『──あぁ、ソラ、落ち着いて聞いてほしい。
アクアが──君達のお母さんが任務中に襲われて、意識不明の重態だ。先程聖マンゴに運び込まれた。アキに電話したけどホグワーツにいるせいか繋がらない。だから、ソラとヒカルは────』
……受話器を持つ指先が、冷える。
ハリーおじさんの緊迫した声が、頭の中を貫いていく。
わたしは息もできずに、ただ、ハリーおじさんの声を聴いていた。
──数ヶ月前から感じ続けていた嫌な予感が、今、繋がった。
(やっぱりお母さんを行かせちゃダメだった)
わたしが母を送り出したせいだ。
わたしが母の手を離したせいだ。
わたしのせいだ。
わたしのせいだ。
わたしのせいだ。
「……ソラ、どうしたの? 顔色が……誰からの電話なんだい?」
受話器を耳に当てたまま凍りついたわたしを見たリーマスおじさんは、わたしと視線を合わせるように身を屈めては、そっと尋ねてくる。
わたしは何も考えられないまま、リーマスおじさんをただ見返した。
「……ソラ?」
「…………、お、お母さんが……」
それ以上は言葉にならなかった。
リーマスおじさんは瞬時に表情を変えると、わたしの手から受話器を引ったくるようにして取り上げ耳に当てた。緊迫した声で受話器の先に問いかける。
「あぁ、ハリーか? 私だ、リーマスだ。何があった?」
リーマスおじさんがハリーおじさんと話す横で、わたしは一人俯いていた。
頭の中を、当てもない言葉がぐるぐると回る。
わたしのせいだ。
わたしのせいだ。
わたしのせいだ。
わたしの────。
その時、庭でのクィディッチが終わったのか、皆が家の中に戻ってきた。
賑やかな騒めきが一瞬室内を満たしたものの、電話を受けるリーマスおじさんの唯ならぬ雰囲気を察したか、皆の先頭に立っていたシリウスおじさんが怪訝な顔をして駆け寄ってくる。
「リーマス、どうしたんだ? ……ソラ、君、顔色が酷いぞ。熱でもあるんじゃ……」
そう言いながらわたしの顔を覗き込んだシリウスおじさんだったが、リーマスおじさんが受話器を乱暴に置いた音にぴくりと眉を上げた。
リーマスおじさんは集まって来た皆を見、押し殺した声で告げる。
「すまないが皆、今すぐ自宅に戻った方がいい。私はソラとヒカルを連れて聖マンゴに向かう」
「……何が起こった?」
「任務中の闇祓いが襲撃されたとハリーから連絡が入った。一部が負傷、アクアも意識不明の重態だそうだ」
リーマスおじさんの言葉に、ヒカルが小さく息を呑んだ。
シリウスおじさんは眉を寄せつつ腰のポケットを探っている。やがてスマートフォンを取り出したシリウスおじさんは、ぱぱぱと何かを打ち込みながら「ハリーのことだから、アキには連絡してんだよな」と問いかけた。
「あぁ、そのようだ。もっともホグワーツだと濃すぎて電波が入らないから、まだ届いていないかもしれないが……」
「なら原始的にふくろうを飛ばすか。おらピーター、来い」
「痛っ、待ってシリウス、どこに行くつもり?」
「阿呆、アキが望んだ時に動けるように準備をしておいてやんなきゃだろ。……他の奴らよりは冷静な俺達がな」
「じゃあ、また後で」と言ったシリウスおじさんの声のトーンは、気軽なセリフとは裏腹な、低く淡々としたものだった。
「……早く行こう、リーマスおじさん。母さんが心配だ」
いつの間にかわたしの隣に来ていたヒカルが、リーマスおじさんを急かすように言う。
普段から飄々としていてあまり感情を表に出さないヒカルも、今日ばかりは切羽詰まった表情を浮かべていた。
リーマスおじさんに手を引かれ、わたし達は煙突飛行ネットワークを経由して聖マンゴへと足を踏み入れた。
「ニンファドーラ!」
その時リーマスおじさんが大きな声を上げた。人混みを掻き分けたリーマスおじさんは、ホッとした顔でニンファドーラおばさんを抱きしめる。抱きしめられた側のニンファドーラおばさんは、少々面食らった顔をしていた。
「あ、あぁ、ごめんリーマス、心配かけたね……それよりもアクアだよ。ヒカル、ソラ、来てくれてありがとう。ハリー! ヒカルとソラが来たよ!」
ニンファドーラおばさんの声掛けに、ハリーおじさんが駆け寄ってきた。「あぁ……」と瞳を揺らしたハリーおじさんは、膝をついてわたしとヒカルを抱き寄せる。
「すまない、二人とも……君達のお母さんを守れなくて、本当にすまない……っ」
ハリーおじさんの声には、心底からの苦渋と後悔が混ざっていた。
わたしはベッドに視線を向ける。
真っ白の病室、真っ白のベッド、真っ白のシーツ。その上に、母は寝かせられていた。
真白のシーツに散らばる銀の髪も、瞑られた瞳を縁取る長い銀の睫毛も、抜けるように白い肌も──母を司る全てが、なんだか希薄で。病室と同じ色なものだから、目を離せば溶けて消えてしまいそうだった。
わたしやヒカルの訪れにも、母は全く反応しない。じっと静かに目を閉じている。胸元のシーツが僅かに上下するそれだけが、母が外界に
「……母さん」
ヒカルの微かな呼びかけにも、母は全く反応しない。
ハリーおじさんに「近付いていいよ」と背を押され、わたしとヒカルは母のそばまで歩み寄る。けれど母に触れる勇気までは出なくって、わたしはただじっと母を見下ろしていた。
……だって、触れてしまったら。
触って、揺さぶって、お母さんって声を掛けて、それでも起きなかったら……。
母を直視するのが辛くなってしまって、わたしは俯いたまま、母の耳に飾られたピアスをじっと見つめていた。
わたしの髪を括るシュシュを彩る鎖と同じ、
────その時、ざわりと空気が騒いだ。
よく知った気配に、わたしは息を呑んで顔を上げる。
病室の外、廊下を歩く足音、衣擦れの微かな音でさえも聴こえたと思った。
何かの『圧』を感じ取ったか、ざわめきが瞬時に止む。
闇祓いの制服を纏った面々は次々と、病室の入口に近い側から順々に、その人物に対して道を開けた。
「……お、父さん……」
──怒っている。
ここまで威圧が届くほど、父は静かに怒っている。
人垣が割れたおかげで、父の姿が窺えるようになった。
表情は普通。いつもの微笑みではないものの、読書時の顔のような無表情を貼り付けている。足取りも普通。身なりも見慣れた、裏地が群青のローブ姿だ。
それでも父から漏れ出る魔力が、父の感情を教えてくる。杖も携えていないのに、父が一歩歩みを進めただけで、父から一番近い位置にいた闇祓いがよろめくように膝をついた。
病室の入口で足を止めた父は、普段通りの口調で淡々と言い放つ。
「闇祓いも随分と暇になったものだね」
その言葉で、場に一気に緊張が走った。
父は軽く目を細め、震える闇祓い達に告げる。
「とっとと仕事に戻りなよ」
その一言で、病室にいた闇祓い達は蜘蛛の子を散らすように退室して行った。
残ったのはわたしとヒカルと母の他、リーマスおじさんとニンファドーラおばさん、そしてハリーおじさんと、白衣を着た癒師が一人。
ハリーおじさんは、父の威圧にも慣れた顔で苦笑している。
「アキ、彼らはアクアを心配して残ってくれた者達だよ? 彼女は仲間想いだから、その分慕っている人も多くてね」
「闇祓い局局長さんが指示を出さないから、代わりに言ってあげたまでだよ。ここでぼうっと待っていても状況は何も好転しない。ならばやるべきことをやるべきだ」
「はは……まぁ、気持ちは分かるけどさ」
病室に足を踏み入れた父は、ベッドに横たわる母を見ては、痛みを堪えるように眉を寄せた。薄く微笑みを浮かべながら、母の頬をそっと撫でる。
「……アクア、ごめん。ぼくのせいだ」
一度だけ、強く目を瞑り。
母の額に軽く口付けた父は、小さく息を吐いて身を起こした。わたしやヒカルと視線を合わせ、安心させるようににこりと微笑んでみせる。
……それでも、父の瞳に余裕はない。父がいつも纏っている泰然自若とした雰囲気が、今はどこにも見当たらない。
そのことが何よりも、わたしを不安にさせた。
「ヒカル、ソラ。待たせてごめんね。心細かっただろう?」
「そんなのはいいよ。それよりハリーおじさん……母さんの具合はどうなの?」
ヒカルが痺れを切らした声で尋ねた。
「それは……」とハリーおじさんは、逡巡するかのように父にちらりと視線を向ける。
ハリーおじさんの言葉を引き継いだのは、ハリーおじさんの隣に立っていた癒師だった。
「強い呪いが掛けられている。その呪いを解かない限り、患者が目覚めることはないだろう」
「……さすが、ライ先輩は率直だ」
苦笑した父は、ぐしゃりと自身の前髪を掴んだ。
ヒカルは真剣な表情で「どうすれば呪いは解けるのか」「母を救う手立てはあるのか」といったことを癒師に向かって矢継ぎ早に問いかけている。ヒカルの質問に対し、癒師は淡々と答えていた。
「闇祓い相手に逃げおおせたのだから、相手も相当の手練れだろう。呪いを解析するのにも時間が掛かる。数週間、あるいは数ヶ月……最悪の場合何年も掛かる可能性を考えておいた方がいい」
ギリ、とヒカルは歯噛みする。そんなヒカルを見下ろしていた癒師は、ふと何かに気付いたように目を瞠っては口元を緩めた。
「……グリフィンドール生らしい好戦的な考えだ。嫌いじゃないが止めておけ。お前じゃまだ敵わない、ヒカル」
いきなり名前を呼ばれ、ヒカルはびくりと肩を跳ねさせた。今度は癒師を見極めるような眼差しで、そろりと一歩距離を取る。
癒師は父に目を遣り、静かに言った。
「……アキ。捨て鉢になるなよ」
「……えぇ、分かってますよ」
「分かってないから言っている。お前のせいじゃない。彼女を守れなかったのは、お前の力が足りないせいじゃ」
「分かってます。だから、お願いですからちょっと黙ってくださいよ」
父の、身体の横で握られた拳が戦慄いている。それを見て、癒師は渋々といった様子で息を吐いた。
父から漏れ出る魔力が、ピリピリと肌を灼いている。
……それが痛くて、苦しくて。
父が、わたしの知っている父とは別人のようで。冷たくて、怖くて、何だかこの場から逃げてしまいたくなった。
……わたしって、薄情なのだろうか。
目を覚まさない母を心配する気持ちよりも、周囲の大人達の挙動に意識が行ってしまう。母に呼び掛けることもできずに、ただじっと身を強張らせている。
その時、誰かが勢いよく病室の扉を開けた。誰もが一斉に、病室の入口に視線を向ける。
父は静かに、その人物の名を呼んだ。
「……ユーク」
ユークレース・ベルフェゴール──母の弟であり、そしてわたし達の叔父であるユークおじさんが、息を切らして立っていた。
わたし達や母と同じ灰色の瞳が、父を捕捉してギュッと細まる。
ツカツカと病室に足を踏み入れたユークおじさんは、そのまま父の胸倉を掴んだ。
「……どういうことですか、アキ・ポッター。あなたが居ながら、何故、姉上が」
ユークおじさんの声も、父の胸倉を掴む両手も、怒りと動揺で震えている。
父は軽く目を伏せたまま、ユークおじさんにされるがままでいた。
「僕、前に言いましたよね。『姉上にもしものことがあったら、僕はあなたを殺します』と。憶えていますか」
「……憶えているよ」
「だったら、何故──!」
「だから、殺していいよ」
父の口から出た言葉に、ユークおじさんが目を見開いて絶句する。
父は陰鬱に微笑んだ。
「……そうだね。アクアを傷付けたんだから、命をもって償うべきだ。ユークの言う通りだよ」
「違います! そうじゃない、アキ、僕は」
「違う? 何も違わないだろ。君は私を殺す権利がある。……やりたきゃやりなよ。私は抵抗しないから」
離れかけたユークおじさんの手を、父は逃がさないとばかりに絡め取った。
据わった瞳でユークおじさんを見る父に、ユークおじさんも険しい顔で向き直る。
……どうしよう。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
父もユークおじさんも、二人とも人が違ってしまったよう。それだけ、母が倒れたことへのショックが大きいのか。
二人の諍いを止めたいのに、どうすればいいのか分からない。
……どうして、こうなっちゃったの。
(わたしが、母を行かせたせいだ)
回らない頭で、ただそれだけを強く思う。
わたしのせいだ。
今起きている悪いことは、全て、わたしのせいなのだ。
父とユークおじさんを止めようと腰を浮かしかけていたハリーおじさんは、しかし病室の入口を見てはホッとした表情を浮かべてみせた。つられてわたしもそちらを見る。
その声は、この空間の中で唯一『いつも通り』の声だった。
「──ユーク、今のこいつに喧嘩を売るな。高く買われるぞ」
病室の入口に、人影が二つ。
アリス・フィスナー──アリスおじさんと、彼の養女であるナイト・フィスナーが立っていた。
「ソラ、ヒカル、大丈夫? ううん、きっと大丈夫じゃないよね。大変だったね」
早口でそう言ったナイトは、わたしとヒカルをぎゅうっと強く抱きしめた。
ヒカルが息を詰まらせながら言う。
「ナイト、それにアリスおじさんも、旅行中だったんじゃ……どうして……」
「そんなの、こちらの方が大事だからに決まってる。養父が即決してね、帰ってきたんだ」
言いながら、ナイトがわたしの背中を優しく撫でた。その動作に、身体に入っていた力がほんの少しだけ抜ける。
父とユークおじさんの元に歩み寄ったアリスおじさんは、二人の間に割り入るようにしつつ父の手首を掴んだ。
「……アリス……」
「ユーク、お前も頭を冷やせ。アキを責めてもどうにもならない。そんくらい、お前は分かってるはずだろ」
強く唇を噛んだユークおじさんは、それでも我に返った顔で一歩下がった。わたしとヒカルに視線を向け、ぎこちない微笑みを浮かべてみせる。
「ヒカル、ソラ、取り乱した姿を見せてしまってごめんなさい。今日は帰ります。……アキ、アリス、後で必ず連絡を」
「あぁ」
アリスおじさんが頷く。小さく頭を下げたユークおじさんは、最後に父への鋭い一瞥を残して立ち去って行った。
父は項垂れたまま、小さな声で呟く。
「……言わせておけばよかったんだ」
「あのな、アキ……」
「私の失策が原因なのは間違いないんだから。アクアの守りが手薄になった、ユークにも、あれだけ釘を刺されていたのに……」
前髪を引っ張り、父は虚ろに自嘲した。
大きく息を吐いたアリスおじさんは、眉を寄せて父に向き直る。
「
「…………」
「自分が冷静じゃないことくらい気付け。ユークより、今のお前の方が何倍も危なっかしい。それに……親だろうが。子供達に気を遣わせるな」
父の肩が揺れる。
目元を押さえた父は「……すまない」と頭を振ると、掠れた声で囁いた。
「アリス、ごめん。一晩だけ、ヒカルとソラを頼んでいいかな……」
「……おう。落ち着いたら迎えに来い」
父の肩をポンと叩き、アリスおじさんは「ナイト、行くぞ」と声を掛けた。うん、と真剣な顔で頷いたナイトは、わたしとヒカルの手を掴んで立ち上がる。
病室を出る前に、わたしは振り返って父を見た。
わたしの視線に気付いたか、顔を上げた父はわたしを見ると、儚く微笑んで背を向けた。
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