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──ずっとずっと昔から、物心つくより以前から。
まだ『死』というものが何なのかを理解するよりも前から、いつだってそれは、俺のすぐそばにいた。
初めて『これが変なものなんだ』と自覚をしたのは、今よりももっと小さかった頃に、入院していた母方の祖母が死んだ時。
「おばあちゃん、今日死んじゃうよ」と、そう呟いた俺は、次の瞬間思いっきり母に張り飛ばされた。
『そんなことは言ってはいけない』『ヘンなことを言わないで』
──その後、祖母の亡骸にすがりつく母を見つめながら、張られた頰を擦ったことを、憶えている。みんな泣いていて、楓も父のズボンを握りしめては涙を零していて。でも、俺だけ、全く泣けなかったことを、今でも強く、憶えている。
だって、だって、視えていた。
視えていたし、知っていた。
祖母がこの日死ぬことなんて、そんな当たり前でしかないことを皆が知らないなんて、俺は、この時初めて知ったんだ。
これが、見えない内臓にて生成される『トリオン』とやらの
近いうちに死ぬ人のことがわかってしまうサイドエフェクト。ボーダーの人間は俺のサイドエフェクトを、迅悠一の未来視にあやかってか『予死視』と名付けそう呼んだ。
『虫の知らせ』という言葉がある。サイドエフェクトは人間の感覚の延長線上に存在する。だからきみのサイドエフェクトは、その『虫の知らせ』の特化版だろうと──そう教えてくれたのは、確か城戸さんだっただろうか。
そんな理屈付けはどうだってよくて。
俺にとって生まれてからずっとあるものだったこの感覚は、どうやら他の人には備わっていないらしい。双子の妹、鷹月楓にそんなことを言われた当時は、俺は結構な衝撃を受けて。その時俺は初めて、生まれる前から一緒だった楓が、自分とは別の個体なのだということに気が付いた。
人が死ぬのがわかるだなんて、そんなの言っても誰にも信じてもらえなくて。そんな不気味なこと言わないで、怖いよと言われるだけで。いつしかもう、何もかもを諦めた。
それでも、双子の妹である楓と、幼馴染の那須玲だけは、俺の言葉を信じてくれた。
三日後に事故で亡くなる通りすがりの人を視て、震えのあまり立ち上がれなくなったときも。眠るように息をしなくなった人を視て、呼吸の仕方がわからなくなったときも。ベビーカーの中の赤ん坊が溺れて死ぬ未来を視て、思わず気が遠のいたときも。車に轢かれる子猫を視て、涙が止まらなくなったときも。
いつだって、どんなときだって、ふたりは俺と一緒にいてくれた。
外を歩くのが怖かった。それでもテレビも付けられない。見たくないと思えば思うだけ、より鮮明に見えてくる、その人が死ぬ光景と時期。
膝を抱えて蹲って、頭を押さえて目を瞑ってさえいれば、もう何も視ることはないのだろうか。否、声が聞こえた瞬間にわかる。その人が近々死ぬのかどうか。死ぬのだとしたら一体いつ、どこで、どうやって。一度見たことのある相手なら、再度見る必要はない。近々死ぬ相手のことが、手に取るように、くっきりと。
頭がおかしくなるかと思った。もう、おかしくなっているんだと思い直した。だって、普通の人はこんなの視えない。楓も玲も、父も母も、こんなの視えない。俺はおかしいんだ。俺だけが、おかしいんだ。
光景を視せないで。
死ぬかどうかなんて、そんなこと、わざわざ俺に教えないで。
──でも、それでも、人は順応する生き物だ。
(──あ)
近い未来で自殺する人と擦れ違っても、目を伏せるだけでやり過ごすことができるようになった。
普通の顔をして笑って、普通の顔でご飯を食べて。
たまに、それでも耐えられなくなったりはするけれど、ほとんどの場合は何も見なかったかのように振る舞うことが、できるようになってきた。中学に上がった頃には、玲や楓に心配をかけることも少なくなっていて……
そんな時の、ことだった。
──ある日一斉に、街中のあらゆる人に『死ぬ未来』が視えるようになった。
大規模侵攻の、ちょうど一ヶ月前の話だ。
逃げ場が、なかった。
どこを見ても、誰を見ても、その『死ぬ未来』を持つ人は、街中の至る場所に溢れていて。俺の両親も、その例外ではなかった。
年齢も、性別もまるで関係ない。その日に『死ぬ未来』を持った人は、ごくごく普通の人たちばかりで。病気の死に様でもない。交通事故の死に様でも、自殺の死に様でもない。なんだこれわかんない。初めて視る死に様で、でも『死ぬ未来』は決して薄れず消えず、頑としてそこに在り続けた。
一体この街に、何が起こるの。一体この日に何があるの。
何にもわからないまま、ただただ時間ばかりが過ぎていった。何にもわからないまま、何も、できないまま──それでも、それでも。
堪え切れずに一度、夕飯の食器を洗う母に対して、独り言のように呟いた。
「もしおれが、お母さんはもうすぐ死んじゃうんだって、そう言ったら、お母さんはどうする……?」
えぇ? と、母は怪訝な顔で振り返った。
「どうしたのよ、いきなり。悪い夢でも見たの?」
「……へへ。なんでもない」
洗い物おれがやるよ、と、母の隣に並んではスポンジを手に取った。そのまま手を水に浸した俺に、母は呆れた顔をしては後ろに回ると「全くもう、濡れるわよ」と袖を捲る。
「もう中学生になったのに、そういうところは手がかかるんだから」
「うん。……ごめんね。おれ、手がかかる子だったね」
本当よ、と母は俺の頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。両手が泡だらけなので抵抗ができない。うぅ、と呻くと、母は笑った。
「なんでこんな頭にしたんだか。アンタたちが金髪にしたせいで、お母さん何度も学校に呼び出される羽目になったんだからね」
「う、その節は、本当にご迷惑をおかけしました……でも、楓が……」
楓がいきなり、そうすると言ったのだ。俺がいやだと言ったところで、楓は大人しく聞くようなやつじゃない。『颯もやんの! そこに座んなさい!』と言われると、幼い頃からのあれそれのせいで逆らえないんだ……だって楓の方が強いんだもん……。
「ま、そういうことやってみたい気持ちもわからんでもないお母さんなので、許すけど。若気のいたりってやつよね。人様に迷惑かけないことは許してあげます。でもその代わり、深夜の校舎に忍び込んで窓ガラス割ったりとか、盗んだバイクで走り出したりとか、そういうことは絶対しちゃダメだからね」
楓にも言っとくよーに、と母は言って、俺の頭から手を離す。「おっきくなんなさいよぉっ」と俺の背中を叩いては、思い出したように「洗い物手伝ってくれてありがとうね」と言葉を掛けた。
「……うん」
母が去って行く。食器を流し終わって水気を切った。蛇口を捻って水を止める。そのまま手の甲で口元を強く押さえると、しゃがみ込んでは嗚咽と震えを押し殺した。
楓と玲に、死ぬ未来がないことだけが、その頃の俺の救いだった。俺の双子の妹と、ずっとずっと小さな頃からの大切な人。俺の全てを受け入れてくれたふたり。このふたりの前では、いつだって自分のままに振る舞えた。
このふたりの前で嘘を貫き通せたことはなくって、今回こんな怖い話は黙ってようと思ったものの、楓にはやっぱり一瞬で顔色の悪さを見抜かれて、胸ぐらを掴まれては全部吐かされた。さすが、生まれる前から一緒だった俺の片割れ。なんでわかんだろ。でも俺も、楓の嘘はなんかすぐにわかるから、双子ってそういうものなのかもしれない。
楓はそうやって吐かせにくるけど、玲は何も言わないで、ただこちらの目をじっと見つめてくるから、やがて耐え切れなくなった俺の側から自白するのがほとんどだった。こんな荒唐無稽な話、このふたりも信じないだろうと思ったが、予想に反してこのふたりは、俺の言葉を疑うそぶりすら見せなかった。そんなことで俺はひとり、救われたような気分になったけれど、それでも『巻き込んでしまった』という思いは、いつまでも薄れることなくそこにあり続けた。
最後くらいは、いい子でいたかった。
バカなのは……ごめん、一ヶ月くらいじゃ治らなかったけど。遅刻や早退が多かった俺も、その一ヶ月だけは、ちゃんとしようと頑張った。日に日に迫るその日の足音に身震いしながら、毎日学校に行って、お手伝いして、いい子でいようと頑張った。
──そして、とうとう、その日が来た。
玲には、決して家族と離れるなと言い含めておいた。玲は物言いたげに目元を震わせたが、結局は何も言わずに目を伏せて「わかったわ」と呟いていた。
足を、階下の居間に向ける。早朝だけれど、朝が早い父とみんなのお弁当を作る母は、すでに起きて食卓についていた。
起こされる前に起き出してきた俺に、両親は目を瞠っていた。
お父さんには『大好きだよ』と。
お母さんには『ありがとう』と。
珍しくもそんな言葉を口にした俺に、両親は驚きながらも「そんな気分の時もあるね」と笑った。俺も、多分、笑っていたと思う。笑えていたと思う。
ただ、双子の妹である楓だけは、口をぎゅっと引き結んで、物陰から俺を睨みつけていた。
その日は平日だったけど。俺も楓も、制服は着て「行ってきます」と家を出たけれど、向かった先は裏山だった。昔から、学校に行けない時、学校から早く帰ってきた時、ここに籠るのが常だった。少し高台に位置している、誰もいない、誰も来ない、本当に静かな俺たちだけの場所。
「楓、お父さんとお母さんに、お別れ言わなくてよかったの?」
ビニールシートの上に膝を抱えて、おずおずと尋ねる。楓はぎゅっと眉を寄せたまま「いい」とだけ口にした。
「でも……」
「いいって言ってんでしょ!」
剣幕に、あう、と口を閉じる。楓は険しい顔のまま、俺と背中合わせで膝を抱えた。
晴れていた空に、雲がかかる。淀んだ空に真っ暗な穴が数多く開く様を、微かに届く喧騒を、息を止めて見つめていた。
(──あぁ、これが)
これが、地獄というものか。
震える身体を抱きしめ、目を閉じる。
何もかも見ないで済むように、呼吸までも止めたその時、襟首を掴まれ引きずり起こされた。楓だった。
「……何やってんのよ、颯」
「……え?」
「何やってんのよ、って聞いてんのよ」
助けに行くの、と楓は言った。
「あたしたちのお父さんとお母さんを、助けに行かなきゃでしょうが!」
その言葉に、息を呑む。
楓が本気だってことくらい、目を見ればわかった。俺の片割れが、本気でそんなこと言ってるんだって。
「……できないよ、そんなの」
力なく呟く。俺の言葉に、楓は烈火の如く怒るって、そんなことわかっていたけれど。
「っ、お父さんとお母さんだけじゃないっ、たくさんの人が死んじゃうかもしれないんだよ!?」
助けに行こうよ、と楓は言う。
「視えてんでしょ!? あたしと違って、颯には、視えているんでしょ!! なのに、それなのに、どうして! どうして、何もしようとしないの!!」
楓の言葉も、視線も、あまりにも真っ直ぐで。嘘偽りが微塵もなくて、だからこそ、身が震えた。
楓には視えないから、そんなことが言えるんだ。
立ち向かうことなんてできるはずがない。大の大人が、あんなにあっさり死んで行くんだ。見たこともない兵器によって、あまりにも簡単に殺されていくんだ。
視たことがないから、簡単にそんなことが言えるんだ。
「おれに、おれたちに、一体なにができるって言うんだよ!!」
ギッと楓が奥歯を噛み締める。そのまま平手が飛んできた。ジンと痺れる頰をそのままに、俺も強く楓を睨んだ。
12歳の、何の力も持たない子供が、一体何ができるって言うんだ。
ヒーローになんてなれるわけない。
ただ、視えてただけだ。視たくもないものをずっとずっと、ただ視させられ続けただけだ。
視えなければ良かったのに。
視えなければ、こんな苦しさなんて味わわなくって済んだのに。
視えてなければ、俺だってそう、言えたかもしれないのに。
「……臆病者」
楓が、俺の襟首から手を離した。思わずその場に尻を付く。
「なら、あたしひとりで行く」
息を呑んで顔を上げた。それでも楓に死ぬ未来が視えないことを確認し、そっと息を吐く。
「……勝手にしろよ」
再び膝を抱えた俺に、楓はぷっつんキレたようだ。顔を上げずともわかる。俺の片割れが、今どんな顔をしているかなんて、見なくてもわかる。
「……っ、もう知らないっ、颯のバカ!」
楓の足音が、去っていく。熱を持つ頰に手を触れた。膝を抱えたまま、呟く。
「バカなのは、どっちだよ……楓のバカ」
誰かの死に様の光景から、雨が降るのは視えていた。持ってきた傘を差しては、ひとつずつひとつずつ、これまで見たことのある人の命が消える、底冷えのする慣れた感覚にただ耐える。
日が沈んで、日が昇って。一睡すらできるわけがない。雨が止んでもしばらくは、視えるものから心を離し、ただぼうっと傘の柄を抱きしめていた。
顔を上げる余裕ができたのは、さらにその翌日の、お昼過ぎ。
「……楓……」
さすがに、遅いんじゃないか。
だって、お父さんとお母さんは、もう昨日の間に──
身震いをした。居ても立っても居られずに、思わず立ち上がっては街へと下る。
「楓……楓!」
街は、静かなものだった。至るところに戦場の爪痕はあるけれど人気はない。あの、見知らぬ兵器もいない。
誰もいない。
誰もいない。
誰もいない。
「楓! かえで!?」
生きているんでしょ。死んでいないんでしょ。
ねぇ、楓、どこにいるの。
「かえで!!」
俺と楓は、ふたりでひとつ。
生まれる前から、ずっとずっと一緒だった。
ごめん、楓。
ひとりで行かせて、ごめんなさい。
離れたら、生きていけないよ。
「楓、おれの声聞こえるのなら返事して、楓!!」
楓が俺を置いて、避難所に向かうはずがない。いくらケンカしていても、そういうときは絶対俺の元に戻ってくる。
そのくらい知っている。
だって、俺たちは、生まれる前から共にいた。
「楓……ねぇ、楓!! かえで!!」
俺の、世界でいちばん大切なひと。
俺を置いて、どこへ行ってしまったの。
──結局のところ、どこを探しても楓は見つからなくって。ひとり街をさまよっていた俺は、巡回していた忍田さんに保護された。
死者、1,200人以上。
行方不明者、400人以上。
異世界からの侵略者『ネイバー』によって行われた大規模侵攻。
界境防衛機関『ボーダー』、その存在を大きく世間に知らしめることとなったあの出来事で、俺の双子の妹、鷹月楓は結局発見されることはなく、ひとりの行方不明者として処理された。
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