くぁぁ、とユークレース・ベルフェゴールは込み上げる欠伸を噛み殺した。
時刻は早朝の五時。真冬の今はまだ日も昇っておらず薄暗い。窓枠にうず高く積もる雪が、外の氷点下を下回っているであろう気温を伝えてくる。
部屋の中は温められているものの、廊下は吐く息すら白く濁る寒さだった。屋敷が広いというのも考えものだと思いながら、ユークは足早に人気のない廊下を進む。
ユークの普段の起床時間はここまで早くない。それなのに何故こんな時間に起き出し、ちゃんとした身なりに着替えているのかと言うと、義兄であるアキ・ポッターとの会合が五時半から予定されているからであった。
「……いくら日中は忙しいからって、こんな早朝からとか有り得ないでしょ……あの人本当はお爺ちゃんなの……? 僕はまだ寝てたいですよ……」
愚痴る声も、起き抜けだからか力無い。はぁぁと頭を振って眉間を抑えた。
ユークレース・ベルフェゴールにとってのアキ・ポッターとは、一応は信頼している
……『一応は』と冠を付けてしまうのは、この歳になっても相も変わらず、アキ・ポッターに対しては多少の敵愾心などを抱いてしまうからで。つまりは単に、ユークが素直になれないだけなのだ。
敬慕している最愛の姉を託しても良いと、そう思えるくらいには信頼している。姉が彼を夫として選んだことに否やはない。
ユーク自身、ホグワーツ入学の頃からアキ・ポッターとは面識がある。学生時代の交流も、回数だけで言うならば案外多いのかもしれない。なにせ、ユークが幼い頃から慕っていたアリス・フィスナーの隣には、大体当たり前のような顔でアキ・ポッターもいたのだから。
今思えば、子供じみた独占欲もあった気がする。自分が大好きな人の隣に居座っていたアキ・ポッターへの嫉妬心というべきか。
もちろん、彼はその地位にただ安穏と『居座って』いたわけではない。きちんとした絆と友情と親愛を結び、ひとつひとつの信頼を積み上げた末の席であった。
──そんなことは分かっている。
分かっているけど、割り切れないのが人の心というものだろう。
好意はあるし情もある。しかしそれらを素直にアキ・ポッターに対して表現できるかと言えば、これまた別の話であって。
これまで長年向けてきた態度はそうそう改められず、向かい合えばどうもツンケンしてしまうのがユークにとっての悩みの種ではある。
まぁきっと、アキ・ポッターの側もユークの心情は察してくれているのだろう。アキ・ポッターの厚意に、ついつい甘えてしまっている。
……とはいえ。
義弟となったユークのことを、アキ・ポッターは割と容赦なく振り回してくるのも確かで。
ベルフェゴール家当主であるユークが握る情報網や人脈、歴史や蒐集品に至るまで、何度『仕事』を持ちかけられたか数えるのも嫌になるほどだ。
特に
その年から呪文学教師として正式に働き出したアキ・ポッターに「いもり直前なの分かってます?」と恨みも交えそう言えば「でも、ユークは就職試験も受けないんだし、これが就職試験の代わりってことで」とにこやかに返された。何故、就職試験と逮捕とが同列に語られなければならないのか。
しかも舌の根が乾かぬうちに「まぁユークもレイブンクロー生なんだ、いもりで無様な成績を取ったら承知しないけどね」などとほざくのだ。本当にタチの悪い義兄である。
はぁぁと何度目かも分からぬため息をつき、ユークは執務室の扉を開ける。先に屋敷しもべが暖炉の火を起こしてくれていたため、室内は廊下よりずっと暖かい。
執務机に備えついた椅子に腰を下ろした。濃い目のミルクティーで眠気を覚ましながら書類に目を通していると、暖炉の火がパッと鮮やかな緑色に変わる。
「おはよう、ユーク。朝早くからごめんね」
暖炉から姿を現したアキ・ポッターは、普段通りの笑みを浮かべて片手を上げた。はぁ、と息をつきユークは立ち上がる。
「おはようございます、アキ。いえ、このくらいは。……相変わらず、あなたも忙しい人ですね」
アキを応接用のソファに案内し、自分も対面のソファに腰掛ける。そこで屋敷しもべが紅茶と軽食を運んできた。家主の礼儀として先に口をつけた後、アキに「どうぞ」と勧める。
「ありがとう、ユーク。そう言えば、最近は特に冷え込みが強いけど、家族はみんな変わりはない? 風邪引きそうな寒さだね」
「えぇ、お気遣いありがとうございます。アレクなんて雪が降るたび外を駆け回ろうとするので、止める側が大変ですよ。来年はホグワーツ入学だっていうのに、相変わらずなんですから。……姉上やソラやヒカルの様子はいかがですか? この寒さで体調を崩していないといいのですが。特にソラが……あの子は寒いのが苦手でしょう?」
「ソラは体力がないからね。でもホグワーツに入学したのだからと、割と気がけているように見えるよ。まぁソラは元々本好きのインドアっ子だから、いつだって図書館にいるのが常のようだけど」
「へぇ、でも偉いじゃないですか。クリスマスに帰ってきたらうんと褒めてあげようかな」
「ユークに褒められたら、ソラも嬉しがるだろう」
アキは父親の表情で穏やかに笑っている。
その笑顔がふと解けた。真面目な顔をしたアキに、察してユークも片手を上げ、屋敷しもべに合図を送る。
「さて、ユーク。早速で悪いんだけど、本題に入ろうか」
「えぇ。水晶の件ですよね」
両手いっぱいの大きな袋を持ってきた屋敷しもべは、音を立てぬよう慎重に、ユークとアキの間、ローテーブルの上にその袋をそっと置いた。袋の紐を解くと、ユークは中身がアキに見えるように晒してみせる。
「闇市場に流れていたものについては、あなたが見積もった八割ほどは回収できたと思います。本物かどうかは僕の方でも一通り確認はしましたが、あなたの方でも見ていただければ」
ソファから軽く腰を浮かしたアキは、おもむろに袋の中に手を突っ込むと、水晶を数個手に取った。水晶を左の手のひらで軽く弄んだ後、空いた側の手で指を鳴らす。
ボウッと燃え上がった炎が水晶を包み込んだ。と思った瞬間、キィンッと高い音がして炎が一気に消滅する。次に見た時には、アキの手のひらの水晶は真っ二つに割れていた。
ホグワーツの戦いの際、アキ・ポッターが全校生徒一人一人に手ずから作成したという水晶の守り。当時のホグワーツの戦いから十九年が経過して尚、その水晶は変わらぬ輝きを放っている。
「……攻撃を打ち消す魔法式を組み合わせた上で、それらを水晶に載せてるんですか?」
「んー、ヒカルやソラに持たせてるのはそうなんだけど、これはもう少しシンプルだね。致死性の攻撃魔法に的を絞ってるし、効果だって一度きりだ。学生当時の私が持っていたリソースとしちゃこのくらいが限度でしょ」
アキは軽く言うものの──死の呪文ですら防ぐ魔法道具など、この水晶以前は存在すらしなかったのだ。
この義兄め、闇市場でこれらが一体いくらで取引されていたと思っている。金に糸目は付けなくていいと言われていたものの、それでも内内での調整をしなければならなくなった。
全く、時代を変える才能の持ち主が身近にいると要らぬ苦労をするものだ。
「何はともあれ、本当にありがとう、ユーク。とても助かったよ、何とお礼をすればいいか……」
「別に、あなたのためではありません。姉上の頼みでしたので。……あ、でも。魔法を消し終わった後の水晶は、僕が頂いてもいいですか?」
「え? あぁ、もちろん。そのくらいでいいの?」
「えぇ、足しにはなります」
「でも、その、結構掛かったんじゃない……?」とアキはおずおずと尋ねてくる。
実際の総額をアキに伝えるつもりは毛頭ないものの、この人であればおおよその金額は想像できていることだろう。ユークは頭の片隅で計算機を叩く。
「……それでは……そうですね。ヒカルやソラが持っている『お守り』と同じものを作ってくれますか? アレクが来年ホグワーツに入学だから、お祝いにと思って」
意を決して言ってみる。
アキは一瞬思案するように目を伏せたものの、すぐにユークを見ては「よし、分かったよ」と微笑んだ。ユークはそっと胸を撫で下ろす。
大人になったアキ・ポッターが、実子のために丹精込めて作り上げたお守り──とくれば、それがどれだけの価値あるものなのか、自ずと想像できるというもので。
そもそも、ずっと誰かを守ることに固執していたこの人が、子供の身を守るために手を抜くはずもないのであった。
対物理、対魔法共に極上の強度を誇るお守りは、まさしく姉が『要塞』と称したのも頷ける。動く要塞としてなんら遜色のない防御力を誇っている筈だ。間違いなく、並の攻撃では子供達に傷ひとつ付けることすらできないだろう。
もちろんそれだけの能力を誇る分、ひとつひとつに並々ならぬ時間と労力とカネが掛けられているはずだ。間違っても量産できる代物ではない。
だから、アキ・ポッターに大きな貸しを作れた今回こそが、対等に依頼できる唯一の機会であった。損得の勘定は得意な方と自負しているユークでも、取引の成立にホッと身体の緊張を解くくらいには。
「アレクのこと、気に掛けてるんだね」
「そりゃ、大事な一人息子ですから。親としては心配ですよ。……それに、最近ホグワーツも不穏だと聞きますし。安全は確保しておきたいじゃないですか」
ユークの含みある発言に、アキは静かに口を閉じた。数秒黙った後「そうだね」と肯定する。
近頃のホグワーツでの不穏な空気を、ユークだって当然把握しているのだ。ハリー・ポッターの傷が傷み始めたということも、死喰い人の活動が激化していることも。
──この人が、問題を放置しておくような人でないことくらい知っている。既に何かしら手を打っているのだろうことも。先々のことを考えて動いていることにも気付いている。
それでも────。
「……あなたは、僕が言うまでもなくきっと、理解しているのかもしれませんが。間違いなく、分かっているのでしょうが。それでも僕としては、あなたに言っておかなければならないことがあります」
自分とは真逆の色合いの彼を。
全てを吸い込む漆黒の瞳を真っ直ぐに見据え、ユークは口を開いた。
「この水晶が敵の手にあることで最も危険に晒されているのは、他でもない闇祓いです。闇祓いの捕縛呪文が、この水晶で弾かれたとしたら──そんな想定、闇祓いの誰もしてはいなかったでしょう。第一線に立つ彼らを、あなたは危険に晒し続けている。そこにはあなたの妻も、あなたの兄上もいるはずです。あなたが命より大事だと思う二人が、そこにいるはずです」
「……………………」
「姉上にもしものことがあったら、僕はあなたを殺します」
ユークの言葉を聞き、アキはうっすらと微笑んだ。
「……それは、頼もしいね」
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