(一体、どうして)
丸く、さらさらとした黒い頭を見下ろしながら、僕──トム・リドルは心底途方に暮れていた。
縁が成ってアキの娘であるソラ・ポッターと共に過ごすようになり、数ヶ月。徐々にこの不可思議な生き物──失礼、『ソラ』の生態も見えてきた。
第一印象は『平和ボケした能天気な少女』。アキほどの尖りや怜悧狡猾さはなく、つけ込むような精神面の凹みもない、至って健やかに育てられた健全な娘。
面白みで言えば、兄の方が僕に対する猜疑心が強い分、揶揄い甲斐があって結構楽しい。一方こちらの妹と言えば、あまりにも警戒心が無さすぎて全てが開けっぴろげなものだから、僕の方に悪意が無くとも思わず『少しは警戒しろ』と物申してしまいたくなるほどだった。
人の善性しか知らない少女。悪意について知識はあれど実感はなく、人を猜疑と疑心からではなく、親切と好意でもって迎える変わり者。
時代が時代なら、こんなか弱い存在なんて秒で搾取されていた。一体アキはどんな育て方をしたのだろうと心底呆れ返ったものの、それでも平和な時代の申し子とは、得てしてこういう娘であるのかもしれない。
……こんな娘であるものだから。
母親が倒れた時の彼女が、どれだけ傷付くのか測れない。
(さっきまで、平気な顔をしていたじゃないか)
確かに疲れた顔はしていた。ぼんやりと虚空を見つめる時もあった。
それでも涙を見せることなく、受け答えも気丈であったから、僕は『問題ない』と判断したのだ。
────それなのに。
彼女の傷の深度が分からない。
本来どれほど傷付いて然るべきなのか、その度合いが分からない。
……そもそも、自分が傷付けられた訳でもないのに。
母親であろうと他人なのだ。それがどうして、自分ごとのように痛みを感じるのか。
ソラの涙を見た瞬間、呼吸が止まる心地にさえなった。
体温のないこの身体が、何故だか凍りつくように冷え込んだ。
僕の胸に顔を埋めて、ソラは大粒の涙を零す。嗚咽も震えも、全てこの狭い空間に押し隠すように。
小さな背中を、撫でてあげた方がいいのかもしれないと思う。いや、きっと、撫でてあげた方がいいはずなのだ。僕がいるよと、耳元で甘く囁いて。そっと抱き寄せてあげるだけで、女は従順になるのだから。
──そう、思いはするものの。
僕は結局ソラを抱きしめることもなく、ましてや慰めの言葉すら掛けることもないまま、ただただソラが泣き疲れて眠るまで、じっと
ソラの身体がふらりと傾いだ、その瞬間に抱き留める。小さな身体を抱え上げ、そっとベッドに横たえた。
(……僕は一体、何をやっているのやら)
少女の、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を拭うために、蘇ったはずではなかったのだが。
父親譲り、祖父譲りであるソラの黒髪をそっと撫でる。小さく息を吐いて天井を見上げた。
たとえ、何が起きようとも。
この時代にはアキがいる。
曲がりなりにも数年を共に過ごしたアキ・ポッターのことを、僕は割と信用している。
アキの信念と能力を、僕は一番理解している。
……だから、ソラが泣く必要は、ないのだ。
指の先でソラの頬に触れる。まだ幼さを示す丸みを帯びた頬を、ゆっくりと撫で下ろす。
明日、ソラが泣きませんように。
ただそれだけを、祈りながら。
ソラから視線を外した僕は、いつの間にかあった『それ』に気が付き目を瞠った。
……なんだ、それは。
一体、何が起きている?
「………………、え?」
──何が起きたか、理解が及んで、尚。
僕は、そんな心底間抜けな声を発するのが精一杯だった。
(36.5話────fin.)
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