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「もう知らないっ、颯のバカ!」
楓が吐き捨てた声を、遠ざかっていく足音を、顔も上げずに聞いていた。
「バカなのは、どっちだよ……楓のバカ」
でも、これが最後になるなんて、そんなの思ってもいなかったんだ。
だって、だって、だって、楓は。
楓は、死なないはずだったのに。
今日の防衛任務にて、那須隊は早朝のシフトだった。寒いし眠いしであまり人気はないものの、その分お給料は悪くない。「ちょっと早起きしてもらうことになるけど、ごめんね」と隊のみんなに手を合わせた那須に、文句をつける人なんてこの隊にはいないのだ。
ということで、本日熊谷が校門を通り抜けたのは、二時間目が始まって半ばほどの時間だった。校舎に入って、はたと思わず立ち止まる。教師から遅刻の認可は得ているとはいえ、授業中の教室に入るのはなかなか気まずい。こんなことなら、どこかで二十分ほど時間を潰してくれば良かったのに、いつものクセでついここまで辿り着いてしまった。
真っ直ぐ教室に向かうのもなんだか気が向かなくて、なんとなく足はうろうろと校舎を彷徨う。学校には大勢の人がいるはずなのに、廊下は静かで閑散としていた。なんだか不思議な気分にもなる。
渡り廊下から外に出た。なんとなく歩いていると、校舎に沿って据えてある自動販売機が目に止まる。飲み物でも一本買うかと思ってそばに近付いたその瞬間、自動販売機とゴミ箱の間に金髪頭を見つけて思わず肩を震わせた。ちょうど死角になっていた。
金髪頭──鷹月颯は、自動販売機にもたれ掛かっては膝を抱えて頭を埋めていた。手を伸ばしかけ、もし別人だったら、と一瞬躊躇する。しかしこの学校でこんな明るい髪色は彼くらいのものだと思い直して、肩を揺すった。
「ちょ、ちょっと、鷹月、何やってんの」
鷹月は小さく呻くと首を振る。眉を寄せたまま薄っすらと目を開けた鷹月は、一瞬視線を彷徨わせたものの、熊谷を見てはぼんやりと顔を上げた。
「何やってんの。こんなとこで寝てたら、さすがのアンタも風邪引くわよ。というか授業は一体どうしたのよ、とっくの昔に始まってんのよ」
「あー…………うん……」
眉間に濃いシワを刻んだまま、鷹月はガシガシと頭を掻いた。なんだか、今日は普段よりも機嫌が悪そうな雰囲気だ。なつっこく苦労人気質の彼も、こうしてしかめっ面で口数少なくいたら中々に近寄り難い。
(あたしに、そんなんで怯むような可愛げなんてないけど)
「ん、あれ、熊谷……なんで……?」
「なんではこっちのセリフ。あんたこそ、なんでこんなトコで寝てんのよ」
「あー…………えっと、今何時?」
「二時間目の半ばくらい。あんたね、せっかくテストの点ギリギリ取れてても、授業態度がそんなんじゃ……」
二時間目のなかば、と鷹月は口の中で呟くと、自動販売機に手を付きながら立ち上がった。そのままふらふらと、教室とは違う方向へと足を向けようとする。慌てて声を荒げた。
「ちょっと、鷹月! 授業は!?」
「んあ、サボる。あー、あとさー」
鷹月はそこで熊谷を振り返ると、へらりとした笑顔を浮かべた。
「玲には、ナイショで」
「だいたいお前は計画性というものが無さすぎる。そうやってやりたいことしかやらないから」
「あーへーへー、わかってんよ」
後期試験の結果が出た金曜日。頼んでもいないのに、二宮が太刀川と共に教授に頭を下げて頼み込むこと一時間。追加レポート提出でお情けの単位を頂けるようになったのは良いのだが、しかし二宮にこうしてくどくどお説教されるくらいなら、とも思ってしまう。
「太刀川、聞いているのか!?」
「聞いてる聞いてるー。俺のためにお前の安くもない頭を下げてくれてありがとよ、二宮クン」
全くお前は、と飽きることなく言い続ける二宮に、思わず肩を竦めた。
「今日帰ったらちゃんとやれ。進んでなかったら明日、お前の弟弟子の隊で軟禁する」
「えーやだよー明日って土曜じゃん、一番人集まる時だからソロやりてーよー」
「やりたいのなら終わらせてからだ」
えーとも思うが、顔をしかめただけで流石に言うのは自重した。
今から防衛任務だと言う二宮を見送り、そのままなんとなく街を歩く。今ボーダーに行ったらレポートは間違いなく手付かずになる。今日は大人しく家に帰るべきかとは思うものの、まだ日の高いうちから家に帰るというのも気が進まない話だ。
桟橋に差し掛かる。ぼんやりと歩いていたら、ふと正面から迅悠一がこちらに向かってくるのが見えた。おっと身を乗り出したその時には、もう既にレポートの存在はどこか彼方へと吹っ飛んでいる。
「おーい、迅!」
彼が気付いていない筈もない。普段通りのへらっとした笑みを浮かべた彼は、軽く右手を上げた。
「太刀川さん」
「あれ? お前、学校は?」
迅が身にまとっている学生服に目を留め、尋ねると「高三はもう授業ないから早いお帰りなの」と返事が来た。言われてみれば、自分が高校三年生の時もそうだった気もする。
「ん、そういやお前って進学すんの?」
「しないつもり。おんなじこと颯にも聞かれたよ。なんで卒業しちゃうの、って言われた。なんでって普通聞いちゃう? ほんと可愛いやつ」
苦笑して、迅は足を止めると橋の欄干にもたれかかった。急ぐ用事もないので、太刀川も迅に倣う。
「学生服ももういらないから、颯にやっちゃおうかな。あいつでかくなったよね? 昔はほんとチビだったのに」
「あー、憶えてる。だって中一の頃のあいつ、身長150もなかったもん」
「子どもの成長ってのは早いもんだよな」
「子どもって、颯はお前とふたつしか違わないだろ」
「俺にとっては子どもみてーなもんだよ、颯は。いや……違うな。颯は、太刀川さん、俺にとって、あいつはさ……」
冷たい風を正面に受け、迅は笑う。その横顔から、微笑みは静かに抜け落ちた。
「颯は、俺の、ありえたかもしれない未来なんだよ」
──ナイショと言われたところで、そんなお願いを聞く義理は熊谷にはないのだ。
「聞いてよ、玲。鷹月がね……」
学校終わり、ミーティングを行うために那須玲の自宅へと足を向けた熊谷は、ベッドで細い身を起こす那須に対し、開口一番午前中の鷹月颯についてを話して聞かせる。あいつ本当にバカよ、そう笑って那須の顔を見た熊谷は、那須が自分の予想と反して青ざめている様子を見て、思わずそこで言葉を切った。
「……くまちゃん。ちょっと電話、ごめんなさいね」
そう言うが早いか、那須は手元の携帯電話をタップしては耳に当てる。しかし繋がらなかったらしく、那須にしては少し手荒な仕草で携帯電話を離した。今度は違う番号に掛ける。
「……あ、もしもし、小南ちゃん? 突然ごめんなさい、迅さんは? ……そう、いないのね。ううん、帰ってきたら連絡ちょうだい、お願い。そう……うん、ありがとう」
そう言って電話を切った。そのまま那須は携帯電話を胸に抱くと、目を閉じ大きく息を吐く。
「……どうしたの? 今の、一体……?」
理由はわからないけれど、しかし那須の今の行動が、熊谷の話に依るものなのは間違いない。唾を飲み込み尋ねると、那須はそっと微笑んでみせた。
「……うん。くまちゃんには、お話しておくわ。えっと……颯ちゃんが、サイドエフェクトを持ってることは知ってるかしら」
そのことならば、耳にしたことはある。しかしあまり誰も口にはしないから、半ば忘れかけていた。
そう話すと、那須は微笑んだまま目を伏せる。
「……うん。そう、あんまり誰も、本人さえも、滅多に言わない副作用。……私の幼馴染、鷹月颯はね……」
「近々死ぬ人のことが、わかるのよ」
「颯のバカ、またなんか視たのかよ」
太刀川は思わず舌打ちをする。
いつも、いつだって、そうなのだ。
太刀川慶の弟弟子、鷹月颯が持つ『予死視』のサイドエフェクト。近い将来死ぬ相手の、死に様と死ぬ時期がわかってしまうこのサイドエフェクトのせいで、後先考えることなく突っ走る弟弟子を、太刀川慶は三年間、ずっと見てきた。
「さすが、太刀川さん。話が早い」
迅悠一はそう言って微笑んだ。太刀川はシワの寄った眉間を擦ると、普段弧月を差している左腰に手を当てる。しかしトリオン体では無かったため、手はそのまま滑り落ちた。
「俺は、何をすればいい」
「今回太刀川さんは何もしないで。俺も何もしないから」
「弟弟子を、見殺せと?」
「うん。お願い、見殺して?」
迅の笑みは崩れない。それをじっと睨みつけ、舌打ちをしては髪を掻き上げた。
迅悠一は続ける。
「近い将来、鷹月颯は、居眠り運転のトラックから、女性とベビーカーの子供を助ける代わりに事故に遭う。これは避けちゃいけない未来だ。下手に俺たちが介入すると、颯は逆に死にかねない」
「そこまで視えているんだとしたら、どうにか回避はできねーの?」
「回避できないこともないけど、そのためにかかる労力とカネを鑑みると、今回は颯に片腕折ってもらった方が『得』かなって」
「俺が入っても?」
「太刀川さんが入っても」
どうやら、太刀川の弟弟子の腕が折れるのはほぼ確定の未来であるようだ。まぁ、と太刀川も、弟弟子のことを思い、思う。死にはしないのならそこまで気を揉むことはない。片腕ごときで二人の命が助かるのなら、そんなの安いものだとあのバカは考えるに違いない。否──
そんな太刀川の思考を読んだかのように、迅は口を開いた。
「考えもしないよ、颯は。そんな損得を考えられるような器用なやつじゃない。……ねぇ太刀川さん。鷹月颯は、一体誰のために死ぬんだと思う?」
迅はそうやって、試すようなことを言う。迅の答えは決まっているのだ。もったいぶるなと顔を顰めて促すと、迅は軽い口調で謝罪する。
「颯は、俺の弟弟子は、誰のためにも死ぬやつだよ。そんなことくらい、今更お前に言われなくったって知ってんだよ」
誰のためにも命を賭けて。
誰のためにも身を張るのが、太刀川慶の弟弟子の生き方なのだ。
そう言うとしかし、迅悠一は声を上げて笑った。
「太刀川さん、それは違うよ。大いなる誤解だ。太刀川さん、知ってるくせに。ほんと、びっくりするぐらい優しいんだから、太刀川さん」
太刀川は、笑わなかった。
迅は太刀川から目を逸らすと、どこか遠くを見ては笑みを消す。
「鷹月颯が死ぬのはね」
その声は、静かに鼓膜を震わせた。
「迅悠一の、せいなんだよ」
鳴り響いた着信音に、大きく身を震わせたのは那須の方だった。一度取り落とした携帯電話を慌てて拾い上げると、画面を見ては目を見開く。
「もしもし、颯ちゃん!?」
強張っていた那須の肩が、一瞬後安堵でふわっと落ちた。
「あぁもう、心配させないで……今どこなの? えっ病院? 事故? えっだいじょうぶなの? ……それはだいじょうぶって言わないの!」
口調は厳しいものの、那須の口元は緩んでいた。その横顔を見て、あぁこの子は本当に、鷹月颯のことが大切で仕方ないのだと思い知る。
「……うん、うん。わかったわ。でも、良かった。お大事にね、颯ちゃん。忍田さんにもよろしく」
そう言って、那須は通話を切ると、再び携帯電話を胸に押し当てては息を吐く。先ほどと同じ仕草ではあったが、それでも顔色が全然違った。
「鷹月、どうしたって?」
「右腕折って全治二ヶ月ですって」
「は!?」
「車に轢かれてその程度なら、安いものよ。居眠り運転だったらしいわ。……でも、本当に、生きてて良かった」
那須はそう笑ってはにかむ。二年前に鷹月が死にかけた話を聞かされたばかりの身としては、その表情もわかるというものだ。
「玲の言う『ほっとけない』ってのは、そういう意味だったのね」
熊谷も息を吐いた。うん、と那須は頷くと、そっと目を伏せる。
「……でも、颯ちゃん、昔はこうじゃなかったの。もっとずっと臆病で、外を歩くのも怖がるような、そんな普通な子だったの。……そんな颯ちゃんを、迅さんは、自分の身も案じない無鉄砲に変えてしまった。死にかけても、どんなにボロボロでも、誰かの『助けて』って声で起き上がるような──そんなヒーローに変えてしまったのは、迅さんなの」
綺麗な眉をぎゅっと顰めて、荒い語調で、那須玲はその言葉を口にした。
「颯ちゃんが死んだらその時は、私は迅さんを許さないわ」
「俺に手を出すなと言うんなら、どうしてわざわざ、俺に颯が事故に遭うことを知らせたんだよ」
太刀川は疑問に思って尋ねる。
そうだ、そもそも、そうなのだ。
迅に聞かされなければ太刀川は、弟弟子が事故に遭うことなんて知り得ない。助けることも、手を貸すことも、できないどころか考えもしないだろう。
わざわざ手を出すなと言うのなら、それなら未来など知らせなければいい。
「……あは。そこ、気付いちゃう?」
何故かそこで、迅は酷く苦しげな顔をした。
「……今回は、大丈夫、なんだけど。それでも言っとかないと、どうしようもないからさ……」
彼女は俺を許さないけど。
今にも泣きそうな顔で、でもその瞳に涙は決して浮かべないまま、迅悠一は呟いた。
「太刀川さんに、許される未来が、視えたから」
だから、言いに来たんだと。
「颯が死んだら俺のせいだから、太刀川さんは一生、俺のことを許さないでね」
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