──夕暮れと朝焼けを切り取ったような世界の真ん中に、その階段は
階段は星々の煌めきを吸い取るような紺青色。頭上に朝焼け、足下に夕暮れを認めつつ、わたしはひたすら階段を下っていく。
周囲に人影は一切ない。誰もいない世界の中を、わたしは一人下り続ける。
怖いとか、心細いとか、そんな感情はあまりなかった。何処に行こうと考えるまでもなく、足は勝手にわたしを目的地へと運んで行く。
何故か涙が止まらない。拭っても拭っても溢れていく。
下る階段に終わりはない。果てのない階段に小さくため息をついた、その瞬間────
「……っ!?」
何処からともなく現れたその人物は、唐突にわたしの腕を強く掴んだ。ギョッとして振り返る。
──ここにはわたし以外、誰もいなかったはずなのに!?
「誰っ……!?」
艶のある短い黒髪に、紺青の和装。
その人物はわたしを見下ろして、ニコリと穏やかに微笑んだ後──虚空に現れた漆黒の扉を開いては、その中にわたしを放り込んだ。
……そこで、ハッと目が覚めた。
毛布を払って飛び起きる。部屋の中は、カーテンの隙間から差し込む朝の光で薄明かりが差していた。
今の夢は、何────だったのだろう?
夕暮れと朝焼けを切り取ったような世界。ぞっとするほど美しい、見たことのないほど幻想的な光景。
ただの夢と片付けてしまうには、質感が強過ぎた。階段を踏み締める感覚も、微風が頬を撫でる感覚も、謎の人物に腕を掴まれた感覚も、全部、全部憶えている。
……さっきの人、誰だったのだろう?
見覚えはない。あるはずない。ほぼ、間違いなく初対面だ。
でも、そう──何処か懐かしいような、心の片隅がくすぐられるような、そんなノスタルジックな気分が残っている。
うぅんと首を捻りながら、わたしは辺りを見回して────
「……どうしたの、リドルさん?」
ベッドの枕元に腰かけたまま、わたしの顔を物凄く奇妙な表情で見つめていたリドルさんに問いかける。
奇妙な表情って具体的にはどんなのかって、例えるなら……どれだけ考えても腑に落ちない謎々を眺めている時のような顔だ。瞳にも『理解不能』の文字が浮かんでいる気がする。
リドルさんは「いや……」と呟いてはふるりと頭を振った。いやいや、何もないって表情じゃないと思うんだけど?
いつもにこやかな笑みを浮かべているリドルさんらしからぬ表情だ。そもそもどうして、今日は呼ばずともこうして現れているのだろう……か……。
「……あっ」
昨晩のことを思い出して、顔にパッと熱が集まる。
……そうだった、昨日のわたしはリドルさんに泣きついたまま寝落ちしたのだった。
意識しちゃうと恥ずかしさが募ってくる。わたしは「リドルさん、着替えるからあっち向いて」と言って背を向けた。
「ん? ……あぁ、すまないね」
返答にもいつもの覇気がない。
一体どうしたのだろうと思いながら、わたしは手早くパジャマを脱ぐと服を着替えた。肩ほどの髪を櫛で梳かして部屋を出る。
「…………」
リビングへと続く階段を下りながら、心が段々と落ち込んで行くのを感じた。
……母がいないと思うと、なんだかとっても気が滅入ってくる。
母はもう、わたしに「おはよう」と笑いかけてくれない。どれだけ想っても、祈っても、母は目を覚まさないのだ。
もう、髪を結ってもらうこともできない────
リビングの扉を開けると、色とりどりのプレゼントの山が出迎えた。思わずきょとんと目を瞬かせる。
……え、何、なに、これ?
誰かの誕生日? でもヒカルの誕生日はこの前終わったし、わたしの誕生日は六月だし、一番近い母も三月だし……。
何故か見覚えのある景色に驚いていたところ、山ほどのプレゼントに囲まれる位置でヒカルの姿を発見した。床にあぐらをかきながら、難しい顔でプレゼントを一つ一つ仕分けている。
ヒカルはわたしの姿を認めると、朝の挨拶もすっ飛ばし「あ、ソラ、お前の手も貸せ」と手招きした。
「………………、ヒカル……そのプレゼント、誰のなの……?」
わたしの問いかけに、ヒカルは「はぁ?」と眉を寄せた。
「何言ってんだ、ソラ? 僕のだよ。例年このくらい届くだろ」
「……どうして……?」
「どうして、って……もしかして、寝惚けてる? 今日は僕の誕生日、十二月二十三日だからだよ。まさかお前、実の兄の誕生日を忘れちゃったのか?」
「…………」
口元を押さえて一歩後ろに下がる。そんなわたしを見て、ヒカルは首を傾げた。ヒカルの瞳に嘘はない。ヒカルは、そんな悪質な冗談を言う子ではない。
……今日は十二月二十三日だと、ヒカルは言った。
十二月二十三日。クリスマスは、明後日だ。
(────ゆめ、だった?)
ゾクゾクと震えが這い上がる。
口元を押さえたまま、よろよろと数歩後ずさった。背に廊下の壁が当たる。
わたしの様子がおかしいのを見て、ヒカルは一層怪訝な顔をした。「ちょっと、おい……」と腰を浮かす。
(────夢だった!)
……全部、全部、わたしの頭の中だけで起こっている悪夢だったのだ!
腹の底から感情が込み上げる。
その場で踵を返したわたしは、階段を駆け上がった。目指すはもちろん、母の私室だ。
母の部屋の扉をノックしかけた手が、途中で止まる。少し悩んで、わたしはノックをしないままそうっと扉を開け、部屋の中に滑り込んだ。
部屋に母の姿はない。ならば両親の寝室だろうと、母の部屋から続く扉のドアノブに手を掛けた。ゆっくりと押し開く。
部屋着姿のまま、母はベッドの端に腰掛けていた。わたしの姿を認めた母は、少し怒ったような声音で「……ソラ、部屋に入る時はノックをしなさいと教えたでしょう」と言う。わたしは思わず身を竦めた。
「ご、ごめんなさい、お母さん。ちょっと……あの……」
言葉の途中で、視界は涙に滲んだ。
──母がいる。
今ここに、わたしの母がいる。
声を詰まらせポロポロと涙を零すわたしを見て、母は少し驚いたようだった。わたしの元に駆け寄った母は、膝をついてわたしの身体を抱き寄せる。
「……怖い夢でも見たのかしら?」
「……うん。そう……すごく怖い、こわい、夢だったよ……」
──そう。
怖くて、寂しくて、悲しくて──それでもきっと、あれは夢だったのだ。
こわい、こわい、ただのゆめだったのだ。
「今日のソラは、随分と甘えたさんなのね」
そうジニーおばさんに言われ、思わず顔が熱くなる。それでもわたしは、母の腰に回した腕を外さなかった。
父が我が家をクリスマス仕様に変更した後、いとこ達もヒカルの誕生日とクリスマスのために集まってきた。今もヒカルを囲んでは各々「お誕生日おめでとう」とプレゼントを渡している最中だ。
そんな中、わたしは子供達の集団から外れては、母を含めた女性陣の中にいた。いいのだ、ヒカルにプレゼントを渡す機会はいくらだってあるし……後で部屋にでも置いておけばいいんだし。
それよりも今は、一秒でも長く母にくっついていたかった。母の温もりを感じるたびに、ついつい安堵のため息をついてしまう。
わたしの頭を撫でながら、母は眉を下げて微笑んだ。
「……ホグワーツは寮だもの。慣れないうちは寂しいわよね」
「まぁねぇ……まったく、ソラの可愛げをうちの子にも分けてあげたいくらいだわ」
「男の子はこんな感じなんじゃない? ヒカルもケロッとしてたわよ」
「ジェームズなんて、一年生の冬に帰ってきて早々『実家つまんない』なんて言って箒でホグワーツに帰ろうとしたのよ? 信じらんない。ヒカルが引き留めてくれてなかったら、あの子本当にやりかねなかったわ」
「あぁ……懐かしいなぁ……」
母とジニーおばさんは顔を見合わせ笑い合っている。
出入口の扉に目を向けたジニーおばさんは「あっ」と呟き、腰掛けていた椅子から身を浮かせた。
「ハリーが来たみたい。ちょっと行ってくるね」
「えぇ……」
母がヒラヒラと手を振る。ジニーおばさんはそのまま、ハリーおじさんの元に駆け寄って行ってしまった。
……ハリーおじさんか……。そう言えば『夢』で、ヒカルの誕生日の日にハリーおじさんに「アルバスとちゃんとお話するように」なんて言ったような記憶があるな……。でもちょっと、今は母の元を離れたくはない。アルバスのことを話すタイミングは、きっとまだ来るはずだ。
その時、父がわたし達の方に歩み寄ってきた。思わず身を硬くして母にしがみつく。
……まだ『夢』で見た父の姿が、脳裏に残像のように残っているのだ。
母にぴっとりとくっ付いて離れないわたしを見て、父は苦笑を零した。
「ソラ、さっきナイトも来ていたよ? 挨拶しに行かなくていいのかい?」
「いいの。お母さんといる」
父と母は顔を見合わせ「……ソラがナイトに興味を示さないなんて」「重症だね……」と呟いている。確かに、これまでナイトを見かけると駆け寄って飛びついていたものなぁ。……でも、今は母と一緒にいたいのだ。
母はわたしを抱き上げると、自分の膝の上に腰掛けさせた。わたしの髪を指で優しく梳きつつ問いかける。
「……寂しかったのかしら。今日は、お母さんとお父さんと一緒に寝る?」
「それはいい……」
「いいんだ……」
隣で聞いていた父がショックを受けていた。何故だ。
例年、ヒカルの誕生日である今日からクリスマスの日まではいとこ達と一緒に過ごしている。その不文律までは崩したくない。
そう──だってあれは、ただの『夢』だったわけだし……。もう、思い悩む必要はない……はずだ。そのはずなのだ。
しゅんと肩を落としていた父は、そうだと顔を上げて母を見た。懐を探り、小さなケースを取り出しては「アクア、これ」と母に差し出す。
「頼まれてたやつ、出来上がったから」
「あら……ありがとう、早いのね」
母はにこりと笑って、父からそのケースを受け取った。
小さなアクセサリーケースのようだ。じっと見ていたわたしの視線に気付いたか、母はケースを開けては中身をこちらに見せてくれる。
それは──。
「あれ……ピアス?」
母がいつも付けている、アクアマリンのピアスだ。きょとんと母を見返すと、母は髪をかき上げて何も嵌っていない耳たぶを見せてくれた。
「……お父さんにお願いしてたの。ちょっと改造してほしいって」
「改造?」
「ええ……このピアス、あなた達のお守りと同じ機能がついていたでしょう? だから……ちょっと、ね?」
「ハイハイ。全く、このお姫様は無茶を仰るんだものなぁ」
父は眉間を押さえてため息をついている。母はピアスを身につけながら「愛しているわ、私の騎士様?」と微笑んだ。
「私としては、アクアにあまり無茶はしてほしくないんだけどな」
「無茶なんて、そんなことしてるつもりはないのよ」
父と母はいつも通りに笑い合っている。
……そうか。そりゃそうだ。父が母に、わたしやヒカルが持っているものと同様のお守りを渡していないはずがない。
対物理、対魔法、共に絶対の防御を誇る父の要塞。あのアキ・ポッターが精力込めて作り上げた傑作。
(……じゃあどうして、あの時──『夢』の母は呪いを受けたの?)
「……どうしたの、ソラ? 何か悩みでも?」
父が微笑みを浮かべて尋ねてくる。思わずドキリと心臓が跳ねたものの、ギュッと拳を握って押し隠した。
笑みを浮かべて、わたしは言う。
「何も、悩みなんてないよ」
……そう、何も────今はまだ。
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