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雨女だと、昔からよく言われる。
それは、雨雫澪という名前からだったり、じっとりとした性格だったり(自覚はある)。実際、運動会や遠足が雨のせいで中止になることは昔から多かったし、もしかしたら本当に雨を降らせる何らかの能力を持っているのかもしれない。
──でも、でも、でも。
「今日の雨も、わ、私のせいだって言うんですか……っ」
傘はどこかに落としてきた。カバンと、凍えて震える小さな子猫だけを胸に抱きかかえ、今にも雪に変わりそうなほどに冷たい、真冬の霧雨の中を駆け抜ける。
考えなんて、何もなかった。
でも、脳裏に真っ先に浮かんだのは、あの人の顔で。
何か具体的な案があったわけじゃない。
でも、あの人なら、絶対になんとかしてくれるって信じたから。
ボーダーの中を走る私を見て、隊員はぎょっとしたように道を開ける。申し訳ないけれど、そんなものに構っている暇はない。
だって、だって、だって。
はやくしないと、この子が。
隊の扉を勢いよく開けると、叫んだ。
「助けて……っ、この子を助けてっ、隊長!!」
鷹月隊。隊長、鷹月颯を主軸に据え、攻撃手に綾崎律を、狙撃手に宮瀬唯を擁するボーダーA級部隊。鷹月颯が近界遠征へのためだけに集めた、雑多な変わり者の寄せ集め。力はあるもののまとまりはなく、個性が強すぎて手に余る、変人どもの吹き溜まり。
それでも、この隊の居心地は良くて。ついつい「ただいま」と口にしてしまうくらいで。
それは、きっと、鷹月先輩のおかげなのだ。
「……雨雫先輩、びしょ濡れ」
唯くんが、珍しくも顔を上げては呟いた。目を見開いた鷹月先輩は、一瞬後バッと起き上がるとこちらに駆け寄ってくる。強く私の腕を掴むと「行くぞ」と押し殺した声で言い、そのまま廊下を走り出した。
「た、隊長、たいちょう、この子、助かります? 助かりますよねっ!?」
目の前を行く広い背中に、縋るように尋ねていた。鷹月先輩は振り返ることなく呟く。
「助かる助からないじゃない、助けるんだよ」
その通りだった。ぐっと呼吸を飲み込んでは、強く奥歯を噛み締める。
「……っ、迅!」
鷹月先輩の鋭い声に、軽く俯いた姿勢で廊下を歩いていた迅さんは、弾かれたように振り返った。その顔に普段の笑みを灯した迅さんは「どうした颯、怖い顔して」と軽口を叩きかけたものの、私の顔と、腕に抱えた子猫を見ては笑顔を消す。
「どうしよう、迅」
「……専門外かもしんないけど、まずは医務室に連れてけ。あとは、嵐山隊の充が多分一番詳しいから」
わかった、と短く頷いた鷹月先輩は、ばっと迅さんに頭を下げた。そのまま強く私の腕を引いて行く。鷹月先輩の指が食い込んで痛いけど、痛いなんて言っていられない。
振り返って見た迅さんは、無表情で鷹月先輩の背を見つめている。慌てて迅さんに頭を下げると、迅さんは柔らかな笑みを浮かべてこちらに軽く手を振った。
「俺は、時枝呼んでくるから」
医務室の前で、鷹月先輩はそう言って私の腕から手を離す。よろしく頼む、と肩を叩かれ、泣きそうになりながらも頷いた。
「す、す、すみ、すみません、ひゃ、あ、あの……っ」
この子を助けてください、と、医務室の方々に頭を下げた。医務室のみなさんは驚いたように私を見たものの、私が腕に抱いた子猫を見ては立ち上がる。小さな温もりが手から離され、毛布に包まれるのを、私は何も出来ずにただ見つめていた。
「猫……! 猫はどこです!? 猫は!」
そんな声と共に、嵐山隊の時枝先輩が息急き切って駆け込んできた。猫をおうちで飼っているらしい時枝先輩の指示のもと、再び場が慌ただしく動き始める。ただ立ち尽くしてその様子を眺めていたら、鷹月先輩に肩を叩かれた。
「澪、お前もそんままだと風邪引いちゃうだろ。びしょ濡れだぞ、着替えてこい」
「で、でも、でも……」
「だいじょーぶ。……もう、心配いらないから」
その言葉に、ほっと力が抜けた。思わずへなへなと崩れ落ちそうになり、鷹月先輩に支えてもらう羽目になる。
「あーもう、ったく」
「す、すみません……」
着替えてきます、と逃げるようにその場を立ち去った。トイレで涙を拭ってから、オペレーター仕様のトリオン体に換装する。
慌てて戻ると、時枝先輩は「あ、雨雫さん」と声を漏らしてこちらを振り返った。ひぇ、と思わずわたわたするも、私は時枝先輩に助けられた身だ。
「と、時枝先輩、その、ありがとうございます……っ」
勢いよく頭を下げた。時枝先輩が小さく息を吐いたのに、びくりと肩が震える。
時枝先輩は、そのまま淡々と口にした。
「……雨雫さん。猫とは言え、ひとつの命だ。助けるのも責任が伴うんだ。きみは、その責任の所在を考えたかい? 助けたってことは、最後まで面倒を見るってことだ。今後のことを少しでも考えたかい? ただ『かわいそう』だけで拾ってこられても、困るんだよ」
──顔を、上げられない。
その通りだと思った。
これからこの子はどうすればいいのだろう。私の家に連れて帰って飼う? それとも里親を見つける? 里親なんて本当に見つかるの? 見つけるまでの期間は、一体どうすればいいの?
家に、連れて帰ったところで。
両親が一言『ダメだ』と言えば、それで全てが終わってしまう。
それを覆すことは、まだ子供の私たちにはできない。未成年者で、保護者が必要な、まだまだ無力な子供たち。
──あぁ、ダメ。
「ごめんなさい……」
ただそれだけを、何とか絞り出した。
俯いているから、今にも涙が零れそう。泣いちゃダメ、泣いちゃダメなのに。ぐうっと息を止めても、じわりと目に涙が溜まる。
「ま、でも、お前が子猫の命を救ったのは事実だよ。な?」
暖かくて大きな手が、私の頭を軽く撫でた。鷹月先輩の手だ。
「澪。ひとりで対処しなくていい。ひとりで抱え込まなくっていい。お前には仲間がいる。俺がいる。俺を頼りにしてくれて、ありがとう」
その暖かさに、思わず涙が零れ落ちる。
「時枝、玲がカイロ持ってるって。あと風間さんから、牛乳ならあるぞって連絡来た。そんで、仁礼が影浦隊に猫用の哺乳瓶あんだって」
「あ、良かった。那須先輩と仁礼先輩のは有難くお預かりしたいです。風間さんのはいらないですね、人間用でしょ? この子まだ飲めませんよ」
「あ、そーなの? んじゃ大人しく太刀川さんパシろーっと」
「それがいいかもです。子猫用のミルクはペットショップにあると思うんで。ところで、なんで影浦隊、猫用の哺乳瓶あるんですか」
「影浦先輩が拾って来たんじゃね? 次点で二宮隊に聞こうと思ってた。あの辺の人ら猫拾いそう」
「めっちゃ勝手な思い込みですね」
「影浦隊はビンゴだったんだから別にいーだろー? ……あ、もしもし、太刀川さん? 颯だけど、あのさー」
頭を撫でていた手が、そっと離れて行った。声が遠ざかっていく、その隙にぐしぐしと涙を拭う。
そんな私の様子をじっと見ていた時枝先輩は、「きみは、いい先輩を持ったね」と、鷹月先輩に聞こえない位の声で囁いた。
「……う……はい……」
声が出ない代わりに強く頷く。と、時枝先輩は「よし、完了」と言って、私に携帯の画面を見せてきた。
「猫の飼い方の本、時枝セレクションズ注文しといた。明日鷹月隊に届くはずだよ」
おれもいい先輩でしょ、と静かに微笑む時枝先輩に、同意しようとした声は嗚咽で掠れた。
「隊長、お世話かけてごめんなさい」
鷹月隊へと戻る道すがら、毛布の中ですやすや眠る子猫を抱えながら、私は鷹月先輩に頭を下げた。鷹月先輩は頭を掻くと「ん、ま、時枝にしっかり怒られて反省したみてーだし、いーよ」と軽く言う。
「はい……あの、この子は私が、ちゃんと責任持って里親を探します……もう、隊長のお手を煩わせるようなことは、しませんから……」
「え?」
「……え?」
何故か鷹月先輩は、きょとんとした顔で私を見下ろしていた。どうしてそんな顔をしているのかわからないまま、ただその顔を見返す。
「……あー、俺、ちょっと早とちりした、かも?」
「へ?」
「その猫、うちの隊で飼うことになったのかと、てっきり」
鷹月先輩の言葉に、思わず息を飲んだ。
「……え、だって、だって、隊長、動物あんま好きじゃ」
「んーまぁそうなんだけど、え、俺結構その体でみんなに話付けちゃった」
「いやいや……! だ、だって、鷹月隊は、隊長のなんだから、そんな隊長の許可なしに」
「えーだってお前ら俺の話聞かねーし? だから今回もそーゆーもんかと思って。うちの隊ならいつだって誰かしらがいるし、澪も家よりこっちにいる方が多いだろ。ま、誰かが里親になってくれるっていうならまた別だけど、それまでの間は別にいいよ」
鷹月先輩はそう言って笑う。一拍息を止めた後、私は呟いた。
「……隊長。私のファーストキス差し上げてもいいですよ」
「いらん」
「まぁそう言わずに」
「いやマジでいらねぇ」
「冗談です。何勘違いしてるんですか?」
「いや、微塵たりとも勘違いしてねーけど!?」
鷹月先輩がツッコミを入れる。そんな様子に苦笑して、子猫の暖かい体温を抱き寄せながら、もごもごと「ありがとうございます」と口にした。
「おう。鷹月隊の隊員第五号、だな」
子猫に顔を近付けて、鷹月先輩はにっと笑う。
鷹月先輩の、そういうところが。
(私も、律ちゃんも、唯くんも)
みんなみんな、大好きなのでした。
「ところで、そいつの名前何にすんだ?」
「んーっと、『五号』とかいかがでしょう」
「……正気か?」
「冗談です。そうですねぇ、それじゃあ『ニャア』と」
「……そいつも冗談?」
「え? 本気ですよ?」
「……………………おう、マジか」
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