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(やっべ、これは確実に遅刻ですわ)
そう思いながら、俺は人気のない通学路をダッシュした。さすがにテスト前、しかも留年も危ぶまれる時期だ。何とか授業くらいはちゃんと受けたい。というか授業受けないと三輪先生にぶっ殺される。
始業時間を過ぎた今、職員室から丸見えの校門から堂々と入る勇気はない。冬でも木々が生い茂った外壁をよじ登っては、敷地内へと無事侵入を果たす。
飛び降りて、息をついた瞬間くらりと視界が回った。その場に座り込んでは目元を抑える。
今から走れば「腹が痛くてトイレにこもってました」で言い訳が効くだろうか。あぁ、でも、ダメだ。気が乗らない。全身がダルい。公園のトイレで吐いたのに、まだ気持ち悪い。
「おっ、颯、さては遅刻かー?」
「わっ!?」
予想もしてない時に声を掛けられて、さすがに思わず声が零れた。咄嗟に身構えるも、出てきた人物に身体の力を抜く。ついつい、苦い顔になってしまうのは仕方ない。
「…………迅」
「悪い子だな、颯ちゃーん?」
「ちゃんを付けんな!」
「ならお前も『さん』をつけろよー、何度も言うけど俺は歳上だぞ? お前さ、他の先輩に対しては普通なのに、俺だけ『さん』も『先輩』もなしで呼ぶから、なんか俺めっちゃ嫌われてるみたいじゃん。小南や太刀川さんからもからかわれるしさ? 俺、颯とは割と仲いいと思ってんだけど」
壁に手をついては身を起こした。軽く頭を振る。
「迅は、迅だろ……今更、『さん』つけても気持ち悪いだけだし……つーか、アンタも何やってんの。もう授業始まってんだろ」
「んー? いやぁ、俺も今来たトコでさ。目覚まし鳴んなかったの、ウケるよね?」
「ウケない」
「颯は、どーしたの?」
一瞬迷った。でも、迅に嘘をつくことすら『今更』だ。
「……猫が、車に轢かれて死んだから」
ぽつりと呟く。
迅は一瞬、呆気に取られた顔をした。と思うと、身を折っては笑い出す。
「……っ、猫……! 颯、お前本当に、何つーか、可愛いやつ……!」
「な……っ! なんだよ! そんなに笑うことか!?」
「いや悪い、ちょっと、予想外で……! あぁ、もう、俺お前のそーゆーとこ好き……!」
「めっちゃバカにしてんだろアンタ!!」
思わず地団駄を踏んだ。この野郎、思いっきり笑いやがって!
ひとしきり笑った迅は、やっと思い出したように「悪かったよ」と謝罪の言葉を口にした。腕を組んでそっぽを向いた瞬間、迅はこちらにペットボトルのミネラルウォーターを投げて寄越す。咄嗟に、腕を解いては受け取った。
「そう言ってはなんだけど、お詫び。颯、今からじゃ一限は間に合わねーよ。拓けた空の下なら、少しは気分も良くなる。行こうぜ」
そう言って迅は、こちらの返事も聞くことなく歩き出した。一瞬立ち竦んでは「……クソ!」と舌打ちをして、その背中を追いかける。
軽い足取りで階段を上る迅のあとを、少し息を切らしては着いて行く。なんでこうして、言われた通り迅のあとを追っているのかはわからない。腕を掴まれてもいないのに。自分から追いかけるなんて、なんで。
屋上へと辿り着いた迅は、そのまま無造作に重たい扉を押し開けると「颯」と笑って手招きをした。
「いい風だ。今日は、いー天気だよ」
「……寒いって」
はっはと笑い声を上げた迅は、ぐっと気持ち良さそうに伸びをすると「ま、確かに寒いわ」と首元を手繰る。
「颯、こっち。ここなら、風が来なくて結構ぬくい」
機械室と階段の間に、少し寄りかかれる場所があった。ちょうど二人が座れるくらいの、決して広くはないスペース。少し躊躇って、迅の隣に座り込む。確かに、風が遮られて寒さは凌げる。
「静かだな」
迅悠一は、そんな言葉を口にした。
階下でのざわめきも、世界の雑踏も、この空の下ではどこか遠い。
風の吹き抜ける音すら聞こえないこの場所で、気付けば大きく息を吐いていた。未開封のペットボトルのキャップを開けると、口を付ける。喉にじっとりと残った何かをそれで押し流すと、膝を抱えては頭を埋めた。
「アンタは、なんで……の」
そんな言葉は、心の深い場所から溢れ出た。
「ん? わり、聞こえなかった」
「……アンタは、なんで……卒業、しちゃうの」
冬が終われば、春が来る。
春になると、この人は制服を脱いで、この校舎からいなくなってしまう。
膝に頭を押し当てたまま、迅を見上げる。迅は軽く目を瞬かせたあと「なに、さみしーの?」と笑った。
「っ、バカ、バカ、何気持ち悪いこと言ってんの。さみしーわけないじゃん」
「颯がそこまでねだるなら、もう一年くらいいてやってもいいかもなー。あ、でも、お前が俺に追いつくまでにはあと二回留年しなきゃいけないのか。それはちっときついかなー」
「ねだってねーよ! ……俺は、ただ」
春になると、この人は。
「アンタが……まともに卒業するっていうのが、なんだか物凄く、信じられないってだけ」
春になると、この人はいなくなる。
当たり前に、学年が上がり。
当たり前に、卒業式に出て。
当たり前に、卒業証書を受け取って。
当たり前に、この校舎からいなくなる。
そんな『当たり前』を、俺はこの人に上手く見いだせない。
「なんで……」
そんな、当たり前の顔で。
当たり前のように、息ができるの。
「……ま、正直言うと、俺も途中でドロップアウトするかもなっては思ってた」
空を見上げて、迅は呟く。
「自分でも、結構驚いてるんだけど。まぁバカで留年もそうだけど、中退とか、全然ありえた未来だし。……でもまぁ、これはこれで良かったとは思ってる。だからお前も、もうちょっと頑張ってみてよ」
背中を軽く撫でた手は、体温も残さず離れていった。
「大丈夫。お前はちゃんと進級できるよ。俺のサイドエフェクトが、そう言ってる」
「…………」
「なーに気にすんなって! 自分のこと考えんのに、何の引け目もいらないっつーの」
「……うん」
頭をぐしゃりと搔く。そんな俺に、迅はそっと視線を向けた。
「……何が、お前の中で引っかかってんの?」
「…………」
引っかかっていること。
心の奥底でざわつく、違和感の理由。
「…………卒業証書」
呟いた俺に、迅は目を瞬かせる。
「卒業したら、卒業証書がもらえんじゃん」
「んっと……まぁ、そうだな」
不思議そうな顔ではあったが、迅は律儀に相槌を打った。目元を擦っては息を吐く。
「中学の時は、もらえたんだよ」
「えっと……卒業証書が?」
「楓の分も。二人分」
一瞬後、迅は「あぁ」と、全てを納得したような声を零した。
「だからさ……なんか、ヤなんだ。どんどん、楓の居場所が無くなってくような、そんな気がして」
鷹月楓。
俺の、片割れ。
楓の隣は俺の席で、俺の隣は楓の席。
生まれた時から、それが当然だった。
俺たちは、ふたりでひとつ、だったのに。
「……わり。俺には、お前にかける言葉が見つからない」
迅はやがて、小さな声でそう言った。
「別に、いーよ。慰めて欲しかったわけじゃない」
どうせ、考えてもどうにもならない話だ。
考えて、どうにかなってしまう話じゃない。
「…………なぁ、颯」
「ねぇ、迅って卒業したら、どうすんの? 太刀川さんみたいに大学行くの? それともボーダーに就職?」
振り返ってそう尋ねる。迅は一度呼吸のタイミングを違えたが「あ、いや」と視線を虚空に彷徨わせた。
「進学は、しない。就職……まぁそのままボーダーにいるつもりだから、これが就職って言うのかはちょっとわかんないけど」
「ふぅん……そっか」
なんだ、太刀川さんと同じ大学に通う迅も、なかなか見ものだなと思ったのだけれど。
その時、授業終了のチャイムが鳴った。まだ水の残るペットボトルを軽く振りながら「んじゃ、留年回避のために頑張ってくる」と立ち上がる。
「おー、頑張って来いよ。ちなみに次の授業は?」
「国語。俺の一番苦手な科目」
「あー、俺も苦手だったわ」
「感情移入なんてできないよな? 無理があるって」
「まぁなんとか頑張れよ。お前、やればできる子なんだから」
「ほんとかなぁ? ま、アンタの言葉を信じるよ」
そう言って数歩歩き出したものの、そういえば、と思い返して足を止めた。振り返り、まだ座り込んだままの迅を視界に入れる。
「ありがと、迅」
呆気に取られた顔をした迅に、中身の入っているペットボトルを軽く振った。
「水。どうもな。んじゃまた」
「あ、あぁ」
風に押し流されるまま、屋上から出る。重たい扉が勝手に閉まるのを尻目に階段を駆け下りては、一年の自分の教室へ。騒つく教室に滑り込んだ瞬間「あっ、鷹月!」と怒鳴り声が背中に突き刺さった。
「げっ、三輪」
うわぁ怒ってるぅ。声だけでわかるぅ。
恐る恐る振り返ると、予想通りご立腹の三輪先生が、眉間に深々と皺を刻んでは腕組みをしていた。
「テメェ遅刻とはいいご身分だな? あ?」
「悪かった、悪かったって! ごめんなさい三輪先生!」
慌てて両手を合わせては拝む。眉をひそめた三輪は「なに、どうしたんだよ」と尋ねてきた。
「あっはは、目覚まし鳴んなかったんだわ。ウケるだろ?」
「全然ウケない。バーカ」
俺に白い目を向けた三輪は、はぁとため息をつく。
「お前、今日任務ないよな? 奈良坂が少しお前の勉強見てくれるって話だから、帰りに俺の教室に寄れ。以上」
朝言おうと思ったのに教室いないから、と睨みを利かされ、つい肩を竦めた。と、三輪は俺に指を突き立て、言う。
「こないだみたいにドタキャンしたら、奈良坂から那須さんにチクってもらうからな」
うひ、と思わず頬を吊らせた。奈良坂は玲のいとこだから、そんなことされたら玲に話が伝わることは確実だ。
「返事は!」
「……はぁい」
「よし」
肩を怒らせながら、三輪は自分の教室へと戻っていく。そんな三輪の背中をなんとなしに眺めていた俺は、クラスメイトに名前を呼ばれて目を逸らした。
「ん、なに?」
──冬が終わって、春が来る。
春までに、一体何が変わるのだろう。
変わらないまま残っているものは、一体いくつ、あるのだろう。
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