──これまで二度、クリスマス含む数日を迎えてみて、わたしは思ったことがある。
(……お父さんはどうして、クリスマスの日に家にいないのだろう)
──だってそうじゃない?
父がいたら、状況は諸々変わったと思うのだ。
だって父は『英国魔法界で最強の魔法使い』だ。襲撃の原因や犯人など、分からなかったことがもっと早く分かるのではないだろうか? それどころか、闇祓いの襲撃自体も────
(流石にそれは無理かもだけど……でも、お父さんさえ、いてくれれば)
どこか祈るような、そんな救いを求める気分で、わたしは寝静まった部屋をそっと抜け出る。
外はまだ薄暗く、夜明けはまだ先だ。それでも眠気は襲ってこなかった。
少しの間廊下を歩き、やがて灰色の扉の前に辿り着いた。この扉は煙突飛行ネットワークに繋がっていて、ホグワーツを始めとしたあらゆる場所にあっという間に行くことができる。
十中八九、父はこの扉を使ってホグワーツに向かうはずだ。であればこの場所で見張っていれば、きっと父を捕まえられる。
「はぁ……」
わたしは壁にもたれかかると、膝を抱えて座り込んだ。
上着か毛布を持ってくればよかったなぁとふと思うものの、今から取りに戻るのは面倒が勝つ。部屋に戻ったタイミングで、もしもローズかリリーが目を覚ましでもしたら……言い訳を考えるのには骨が折れそうだ。
──そのまま、待って。待って。待って。
空の山ぎわが僅かに明るくなり始めた頃、うとうとしかけていたわたしの耳に声が届いた。
「ソラ?」
「……ん……」
うっすらと目を開ける。わたしの顔を心配そうに覗き込んでいた父は、目を開けたわたしにホッと肩の力を抜いた。
「どうしたの、こんなところで。寒かったでしょ?」
言いながら父が指を鳴らすと、どこからともなく毛布が降ってきた。毛布を広げた父は、そのままわたしの身体を優しく包み込む。
「……あ、ありがとう、お父さん……」
「どういたしまして。……ごめんね、父さんもう行かないと。ソラも早く部屋に戻るんだよ、風邪引いちゃうからね」
「あっ……待って!」
踵を返そうとする父の袖を、わたしは慌てて掴んだ。「ん?」と、父は緩く首を傾げてわたしを見返す。
「う、えっと、その……お父さん、こんな朝早くに、どこ行くの?」
……時戻りのことも、『夢』のことも、今はうまく伝えられる自信がない。
迷った挙句、わたしはそんな質問を絞り出した。
「学校だよ。ちょっと緊急の用があるって呼ばれちゃってね、行かないと」
「……緊急の用って、何……?」
父の袖を強く掴み直す。父は少し困った顔をして「ソラが気にするようなことじゃないよ」と言った。
「だって、だって、気になるんだもん……ね、ねぇ、今日はクリスマスなんだよ? 家族で過ごすことより、大事なことってあるのかな……?」
……無理を言っていることは承知している。
でも、それでも、わたしは引けない。
父は膝を折り、わたしと視線を合わせた。
──あぁ、ダメだ。
この目は、駄々っ子を宥める目だ。
「寂しい思いをさせてしまってごめんね、ソラ。なるべく早く帰ってくるようにするし、この埋め合わせは必ず……」
──違う。
違う、違う、違うのだ。
「……もし、もしも、お母さんが今日危ない目に遭うかもしれないって知ったら、それでもお父さんは行っちゃうの?」
わたしは駄々を捏ねているのではないと分かってほしい。
どうかわたしの言うことが、重要で、耳を貸す価値のあるものだと分かってほしい。
父は割と、人の話に耳を傾けてくれる人だと信頼はしているものの────
それでも、どうか、子供の戯言だと聞き流さないで。
……母のことを出せば、父は家に留まってくれるのではないかと期待した。
父が母のことを心の底から愛しているのは公然の事実だ。愛する人が危険な目に遭うかもしれない、そんな未来を示唆すれば、あるいは──と、思ったのだ。
父は表情から笑みを消した。
「……アクアが危ない目に?」
少し考え込む素振りを見せた父に、わたしは言い募る。
「ねぇ、どうかお願い、お父さん……今日は良くないことが起こる気がするの。だからどうか、ここにいて……行かないで……」
「ソラ、いいかい」
父の右袖を掴むわたしの手を、父は左の手で掴んだ。その手の感触は硬く、否が応でも義手であることを思い起こさせ、わたしはギクリと背筋を伸ばす。
わたしの目を真っ直ぐに見据え、父は言った。
「私はホグワーツ魔法魔術学校の副校長、アキ・ポッターだ。ホグワーツの安全と秩序を守る義務がある。ホグワーツが脅かされている今、アクアへのまだ知らぬ脅威に
「……え? そんな、」
「アクアは、君のお母さんは闇祓いだ。危ない目に遭うかもしれない? 当たり前だよ、そういう職業だ。その職業を選んだのはアクア自身だし、アクアだって百も承知だよ。それでも闇祓いという誇り高い職を選んだ。私は、そんな彼女を心の底から尊敬している」
「……じゃあお父さんは、お母さんよりもホグワーツの安全を選ぶの? お母さんが怪我をして病院に運ばれても、それでもお父さんは、ホグワーツの安全を優先するの?」
混乱しつつもそう尋ねたわたしに、父は。
「そうだよ」
と、はっきりと答えた。
思わず目を見開くわたしに、父は淡々と告げる。
「自分で身を守る術を知っているアクアと、まだ未熟な未成年魔法使いが多く滞在しているホグワーツの安全。どちらを優先すべきかなんて、火を見るほどに明らかだ。愛故に優先順位を履き違えるなんて、そんなことはあってはならないから」
「…………っ、じゃあ、じゃあお父さんは! お母さんがお仕事で怪我しても、仕方ないって、当たり前だって、そう言うの?」
「そうは言ってない、ただ……ソラ、私は神様じゃない。私の力には限界があるし、何だって守れはしない。そしてアクアはもう私に守られているだけの無力な少女じゃないんだ。だから──」
「もういいよ、お父さんなんて、ホグワーツにでもどこにでも行ってしまえばいいじゃない!」
脳天まで煮えたぎるほどの怒りを、生まれて初めて父に覚えた。
視界が霞む。頭の芯がじんと痛む気がして、そんな痛みさえも怒りに変換される。
……わたしが、一体、どんな思いで時を戻してきたか。
どんな思いで三度目の『今日』を迎えているのか、父は全く知りもしないで。
「……ソラ、やっぱり少し体調が悪いんじゃない? 寝不足だと良くないことを考えすぎてしまう。悪いことは言わないから、部屋でゆっくり休みなさ……っ」
父の言葉を最後まで聞かないまま、わたしは毛布を剥ぎ取り父へと投げつけた。父は驚いた顔をしてわたしを見る。
……どうしてそんな顔するの。
お母さんを見捨てるって、最初に酷いこと言ったのはお父さんでしょ。
(お父さんなんて、知るものか)
お母さんよりもホグワーツの生徒達が大事だと言うお父さんなんて、知ったことじゃない。
(嫌い、嫌い、嫌い、お父さんなんて大っ嫌い!)
目の端にじんわりと涙が滲む。この涙は悲しみじゃない。燃えたぎる怒りの発露に他ならない。
唇を噛み締め涙を堪えたその時、どこからともなく銀色の霞が舞い降りた。父とわたしを隔てるように降り立ったその霞は、やがて猫の
『──アキ・ポッター、何をしているのです。あなたの力が必要な事態です、休暇中申し訳ないのですが、なるべく早く帰城するようにお願い申し上げます──』
……このピリッとした神経質な声は知っている。ミネルバ・マクゴナガル校長先生の声だ。
父は軽く肩を竦めては杖を振り「
「ソラ、本当にごめんね。でも……」
「か、勝手に行けばいいじゃない。お父さんなんて、もう知らない」
父からふいっと顔を背ける。父は少ししょげた顔をしていたものの「……あとで話そう、いいね」と言い、ドアノブに手を掛けた。
「……お父さん、ひとつ聞かせて。お母さんより大事なホグワーツの危機って、一体何なの?」
背を向けたまま問いかける。父は数秒黙った後、やがて静かに口を開いた。
「秘密の部屋が、どうやら再び開かれたらしい」
父が扉の向こうに姿を消した後、わたしは足取りも重く、肩を落としてトボトボと部屋へと戻った。ローズとリリーはまだぐっすりと眠っていて、わたしは二人を起こさぬようにそうっとベッドに潜り込む。
でも、毛布に包まっても眠気は全然やってこなくて。意識はどこかずっと鋭敏なまま、夜が明けるのを必死に待った。
(秘密の部屋が開かれた、のだとすれば、それは──)
……それは、確かに大変なことだと思う。
父の前では決して言えなかったけれど──それでも、それでもほんの少しだけ──母よりも優先すべきことかもしれないと、あの時、わたしは確かに思ってしまった。
(い、いやいや。それでもわたしは、お母さんを助けるんだ)
母も、ニンファドーラおばさんも。
父が助けてくれないのなら、わたしだけの力でやり切るだけだ。
内心で、静かにそう決意する。
──結局一睡もできないまま、わたしはローズとリリーが起きるのを待ってホールに降りて行った。
ホールには個々人に向けたプレゼントの山が作ってあって、三度目ともなった今にしてみれば、既に見慣れた光景である。わたしはプレゼントの包装を解きつつ、母の訪れをじっと待った。
「お母さんからも、クリスマスのプレゼントがあるの。お父さんからのプレゼントは、お父さんが帰ってきた後の夜に受け取るといいわ」
やがてホールに降りてきた母は、そう言ってにっこりと笑った。
母に促されて私室に入る時も、髪を梳かれ結われている最中もずっと気もそぞろだったわたしは、母に随分と心配されてしまった。「夢見が悪かったの」と全力で誤魔化すも、それでも母の表情は晴れない。
「……ねぇソラ。何か、あったの? よかったら、お母さんにお話してみて?」
「ほ、本当に何でもないの。ただ良くない夢を見て……どんな夢だったのかは、言いたくない……」
……夢。
本当に、これがただの悪夢だったら良かったのに。
その時、母の招集を告げる闇祓いの紙飛行機が室内に飛び込んできた。思わずビクリと身を震わせる。怪訝な顔で母が紙飛行機を手に取ったその時、部屋の外で誰かが階段を上ってくる足音がした。
やがて、扉の向こうからニンファドーラおばさんが顔を出す。
「やぁ、アクア。急にごめんね。でも、君も招集を受けたでしょ? 折角のクリスマスに申し訳ないんだけど、我らが闇祓い局局長、ハリー・ポッター殿からの御命令だし、出られるかな?」
いつも通りの気安い笑みに、気さくな口調。誰もが大好きなニンファドーラおばさん。
……絶対に、悲しい目になんて遭わせやしない。
「二人とも、行っちゃダメ……!」
話す二人の間に割り込み、その手を強く掴んだ。二人は驚いた顔でわたしを見下ろす。
「いきなりどうしたの、ソラ? 行っちゃダメって言われても……こっちもお仕事だからね」
「お仕事でも何でも、絶対に行っちゃダメなの! 行くと、酷いことになる……!」
思い出す。
リーマスおじさんの蒼白な顔を。テッドの信じられないと言いたげの表情を。ヒカルの思いつめた横顔を。
そして、こんな時でも一番色濃く脳裏に焼き付いているのは、やっぱりどうして、あの日の父の涙なのだった。
もう、わたしはもう絶対に、二度と──二人が傷つく姿は見たくないのだ。
わたしの言葉に、母とニンファドーラおばさんは顔を見合わせた。母は身を屈め、わたしと視線を合わせる。
「……ソラ、どういう意味?」
「……そのまんまの意味だよ。今日だけは行っちゃダメなの、どうしてもダメなの……どうかお願い……二人とも、ここにいて……」
ただただ、心底希う。
この手は、決して離してはならない。
「もう少し詳しく教えて、ソラ。それは今日、私達の誰がが危険な目に遭うと言っているの?」
わたしを見据える母の目は、真剣だった。
──母なら、もしかしたら。
「……そう、そうなの。今日、闇祓いが襲撃されるの。そこで、そこで──、だからお願い、行っちゃダメ!」
……母は、わたしの目をまっすぐ見たまま、こくりと頷き。
「……ありがとう、ソラ。そして────ごめんなさい」
と言って、静かに立ち上がった。
「………………、え?」
見上げたニンファドーラおばさんも、母と同じ表情を浮かべていて。
わたしは混乱した感情のまま、二人の顔を交互に見た。
「いいの? アクア」
「……えぇ」
「な……っ、どうして!? 行かないでって言ってるのに!」
──どうして、何が、前回と違うのだ。
わたしの言葉の何が、母の琴線に触れなかったのだ。
「……ソラ、よく聞いて」
母はわたしの肩に手を当て、真剣な声で言う。
「……あなたが何を知っているのか分からないけれど。それでもね。『闇祓いが襲撃される』と聞いて、お母さんは……私は、行かないわけにはいかないの。……そこがどれだけ危険でも。危険を承知で行かなければならない。そこで傷つくかもしれない誰かを、守りに行かないといけないの。
……私は、
母は小さな声でもう一度「……ごめんなさい、ソラ」と言い、わたしの肩から手を離した。
「……子供に親の思想を押し付けるのなんて、ずっと嫌だと思っていたのに。結局、私も同じなのね」
そんな微かな一言を残し、母は俯いて部屋を出て行ってしまった。
小さく息を吐いたニンファドーラおばさんは、わたしの顔を覗き込むと安心させるような笑みを浮かべてみせる。
「ソラはただ、お母さんを心配していただけなんだよね。大丈夫、その気持ちはお母さんにもちゃんと伝わってるよ。……あー、その、安心して? 確かに闇祓いは危険な職業だけど……それでも、ソラのお母さんは、あたしがちゃんと守るからさ」
……伝わらない、届かない。
そんな気休めの言葉なんて、わたしは聞きたくなどないのだ。
その後、夕方過ぎに、まるで予定調和のように家の電話が鳴った。
恐る恐る取ったわたしは、受話器から聞こえてきた母の声に無事を知ってホッと胸を撫で下ろす。しかし続けられた言葉に、わたしはその場に凍りついた。
「……ジニーに代わってもらえるかしら? ハリーが襲撃者に襲われて……今も、意識が戻らないの」
その一報の後、辺りはしばらく騒然となった。アルバスは愕然とした顔をしていたし、ジェームズも眉を顰めていた。リリーは周囲の剣呑な雰囲気に当てられて泣き出してしまい、ジニーおばさんに抱かれている。シリウスおじさんとリーマスおじさんがなんとか場を収めてくれたものの、二人の表情も強張っていた。
「ソラは、来るかい?」
ハリーおじさんのお見舞いに行くかとリーマスおじさんに問われ、わたしは思わず首を横に振っていた。リーマスおじさんは強くは言わずに「お留守番を頼むね」とわたしの頭を軽く撫でた。
皆が出払った後、わたしは自室で一人、膝を抱えて座り込んだ。
(……今度は、ハリーおじさんが)
闇祓いを狙った襲撃事件。確かに、ハリーおじさんだって闇祓いだ。
……というか……さぁ。
「もう、どうすればいいんだろう……」
……母への襲撃を止めるという最初の目的は、一応果たされた……のかもしれないけれど。
母に加え、ニンファドーラおばさんにハリーおじさんと、もうキリがない。
(でも……ここで諦めるってことは、ハリーおじさんを見捨てるってことになっちゃう?)
そのことを直視すると、息が詰まる心地になる。
ハリーおじさんだって大切だ。ハリーおじさんの襲撃を聞いた時の皆の顔を思うと、罪悪感が溢れ出す。
……本来ならば、そこで襲撃されるのはハリーおじさんではなかったのだ。
そう思うと……。
その時、廊下を歩く誰かの足音が聞こえてきた。その足音はわたしの部屋の前で止ま、……ったと思ったらそのままノックもせずに部屋の扉を蹴り開けたので、わたしは膝を抱えた体勢のまま、半ば呆然とその侵入者を出迎えることになった。
というか、ヒカルだった。
わたしがノックの重要性について思考を巡らせている間にも、ずんずんと部屋に押し入ってきたヒカルは、腕を組んだまま傲岸不遜に言い放った。
「おいソラ。お前が隠してること、今すぐここで全部吐け」
……はい?
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