せかせかばたばたした平日も過ぎて、今日はのんびりとしたお休みの日。
普段は授業のたびにひっきりなしに鳴る鐘の音も、今日はお休みだから静かなものだ。
外に遊びに行こうと誘う同室の友達に「今日は一人で本を読みたい気分なんだ」と断りを入れたわたしは、黄色のカーテンを引いて自分だけの空間を作った後、本を抱えたまま天蓋付きのベッドに寝転がった。靴も脱いで、楽な格好で本を開く。
少し高い位置にある丸い窓から差し込む陽射しが、床に模様を描いている。
ハロウィンも過ぎて、季節は冬へと向かいつつある。外の風は肌寒いものの、お部屋の中は程良く暖かい。
……ハロウィン……かぁ……。
ふとした拍子に思い出すのは、あの日感じた明確な感情。
一切の濁りなく、また一切の異論なく。
ただ対象を父にのみ定めたそれは、純に澄み切った、ほんものの──悪意、だった。
「…………」
呪いというものは、あの純粋な暗闇から訪れるのだろうと直感した。
遠くから見ていただけでも、あの悪意に当てられるほどの。
命さえ奪いかねない、漆黒の深淵────
……いけない、つい考え込んでしまった。
頭を振り、ぺらりとページを捲る。
それでも心にぽたりと落ちた黒い染みは、気付けば意識を占領してしまう。
ホグワーツに漂う空気も、なんだかざわざわとしている。
心臓を冷たい手で撫でられているような、なんだか首の後ろがちりつくような。
今にも何かが起きてしまいそうな緊張感が蔓延している。
不安だった学校生活も、なんとか無事に楽しく過ごせているというのに。
憧れのホグワーツは、どこか息苦しさを纏っては、わたしの前に君臨していた。
「……ソラ。本が読めていないようだけど、大丈夫?」
涼やかな声に、ハッと我に返った。
学習机に備え付けられた椅子に腰掛けたまま、リドルさんはわたしを窺うように見つめていた。発光した輪郭は、陽の光に当たって柔らかに輝いている。
「……えへ。さすがリドルさん、なんだってお見通しだね」
照れ笑いをして本を閉じると身を起こした。いいんだ、さっきから全然読めてなかったから……。
目が滑る、って言うのかな。目は文字を追っているのに、中身が全く頭に入ってこない。こんなの初めてだ。
スカートの裾を整えるわたしに何を思ったか、リドルさんは慌てて言った。
「いや、その、僕もできる限り配慮をしていたんだ。こうして女子寮に姿を現すのも、本当は避けようと思っていたんだよ。誤解しないでほしいんだけど、着替えとか風呂とか、ソラのプライバシーを侵害するようなことは一切していないから。君達のお父上に誓ってやましいことはしていない。記憶を渡したっていいから、どうか信じてはもらえないだろうか」
どこか弁明するかのようなリドルさんの口調に、わたしは思わず笑ってしまう。
「そんな、疑ってもないし気にしてもいないよ。他の寮は違うみたいだけど、ハッフルパフの女子寮は男子禁制でもないし……それに、リドルさんはわたしのことを心配して出てきてくれたんでしょう? ありがとね」
「いや、そんなつもりは……、……ただ、ソラが本を読めてないのは珍しいなと……君は、アキや直以上の本好きだから」
「あぁ、お父さんもよく本読むもんね。この前行った幣原家の書斎も、本がいっぱいあって素敵だったなぁ……あの本はやっぱりお祖父さんのものなのかな。だとしたら、本好きはやっぱり血筋だね……」
話しながら、そっと本の表紙を撫でる。
どこか途方に暮れた顔で、リドルさんは黙ってわたしの顔を見つめていた。
「……ねぇリドルさん。折角だし、ちょっと話し相手になってくれる?」
にこりと微笑む。
リドルさんは目をぱちぱちとさせたが、静かに微笑んで頷いてくれた。良かった、と思わず頬を緩ませる。
「あのねぇ、わたし思うんだけど、お父さんってやっぱり変な人だよね?」
「そう、アキって……んんっ!?」
笑顔で頷きかけたリドルさんは、何故か途中で咳込んだ。だよねぇとわたしは頷く。
やっぱりリドルさんも、父のことを変な人だと思ってるんだね。同じ意見の人がいてくれて嬉しいや。
「すごく強い人らしいんだけど、全然強そうには見えないし。アリスおじさんの方がよっぽど強そうだし。そうだ、お父さんってね酷いんだよ。夏休みにわたし達が日本に行った時にね、わたしの荷物をお父さんが勝手にまとめちゃったの。最悪だよね」
今でもありありと思い出せる。父の呼び寄せ呪文でクローゼットから飛び出したわたしの下着が宙を舞ったあの光景……。
その後、母に怒られた父はしゅんとした顔でわたしに謝りに来たものの、それから三日は父と口を利いてやらなかった。女の子の心はとってもとっても繊細なのだ。
「それ、ソラがまた本にかまけて準備を怠っていたせいじゃないのかい?」
「うっ、正論……それはそうです……でもね、でもねぇ?」
それでもねぇ? と言い募るわたしに、リドルさんは「わかった、わかったよ」と苦笑を返した。わかったのなら、よろしい。
「ハリーおじさんも、すごい人なんだけど……いっぱい伝記とか出てるし、生ける伝説のような人なんだけどね。わたしにとってはずっと、優しくて頼れるハリーおじさんで、お父さんのお兄さんで、アルバスやジェームズやリリーのお父さんなんだ」
『英雄』と称されてはいるものの、それでもわたしにとってのハリーおじさんは親戚のおじさんに他ならない。
父と同じく『すごい人』と手放しに括れるほど、ただただ遠い人ではないのだ。
「……リドルさんも聞いてたかな。さっきの、アルバスの話」
「……父親から許せないことを言われた、もう顔も合わせたくない、とか言ってたかな」
うん、と頷く。
「ハリーおじさんは、アルバスの周囲に黒雲が漂ってるってケンタウルスから予言されたんだって。ハリーおじさんは、その黒雲がスコーピウスで、アルバスがスコーピウスと関わると良くないことが起こるって思って忠告に来たらしいの。アルバスには、それが許せなかったみたいだね」
ハリーおじさんとしては、アルバスのことが心配な一心だったのだろう。
ハリーおじさんとドラコおじさんの不仲を、わたしは知っている。どうやら二人は学生時代から仲が悪かったらしく、今も顔を合わせればいがみ合う間柄だということも。
……でも同時にわたしは、ドラコおじさんもスコーピウスも、二人とも悪い人じゃないってことも知っているのだ。
リドルさんは少し考え込みながら口を開いた。
「なるほどね。友達のことを悪く言われるのは、たとえ親でも嫌な気分になりそうだ」
「うん、わたしもそう思う。いきなり『誰々と関わっちゃダメ』って言われても『何でそんなこと言うの、何も知らないくせに』って反発しちゃうよね。……それに加えて、さ。わたしは、アルバスが怒ったのはもう一つ原因があると思うの」
「ほう?」
「……アルバスはきっと、ハリーおじさんに話を聞いてほしかったんじゃないのかな。ハリーおじさんがアルバスの言葉よりも、他のことを……ドラコおじさんとの因縁とか、世論みたいなのとか、そっちを優先したのが嫌だったんだと、わたしは思う」
怒りに任せたアルバスの言葉を聞いていた時は、ただただ受け止めるだけで精一杯だったけれど。こうして落ち着いて考えてみれば、多分そういうことなのだ。
……違うかもしれないけれど。
本当のことは、アルバスに聞いてみないとわからないのだろう。だから今のはわたしの想像だ。
「…………」
「……リドルさん?」
口元に拳を押し当て黙りこくってしまったリドルさんに、不思議に思って声を掛ける。リドルさんは「あぁ」と顔を上げた。手を下ろすと、普段通りの笑みを浮かべてわたしを見返す。
「……なんでもないよ。あのハリー・ポッターも大人になってしまったんだなと思っただけ」
「大人に?」
そう、とリドルさんは頷いた。
「僕は学生時代のアキと一緒にいた……って、前に言ったよね。当時、アキの目線で見ていた頃のハリー・ポッターであればきっと、まずは対話を選択した気がするんだ。暴走する気質は確かに昔からあったけれどね。それでもアキに……家族に対しても、頭ごなしに押し付ける人ではなかった。親子関係という特殊な状況がそうさせたのかもしれない。何にせよ、大人になってしまったんだなと思ったんだ」
「…………」
「皆、子供だった筈なのにね。大人になると途端に、当時のことを忘れてしまうようだ」
「……うん。それ、なんだかわかるかもしれない」
それは良かった、とリドルさんは微笑んだ。
──だとしたら、今のリドルさんは。
今、わたしと一緒にいるリドルさんは、ずっと学生時代の若いまま──子供のままでいるのかもしれない。
ただ一人、日記の中に取り残されて。
再びこの世界に蘇ってみれば、数年を一緒に過ごしたという父も、いつの間にか大人になってしまっていた。
(お父さんと会いたくないってリドルさんが言うのは、ひょっとしたらその辺りの事情もあるのかもしれないなぁ……)
「まぁ何にせよ、ソラがやりたいことは一つだね」
「うん。……今度ハリーおじさんに会ったら、わたしもアルバスと一緒に『スコーピウスはいい子だよ』って言ってやるんだ。ヒカルも巻き込んでやるの。そうしたらハリーおじさんも、ちょっとは考えを改めてくれるかもしれないから」
あ、なんだったら今からでも、ハリーおじさんにお手紙を書こうかな。
ハリーおじさんは子供の意見だからといって軽んじたりする人じゃない。ソラ・ポッターという一人の人間として、ちゃんと対等に扱ってくれる、そんなハリーおじさんがわたしは好きだ。
……そうなんだよねぇ……ハリーおじさん、いい人だしすごく真っ当な人なんだけどねぇ……。自分の子供相手じゃ、何故か距離感が掴めてなさそうなんだよね……。
リドルさんも「それはいい考えだね」と言ってくれた。
立ち上がったリドルさんと交代に、わたしは学習机に備えられた椅子に腰掛け、便箋やペンを取り出した。手紙の文面をちまちまと埋めるわたしの手元を、リドルさんは興味深そうに眺めている。
「ソラ、いるー?」
その時外側からカーテンが開かれた。わ、と慌ててリドルさんを振り返る。
……他寮の男の先輩を連れ込んでると思われたらまずい……!
しかしリドルさんは何事もなく姿を消していたので、わたしはホッと胸を撫で下ろした。
「ニーナ、開ける時は一声かけてほしいな!」
思わず同室の友人であるニーナ・ディゴリーにそう言うと、ニーナは「ご、ごめんね、うっかりしてた」と驚いたようにきゅっと身を縮める。
「でも、本読んでるときのソラ、話しかけても聞こえてない時があるから……むしろ、よく気付いたねって驚いちゃった……」
「うっ……ごめんなさい……」
上目遣いでニーナは言う。
……やばい、何も反論できない! わたしが本にのめり込みがちなのは、友人達皆が知っているのだ。
ニーナはわたしが勉強机に向かっているのを見て「お手紙書いてたの?」と首を傾げた。
「うん。ハリーおじさんに、ちょっとね」
「ハリーおじさん? って、あのハリー・ポッター? そっか、ソラにとっては伯父だもんね」
「そうだよ、いっつも可愛がってもらってるの」
「わかるぅ。いいないいな、私、パパもママも一人っ子だからなぁ」
「私もパパにお手紙書かなきゃ」とニーナはそのまま背を向けたが、少し経って「思い出した!」と慌てた様子で戻ってきた。
「ソラとおしゃべりしてたらすっかり忘れてたよ。あのね、ソラを待ってる人がいるから呼びに来たんだった」
「わたしを? 誰が待ってるの?」
「グリフィンドールのヒカル・ポッターだよ。ソラのお兄さん、なんだよね?」
ヒカルを待たせているとは、何と恐ろしいことやら。
慌てて談話室を飛び出せば、ハッフルパフの談話室前は人だかりができていた。
人の中心にいるのはもちろんヒカルだ。他所行きのキラキラ笑顔を貼り付けては、群がる女の子達の相手をしている。
……何故だかヒカルは人気があるんだよね。カッコいいカッコいいとよく騒がれているし。『王子様』だって言われてるのを聞いたこともある。
ぷぷっ、あのヒカルが! 箒に乗ったら三十秒で酔ってそれ以上飛べなくなっちゃうヒカルが!!
しかし、学校でのヒカルのイメージをぶち壊してしまうのも忍びない。わたしにとってはデリカシーのない傍若無人な兄貴でも、皆にとっては王子様(笑)なのだ。
妹として、兄のイメージに一役買ってやらんこともない。
「お待たせしましたわ、お兄様」
しゃらんとスカートを摘んでご挨拶。慎ましい淑女を演じてやろう。
わたしの姿を認めたヒカルは、一瞬でこれまでのキラキラ笑顔を引っ込めた。腕を組んで仁王立ちしては、居丈高にわたしを見下ろす。
「遅い! 何やってんだ、僕が早く来いっつってんだから一秒でも早く来るのが妹ってもんだろ」
……っ、こいつ……勝手に人を呼びつけておいて! まず速攻で文句かよ!
「ヒカルのバカッ、バーカ! もう背が伸びなくなっちゃえ! お父さんから背が伸びなくなる呪いを教わってやるんだから!」
「うるさい。お前さ、本読んでるのに罵倒の語彙力無さすぎない? 何のために本読んでんの? あと父さんはそんな恐ろしい企みには絶対に加担しないからな」
む、ムカつくッッ! バカッ、バーカ!! あと本は知識のために読むもんじゃないんだっつーの、バーカ!!
思わず怒りの地団駄を踏みそうになるわたしに、ハッフルパフの先輩が「ヒカルくんたら、ソラちゃんのことがすごく心配みたいで『妹はよくやってますか』なんて聞いてたのよ」などと微笑ましい表情を浮かべ囁いてくる。
いや、それは違うよ先輩。ヒカルはね、わたしがヒカルの足を引っ張らないか目を光らせているだけなんだから。そんな妹思いの兄じゃない、騙されないで皆。
「ともあれ、妹が来たので僕達はこれで。失礼します」
そう皆に断りを入れたヒカルは、わたしには断りを入れることなくわたしの手首を掴んではそのまま引っ張って連れて行く。
ヒカルったら酷いんだぁっ。母への手紙に書いてやる。覚えてろよ。
空き教室にわたしを連れ込んだヒカルは、ぴったりと扉を閉めた後、おもむろにわたしの前に手を突き出した。
「ソラ。リドルさんの指輪をしばらく貸してくれないか?」
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