TOP > 金曜日のパラドクス > 月曜日のSynecdoche
「颯ちゃん、来てくれるって!」
そう言いながら、私、那須玲は台所へと駆け込んだ。退院したばかりだからか、普段より調子がいい気がする。トリオン体とは当然比べ物にはならないけれど、それでもいつもと比べて身体が軽い。
「あら、そうなの! じゃあ今晩はご馳走ね!」
お母さんはさすが、理解が早くて助かる。多分お母さんには、私が颯ちゃんに抱く感情のいろんなものが、もうバレているのだろうけど。その辺り、お母さんは何も聞いてはこないから、私もそれに甘えている。
「お父さんにも一言言っておくのよ?」
「はぁい」
それにしても久しぶりね、三年ぶりくらいかしら──そうお母さんが呟くのに、したり顔で頷く。そのくらいは経つ筈だ。
「颯ちゃん見たら、お母さんきっとびっくりするわ。ずっと背が伸びたもの」
「知ってます。玲が良く話しているもの。この前行った喫茶店も水族館も、お母さん写真見せてもらいましたからね」
それもそうか、と照れ笑いを浮かべて肩を竦めた。
お母さんは独り言のように呟く。
「鷹月さんも、息子さんの成長を見たかったでしょうに……楓ちゃんもいなくなっちゃってねぇ。颯ちゃん、ひとりで無理してない? お母さんも、颯ちゃんのこと心配よ。あの子は家族も同然なんだもの」
これからも連れて来なさいよ、という言葉に、そっと微笑んで頷いた。
……でも、お母さん。
彼はそんなに頻繁には来てくれないわ。
(だってこの家には、思い出が多過ぎる)
暗い夜道を、颯ちゃんとふたり、並んで歩いた。時折吹く風は冷たくて、つい身震いしてしまう。すると目敏い彼は「寒い?」と律儀に尋ねてくれるのだ。
「だいじょうぶ」
ここで『寒い』と言ったら、私の手も一緒に、彼のコートのポケットに入れてもらえたりはしないだろうか。なんて不思議なことを考えてみたりもして、おかしくってちょっと笑った。昔はあんなに簡単に、手を繋げていたのに。
昔のままでは、居られない。
楓ちゃんが、いないから。
(──楓ちゃんも、いないのに)
ボーダー本部基地は、立入禁止区域のちょうど中心にある。いや、立入禁止区域の中心だからこそ、ボーダー本部基地がある。不規則に湧く、近界とこの世界を繋ぐ
「玲、食べる?」
ふと、颯ちゃんはこちらに飴の包みを見せてきた。のど飴、はちみつレモン味。
「美味いよ」と颯ちゃんが笑うので、それならひとつ貰うことにした。手を出すも、颯ちゃんはそっと首を振ると、自分の手で包装をぺりっと破く。
「玲、手袋してるから。外すのめんどいでしょ」
ほい口開けて、と言われ、思わずドキッとした。颯ちゃんの方は、照れた様子も特になく、ごくごく普通の顔で差し出している。だから私も澄ました顔で、そっと口を開けた。
「……甘くて美味しい」
「だろ?」
「これも、誰かからもらったの?」
颯ちゃんは割と貰い物が多い。それを頭に置いての言葉だったのだが、颯ちゃんは「いや」と首を振った。
「これは俺が買ったもの。どう? 俺は割と好きな味」
「ふぅん……いいかも」
「だろ、今の俺のブーム。冬いっぱいくらいは続きそう。そういや玲、映画は行った?」
「あ、まだなの。次の週末に、くまちゃんと行く予定」
「おー、楽しんで来いよ」
立入禁止区域の奥に、ボーダー本部はある。『KEEP OUT』のテープをくぐっては先へ進んだ。途端に街灯が無くなって、夜の色が深さを増す。
颯ちゃんが、ぐっと無口になる。つられて私も黙り込んではただ歩いた。半壊した家に、折れた電柱。割れた窓ガラスに、踏み荒らされた畳。口を引き結んで眺めている彼は、一体何を考えているのだろう。
「……あのね、颯ちゃん」
無理に明るい声を上げた。しかし続けた声は、鳴り響いた警報音に掻き消される。
「玲」
咄嗟に、彼の腕を掴む手に力を込めていた。目で促され、そっと手を離す。
『
警報のアナウンスと共に、空間が裂ける音が響いた。
『近隣の皆様はご注意ください。繰り返します……』
「やれるな?」
「……もちろん」
ん、と微笑んだ颯ちゃんが、私の顔から視線を外す。その横顔を見て初めて、信頼されたことに気が付いた。
本当に危ないときは、彼は私に手すら出させてはくれないのだから。
「「トリガー──
声を揃えた。
トリガー。地球ではない、近界の技術で作られた武器。目に見えない内臓、トリオン器官によって生成されるトリオンで戦闘体を作り、生身と入れ替え戦う
トリオン体に入れ替わった身体は、羽根が生えたように軽い。どこまでだって駆けて行けそうな程。その自由さに思わず笑みが零れかけ、慌てて表情を引き締めた。いけない、今は戦闘に集中しないと。
飛んできたブレードを、飛びすさっては避ける。シールドを張っても、あのブレードは喰らえばただでは済まないだろう。決して油断はできない相手だが、颯ちゃんに緊張の色は見えない。
「こちら鷹月。現在警戒区域にて、トリオン兵一体と接触。鷹月・那須で対処……え? あれっ、太刀川さん? なんでっ?」
漆黒のコートが翻る。孤月でブレードを器用に受け流しながら、どうやら本部に通信を入れてくれたようだ。
「えっ、いやだから違うって! なんでンな話になんだよ、……え? 夜のデートお楽しみでしたね……って、違ぇから! ちがっ……アンタ、それ以上言うと俺でも怒るぞ!?」
どうやら、司令部に飛ばしたはずの通信に、何故か太刀川さんが出たようだ。一体、太刀川さんは颯ちゃんに何を言ったのだろう……言いそうなことがいくらでも出てくるから困ってしまう。
「あぁもうっ、忍田さんはぁっ!? はいっ、早く代わって! ……あもしもし、忍田さん!? 颯だけどあの……って替われよ! 笑ってんじゃねぇぞ太刀川ァ!!」
……大丈夫、よね?
物陰に隠れては様子を伺う。颯ちゃんが注意をしっかり引きつけてくれているから、動くと速いネイバーも、こうして見ればなんてことはない。
ネイバーの装甲は分厚く、弱点である目以外だとダメージは見込めない。弾道をしっかり引いては、
──命中。しかし、気付かれた。
こちらを振り返りかけたネイバーが、瞬間大きく体勢を崩す。
「行かせると思うか? よっ!」
颯ちゃんが、ネイバーの前脚を叩き斬ったのだ。蹴り飛ばされたネイバーは、そのままひっくり返っては無防備に腹部を晒した。
「玲、お前の戦功!」
彼が声を張り上げ飛び退く。瞬間私の手元から放たれたアステロイドが、ネイバーを穿いた。
ネイバーはそのまま沈黙する。辺りにも再び、先程までの静けさが戻ってきた。
「……はい、はい。あーもう、やっと代わってもらえた。颯だけど。戦闘終了。怪我人なし。あ、周囲への損害もないから、玲にボーナス付けといて。こいつ上手くなったよ。俺? 俺はいいって、どうせポイントもらっても兄弟子にきっちり毟られるんだ。あ、つーか兄弟子! 忍田さん、太刀川さんきっちりシメといてよ、あんにゃろーが、マジで許さねぇ」
颯ちゃんの口ぶりに、思わずくすりと笑ってしまう。颯ちゃんの兄弟子である太刀川さんは、颯ちゃんのことが可愛くて仕方がないのだろう、いっつも颯ちゃんにちょっかいを掛けては構いたがるのだ。本人の反応がまた面白いから余計構ってしまうのに、颯ちゃんはそれには気付いていないみたい。
彼に駆け寄る。私に視線を向けた颯ちゃんは、軽く目を細めると拳を握り、胸の高さに掲げた。
「やるじゃん」
その拳に拳を合わせる。これだけ動いても、息も乱れないし苦しくもならない。本当に素敵な技術だ、トリオンというのは。
「玲、マジでスゲきれーな弾道引くよな。なんなのあれ、毎回あんな引けるもんか?」
「颯ちゃんもやればできるよ!」
「いや無理だって。出水もだけど、ほんとどーゆー頭してんだっつの」
加古さんも二宮さんもすげぇよな、そう言いながら颯ちゃんは孤月を鞘に戻すと、腰を曲げてネイバーの残骸を覗き込んだ。
「回収に来るまで待ってもいいけど、お前今から防衛任務だもんな」
「あ、大丈夫よ、後で那須隊で片付けるわ」
「あ、そう?」
「うん。だから……」
と、そう続けた声は、聞こえた悲鳴でかき消された。思わず身体を震わせる。
幼く高い悲鳴は、子供特有のものだ。音源はそう遠くはない。
悲鳴が聞こえた瞬間、颯ちゃんはもう駆け出していた。ちらりと見えた横顔には、先ほどまでの余裕が全く伺えない。一歩半、彼に遅れて後を追う。ほんの、時間にすれば一瞬に近いその刹那。しかしもう、彼には追いつけない。
(──はやい)
まるで、察していたかのような──いや、そんなことはないのだ。
もちろん、A級とB級の違い、などということでもなく。
ならばこれは、きっと、覚悟の違いなのだろう。
(ううん、そんな、かっこいい言葉じゃない)
夜闇に、彼が躊躇なく身を投げ出す。漆黒に解けるその身に、思わず手を伸ばしかけた。
「旋空──」
あぁ。
本当に危ないとき、彼は私に手すら出させてはくれないのだ。
「──孤月」
斬撃が、疾る。
今にも少女に襲いかかろうとしたネイバーは、空間を十文字に割いた斬撃を真正面から受けては、地響きを立てて崩折れた。
バラバラになったネイバーの隣にタンッと着地した彼は、険しい表情でこちらを振り返る。こくりと頷くと、少女の元に駆け寄った。
「大丈夫!?」
少女の身には、特に目立った怪我は見受けられない。思わずホッと胸を撫で下ろした。しばらく目を見開いたまま固まっていた少女は、やがて緊張が切れたように私にしがみ付いては震えながら泣き始める。
「……颯だけど。ネイバーもう一匹発見。そいつはさっき破壊して、んで一般市民をひとり保護。子供だよ、女の子。死ぬ心配はしなくていい。……ん、わかってます。ちゃんと本部まで連れてくから、処遇はそっちで決めて。んじゃ、また後で」
そんな言葉で通信を切った彼は、大きなため息をひとつ零しては、大股でこちらに歩み寄ってきた。
「怪我は?」
「してないみたい」
「そ。……おい、アンタこんなとこで何してた」
颯ちゃんの声に顔を上げた少女は、彼の顔を見ては喉をひくつかせた。私なんかはもう見慣れてしまって何とも思わないのだが(チャームポイントとさえ思っているが)、さすがに髪を金色に染めた歳上の男子に睨みつけられるのは、確かに怖いか。
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいぃぃ……」
少女が零すのは謝罪の言葉。ちっと颯ちゃんが舌打ちしたのに、彼女は可哀想なくらい肩を跳ねさせる。
「ここが入っちゃいけねーとこだってことくらいは知ってるよな?」
ぴくん、と頭が揺れる。やがて、少女はこっくりと頷いた。
「じゃあ、なんで」
颯ちゃんは静かに追及する。
「……弟が、もしかしたらいるかもって……そう思ったら、居ても立っても居られなくなっちゃって」
ごめんなさい、と少女はそっと身を震わせる。弟、と呟いた颯ちゃんは「それでもだ」と眉を寄せた。
「ここらで死んだり行方不明になられたら、俺たちボーダーの仕事が増えんだよ。死にに来たってんなら、人様に迷惑掛けないとこで勝手にくたばりやがれ」
煽るようにそう言った、彼の口調はそれでも柔らかで優しい。
「次はもうちょい運が良けりゃいいな。でもまぁ、今はまだ死ぬときじゃなかったってーことなんじゃねーの」
怖かっただろ、と颯ちゃんは呟く。
「なっさけない悲鳴上げるくらいには、怖かったんだろ」
顔を上げた彼女の頭に軽くゲンコツを落とした彼は、ゆっくりと立ち上がった。
「本部でもー一回怒られろ。今度はおっかねぇ大人たちにな。思慮も分別もある大人たちだから、泣き喚いて怒鳴り散らしても受け止めてくれる。ストレス発散には、いーんじゃねーの」
そう言って笑った颯ちゃんを、彼女は驚いたような瞳でじっと見つめる。やがて、彼女は最後にもう一度「ごめんなさい」と呟いては項垂れた。
「わかったらもう、危ないとこに入ってくんなよ」
行こうかと私を促した、颯ちゃんの手をそっと掴んだ。
「どしたの、玲?」
颯ちゃんが邪気なく尋ねる。その目を、じっと見返した。
颯ちゃんの冷えていた手が、徐々に温もりを帯びてくる。気まずさに耐え切れなくなったか、颯ちゃんは先に目を逸らした。
「……何?」
その声音は、私が幼い頃から知っている彼のものだった。
私のことを『玲ちゃん』と呼んでいた頃の彼のまま。少し臆病で、怖がりな、私がよく知っている、彼のまま。
「なんでもない」
そう笑って、手を離した。
「颯ちゃんも、怪我はない?」
「う、うん、大丈夫」
気まずさを打ち消すように彼も笑う。
「このくらいで怪我するほど、弱くないよ。自分の力量くらいは弁えてる」
何度兄弟子にぶった斬られてると思う? 勝てない相手には突っ込んでかないよ、と笑った颯ちゃんに、私も苦笑した。
少女を促し立ち上がらせる。私が彼女の手を握ったのを見て、颯ちゃんは私たちに背を向けた。二歩ほど前を歩き始める。
前を行く彼にも、隣の少女にも。気付かれないよう、声に出さずに呟いた。
「嘘つきだね、颯ちゃん」
いいねを押すと一言あとがきが読めます