主にそこに集中していた。
「……ねぇ、ローズ……ローズも、あの紙を貼り出したのが誰なのか、気になってるの?」
授業に集中するのは諦めた。ローズにひそひそ声で尋ねると、同じくひそひそ声が返ってくる。
「もちろんよ! あんなこと、許されるべきことじゃないわ。アキ教授は優しいけど、その優しさにつけ込むのはいけないと思う。悪戯にしたって限度があるじゃない」
「……悪戯……」
小さな声で呟く。ローズは目を瞬かせた。
「そうよ。タチの悪い悪戯でしょ? 昨日はハロウィンだったしね。それにしたって、あれはやりすぎだと思うけど」
「…………」
悪戯。
果たして本当にそれだけなのだろうか。
その時、父はぐるりと教室中を見渡した。普段通りの柔らかな笑みを浮かべたまま「はい、皆。今日は座学だからって、気を抜かないように」と声を張る。はぅっ、とローズは肩を震わせ姿勢を正した。慌てて教科書に目を落としている。
と、そこで一人の生徒が手を挙げた。
「アキ教授、質問してもいいですか?」
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」と言って彼は立ち上がる。締められたネクタイの色は赤色。グリフィンドール生だ。
彼は声を弾ませ口を開いた。
「アキ教授は、人を殺したことがあるんですか?」
その不穏当な言葉に、教室中が凍りついたのが肌でわかった。
パンと音を立てて、父は教科書を閉じる。
一度瞬きをした父は、笑顔を崩さぬまま口を開いた。
「あぁ、そうだよ」
その言葉に、わたしは思わず息を止めた。
「……とでも答えれば、君は満足するのかな?」
そう言って父は目を細めた。質問をした彼から視線を外した父は、小さく息を吐いて続ける。
「『人を殺したの?』と問われて素直に『はいそうです』と言う奴がいるかい? 私が何と答えたところで、君達は私の言葉を信じやしないだろう。だって、人は信じたいものしか信じないんだから。……どうだい、君達。私が人を
そう言い切って、父は口元にはっきりと冷笑を浮かべてみせた。
わたしがこれまで見たことのない表情だった。
「……じゃあ、もし、万が一、アキ教授が人を殺していたのだとしたら……どうしてアズカバンに投獄されていないのですか?」
質問した彼は、さすが勇敢を冠するグリフィンドール生だ。『勇敢』を『無謀』と履き違えている気もするが。
教室中は既にしんと静まり返っていて、静寂が逆に痛いと感じるほどだった。
「いい質問だね」
父は微笑む。
「いい機会だ。話をしよう。そもそもどうして、人は人を殺してはならないのだろうか? 自然界で、同族による殺し合いは日常茶飯事だ。縄張り争い、種の存続、その他あらゆる場面において殺し合いは行われる。では何故、我々の道徳は『
そう言って、父は教室中をぐるりと見渡した。
「それは『法律』があるからだ。法律によって『人を殺してはならない』と定められているからだ。そこに道徳や倫理が上積みされて、まだ歳若い君達の前に差し出される。『人を殺してはならない』と。そのことは当たり前であり、それに疑いを持つことこそ『悪』であると、
教室の中、父の歩く靴音だけが響いた。
「先ほども話した通り、人が人を殺してはならないのは『法律』に定められているからだ。個々人の思想や信念は異なれど、同一の共同体として社会生活を営む上で『法』は絶対的な支配者だ。
例えば『許されざる呪文』──服従の呪文、磔の呪文、そして死の呪文。これらを人に対し一度でも行使した場合、アズカバンにて終身刑が課せられる。行為に残虐性が多分に含まれている場合は、最高刑である『
だが、と父は続けた。
「……だがしかし、法律にも例外が存在する。その尤もたるものが『戦争』だ。
──かつての時代。今からおよそ三十五年前、『名前を呼んではいけないあの人』、ヴォルデモートが最盛期であった頃。ヴォルデモートの支配はヨーロッパ中に及び、魔法使い、非魔法使い問わず、何千人、何万人と殺された。
『魔法使いがマグルを支配する』と掲げたヴォルデモートの思想に、賛同する者達もいた。ヴォルデモートの力を恐れ、彼に媚びへつらうことで身の安全を図ろうとする者達もいた。その者たちは彼の配下に加わり、自らを『
彼の手は、これまで英国魔法界が虐げてきた魔法生物に対しても及んだ。
圧倒的な戦力差を少しでも改善させるため、魔法省は、ヴォルデモートと最前線で戦う闇祓いに対し『許されざる呪文』の行使を許可した。こうして闇祓いは、法律の後ろ盾の下、どれだけの人間を殺しても罪に問われることがなくなった」
誰もが一言も喋らないまま、ただ父の言葉に耳を傾けていた。
魔法史のビンズ先生が話すのとは比べ物にならないほどの集中力だった。
父はまるで
生まれていないはずの時代の話を、滔々と。
「殺人は罪だ。人の命を奪うことは、紛うことなく大罪だ。当時闇祓いに入局した者は、須く正義を胸に抱えていた。高い戦死率を誇る闇祓いに、自ら踏み入ろうとする者達だ。大切な人を殺されて、それでもなお今生きている人達を守ろうと、自ら杖を取り戦う覚悟を決めた者達だった。
戦争とは、味方を守るために敵を殺すものだ。戦争での殺人は、決して罪には問われない。司法制度は、兵士を完全に守ってくれている。
殺さなければ自分が死ぬ。仲間が目の前で、見るも無惨な姿で殺される。極限状態の中、段々と自分の正義が揺らいでくる。──何故、自分は人を守るための杖で、人の命を奪っているのだろうと。それでも立ち止まってはならないと、誰もがただ前だけを向いていた。誰もが何処かしら狂っていたけれど、それでもきっと一番狂っていたのは、闇祓いの中でも誰より多く敵を殺し、英雄とまで呼ばれた男なのだろうね。
戦争が終わった後、幾人もの闇祓いが心を病んで退職した。自殺した者も多かった。それが戦争だ。勝っても負けても、精神に深い傷を負う。決して癒えない傷を、死ぬまで抱えて生きる羽目になる」
父の声は、いつもと変わらず穏やかだった。
普段授業で聞く声と同じ声音。それでも何処か凄みがあった。教室中の誰もがその凄みを感じ取っているのか、顔を伏せる者は誰もいない。
そっとローズを盗み見た。ローズは青ざめた顔で、父をじっと見つめている。
「いいかい? 法律に『正義』と認められた殺人は存在する。何人殺そうとも決して罪に問われることなく、むしろ殺せば殺すほど『素晴らしい』と称賛される世界は存在する。
どうして今、私がこんな話をしているのか、その理由はわかるかな? 君達の誰もが
道徳も倫理も大切だ。それらが存在するからこそ、人は人として生きることが出来る。その上で、少しばかり想像力を巡らせてもいいんじゃないかな。法について。生命について。道徳について。倫理について。少なくともそれらについて自分なりの意見を語ることが出来なければ、先程の質問については『不適切である』と判断せざるを得ないものとなる。
だからね。君たちが私に問いかけるべきは──『アキ教授、あなたは司法に裁かれるべき罪を犯したのですか?』──となるんじゃないかな。そう問いかけられたならば、私は胸を張って答えるだろう。『いいえ。私は誓って、司法に背く罪を犯したことはありません』とね」
その時、授業終了のチャイムが鳴った。意識の外側にあったその音に、わたしは思わずびくりと肩を震わせる。
父はゆるりと目を瞬かせると、微笑みを浮かべて手を叩いた。
「──はい、今日はここまで。次回こそは、君達が授業に集中してくれることを期待しよう」
父の言葉に、わたし達は慌てて荷物を片付けた。「失礼します」とそそくさと教室から立ち去っていく。
教室の外に出たわたしは、授業の道具が入ったカバンを抱えて大きく息をついた。隣ではローズも、わたしと同じように胸を押さえている。クラスメイトも似たり寄ったりの反応を見せていた。
「あぁ、怖かったなぁ……」
ローズが呟く。
わたしは何も言わずに、ただただぎゅっと強くカバンを抱きしめた。
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