グリフィンドールの自室へと早足で戻った僕は、部屋に誰もいないことを確認して勢いよく深紅のカーテンを引いた。
自分だけのスペースを区切った後、声や気配が外に漏れぬように二重、三重と魔法を重ねがけする。青銀に輝いた魔法式が定着し空間に解けた後、ソラから借り受けたネックレスをポケットから取り出した。赤い指輪が通されたネックレスを静かに机に置く。
「リドルさん」
名を呼ぶと『彼』は即座にその場に姿を現した。
艶のある漆黒の前髪、その隙間から切れ長で涼やかな目元が覗いている。グリフィンドールのカーテンと同色の瞳を眩しげにぱちぱちと瞬かせたリドルさんは、口元に笑みを浮かべては、どこか面白がるような眼差しで僕を見た。
「やっぱり。君は結構お父上に似ているね。ソラに持っていてもらうより、君の方が刺激は多そうだ」
「悪いんだけど、用事が済んだら指輪はソラに返すつもりだ。監視されるのは好きじゃないんだよね」
「そうだろうね」とリドルさんは、ネックレスと同じように机の上に置かれたブレスレットを横目で見た。
黒の紐で編まれたそれは、小さな水晶が中央に付いている以外は特筆して目立つものでもない。ただ一点、『アキ・ポッターが子供のために手ずから作成したお守り』であることを除いたら。
解析しようとは思わないし、また今の僕の
母が『要塞』と称したこれを、ソラは特に深く考えずに言われた通り常日頃身につけているみたいだが、僕としては友人達と戯れている時にコイツが万一発動したら……と思うと、背筋が薄ら寒くなるのを感じるのだ。
いや父さんのことだからある程度の『遊び』は用意していると思うけれど、それでも常に守られているのは窮屈に感じる。チャイルドロックは鬱陶しい。
「父さんは心配性なんだよね。あれでいて万全を期しておきたいタイプなんだ。先回りして手を打っておこうとする」
「ヒカルは違うの?」
「僕は……どうだろう。でも、何でも予測しちゃったらつまらないじゃないか」
人生において驚きは大事だ。想定外や予想外にこそ、心が浮き立ちワクワクする。
そこに先回りや準備なんてものが入ってきちゃあ、そいつは不要で無粋だろう。
「なるほど、なるほど。アキは初めから『
リドルさんはどこか納得したように頷いている。
はぁとため息をついて、僕はベッドに腰掛けた。
「父さんと幣原秋の関係について教えてほしい」
「おや、とうとう聞く決心がついたのかい?」
リドルさんは悪戯っぽく笑っている。仕方ないだろうと肩を竦めた。
「いい加減限界だ。限界ってのは僕の心じゃなくて、状況の方がね」
先日のハロウィンを思い出して眉を寄せる。
『アキ・ポッターはひとごろしだ』の一文は、幣原秋の秘密を掘り起こそうと決意するのに十分すぎるものだった。
かつての闇祓いの英雄、幣原秋。先の時代に殉じた仮初の光。
法の番人として、また秩序を維持する司法の一柱として、その身を正義に委ねた人。
「そうだね。先の戦時下、幣原秋を人間と見做していた人物の方が少ない。あれは秩序の
もっとも、そう見せかけたのは未来の僕なんだけど──と、リドルさんは含み笑いを浮かべてみせる。
ふむと口元を手で覆った。
「そう──幣原秋は司法側に立つ人間だ。彼が犯した罪は唯の一つもないと、全ての実況証拠がそう言っている。司法が、幣原秋は清廉潔白であると見做している……ならば一体、
「そりゃあ勿論──おっと」
リドルさんはそこでわざとらしく口を噤んだ。思わずジト目を向けた僕に「いやいや、君を馬鹿にしているわけじゃない」と両の手を振ってみせる。
「でもヒカル、僕から間違いを指摘させてもらうとすれば、少しばかり主語が違うんじゃないかな? ハロウィンの日のあの文面は、幣原秋を名指ししていたわけじゃない。あれは──」
「『アキ・ポッター』、僕らの父さんだったね。でもそう捉えると、余計意味が分からないんだ。幣原秋以上に、アキ・ポッターが人を殺したと判じる論拠は何処にもない」
当時の状況については、ある程度ではあるものの聞き知っているつもりだ。
一般的な話──それこそ一九九七年、当時七年生だった父が『ヴォルデモートと手を組んだ』という旨の声明を出した後の話だったり、その辺りについても、一通り。
だって僕の伯父は、かの有名な英雄ハリー・ポッターなのだ。父の口から特段話を聞くことがなくても、本当にそこいらで情報は手に入る。
今となっては知る術もないが、父の左腕にはかつて『闇の印』と呼ばれる
「本当に? 本当に絶対ないの? 命を奪うでなくても、精神的に殺した相手とかいなかった?」
「肉体的にも精神的にもそんな事実は一切ないよ。なんだか、実の息子からそんな質問をされるアキのことが可哀想でならないんだけど……秋だって、直にそんなことは言いっこなかっただろうに……」
リドルさんはちょっぴり気の毒げな表情を浮かべていたが、そう言われても実際ちょっと疑わしいんだから仕方ないだろう。
……でも、これで前提条件は整った。
「アキ・ポッターが人殺しである事実はない。であるにもかかわらずあの張り紙は、父のありもしない罪を糾弾していた。となると残る可能性はただ一つ、『父さんを中傷すること自体が目的』というやつだ。……でも、これはこれで腑に落ちないところがある。そもそも父さんに喧嘩を売るメリットってある?」
「あるよ」
打てば響く、そんな速度で返された言葉に、僕は思わず黙り込んだ。
リドルさんは相変わらず、口元に笑みを浮かべている。
「ヒカル、君に良いことを教えてあげよう。幣原秋と同じように、君のお父上も秩序の実現者なんだ。今の英国魔法界で最強の魔法使いは誰かと問われたら、大抵の人間はアキ・ポッターだと答えるだろう? 《中立不可侵》とアキ・ポッターの二大柱が、今の英国魔法界を支えている。今の平和が成り立っているのは、ひとえにアキが秩序側に立っているからこそ。ならば……」
「父を廃せば天秤は闇側に傾く、と。……まぁ、言いたいことは分かる」
大将を討ち取れば流れは変わる。万が一、父が闇側の人間に襲われ敗北したとしたら、今の平和な雰囲気は霧散するだろう。
「勿論そんなことがあっちゃ、闇祓い達も黙っちゃいないと思うがね。君のお父上に何かがあれば、ハリー・ポッターが間違いなくただでは済まさないだろうし」とリドルさんは付け加えた。
「今の平和を崩したい、秩序を崩壊させたい奴なんてどこにでもいるものさ。人と人が争うのに大きな理由なんていらない。そもそも自分以外の他人と分かり合えるわけがないのだから。他人と分かり合うなんて、そんなものは単なる集団幻覚に他ならない。誰もが相手を尊重し、譲歩することができるのだと、そんなことを考える方こそが非現実的だと思わない?」
リドルさんの言葉は実に明確だ。彼自身の過去(ある意味では未来だけど)があるから余計に説得力がある。
「……誰もが相手を尊重し、譲歩することなんてできない。それは、僕もその通りだと思うよ。だからこそ法規があるんじゃないの? 『それはあなたの権利じゃない』と線を引いて自由を縛る、それが法の存在意義では?」
「少し違うね。法律は人々の行動を制限しているわけじゃない。法律は罪と罰を定義するだけだ。たとえば死の呪文。これを人に行使することはアズカバンで終身刑に科せられる重罪だ。だからといって今、ヒカルの杖から死の呪文が放たれないよう細工がされていることはない。ヒカルがやろうと思えば、君は人を殺めることができる。今、君が死の呪文を使ったことがないのは、君が使わない選択をしているからだ」
思わずぞくりとした。普段意識していない、ローブに入った杖が太腿に当たる感触。意識が強く向く前に抑え込む。
リドルさんは続けた。
「『使ってはいけない魔法』なんてないんだよ、ヒカル。あるのは『能力が足りず使えない魔法』と『自ら使わない選択をしている魔法』でしかない。そして他人は法のラインを踏み越える時、いちいち親切に『今から法に触れる魔法を操りますよ』などと教えちゃくれない。
だから、君のお父上は君達にお守りを渡したんだ。何かがあったとしても敵は待っちゃくれないからね。アキを害そうと思った他者が真っ先に考えるのは、如何にしてアキを無力化させるか。そんな中、子供なんて格好の獲物だということは分かるよね?」
言いながら、リドルさんは机上のブレスレットに視線を遣る。む、と思わずむくれた。
「……分かった、分かったよ。別に、今はたまたま外してただけだから……ちゃんと着けておきますよ……」
ブレスレットを手首に通す。そのまま手首を振ってリドルさんに見せると、リドルさんはどこか安堵したように微笑んだ。
……全く、リドルさんも心配性だ。でもま、こうやって言われちゃあね。自分で自分の身を守れるようになるまでは大人しく従っておくとしよう。
「リドルさんって教師に向いてるよね」
何の気なしに発した言葉だったが、しかしリドルさんは僕の発言に目を見開いたまま固まってしまった。ん? と僕もぱちぱちと瞬きをしては、リドルさんのフリーズが溶けるのを待つ。
やがて気を取り直したらしいリドルさんは、困惑した表情のまま形だけの笑みを浮かべてみせた。
「……向いてないよ。僕は、教師には向いていない」
「……そう?」
「あぁ、そうさ。僕はアキとは違う」
そうは思えないけどな? むしろ向きすぎるほどに向いている気がするのだが。
しかしリドルさんの口調は硬い。本人がそう言うのであれば、何も知らない他人があれこれと口を出すのは野暮だろう。
「……ヒカルは聡い子だね」
僕にこれ以上追及する気がないのを悟ったか、リドルさんはそう言って僅かに身体の強張りを解いた。代わりに僕は腕を組む。
「ねぇリドルさん。僕の気のせいなら悪いんだけどさぁ? リドルさん、僕らに嘘をつかないように、なんかすごくすごーく頑張ってるよね?」
傍目から見ていて、どうしてそこまでと不思議に思うほど。
彼は過剰なまでに、僕らに対して真摯かつ誠実であろうとしている。
口にする言葉の一つ一つについても、とてつもなく神経を使っているのが分かるのだ。
眉を下げたリドルさんは、そっと視線を自身の右手に落とした。
彼の右手小指には、ネックレスに通した指輪と揃いの赤の指輪が今もなお嵌ったままだ。
(父さんとの魔法契約の証──って言ってたっけ、確か)
リドルさんと父の元で交わされた『決して嘘をつかない』という契約──しかしその契約は、既に完了されているはずなのだ。
破棄でもなく不履行でもなく、恐らくは『契約満了』として。
父の小指に嵌っていた指輪はここにある。ならばリドルさんの持つ指輪も、きっと外すことができるのだろう。
──であるのに、外さない理由とは。
「……彼への
どこか懐かしむような声音だった。
小指の指輪をそっと撫で、リドルさんは言葉を紡ぐ。
「僕はアキを尊重しているし、君達のことも尊重したいと思っている。この指輪はその誓いの証でもある。
……ふぅん。
案外リドルさんもデレるじゃん。
(なんだか妬ける……とまでは思わないけど、父さんとリドルさんの関係って気になるな)
どのような感じだったのだろう。ハリーおじさんやアリスおじさんへの態度とは、また違っていそうな気がする。
そもそもこのリドルさんも謎が多いんだよな。どうして学生時代の父と行動を共にしていたのだろう?
……まぁ、それらも追々聞いていけばいいか。幸いにして、時間はまだまだあるのだし。
「……あ、そう言えば、リドルさん。さっきの話に戻してもいい?」
「さっきの話?」
「うん。さっきの『アキ・ポッターを人殺しだと論える人物は誰か』って話。リドルさん、何か言いかけてなかった?」
「あれ? ヒカルには分からなかったかい?」
「……分からなくて悪かったな」
からかうような声音で問いかけられ、思わず口を尖らせる。「ごめんごめん」とリドルさんは苦笑しながら軽く詫びると、今度は勿体つけずにその言葉を口にした。
「アキ・ポッターを人殺しだと論える人物が一体誰なのか──そんなもの、アキ本人以外にはいないだろ?」
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